02
「イングリッド・ヴァンス――享年五十七歳」
石造りのデスクにカルテを広げ、椅子の背もたれに深く体を預けた。年季の入った椅子がそれ以上反るなとでも言うように軋みの悲鳴をあげる。
「この数値じゃそりゃ、ハデス様なら『変だ』と仰るわね」
自室に戻ったカリンは霊子カルテを再度深く読み込んでいた。主の御前でざっと視線を走らせただけだったので読み込みが不十分である。
静謐に包まれた部屋、カルテの隣を陣取る砂時計が泰然と鎮座している。下球に溜まる霊砂はまるで彼女の人生の重みを切り取ったようだ。
「未練深度が計測不能……ねぇ」
じっくり目を通せば通すほど、その異質さが浮き彫りになっていく。
冥府の鏡の破片が埋め込まれた見開き一頁のカルテには此度の対象魂である女性の素性と生涯が、無機質な数字と記号、冥語で羅列されている。
まるで紙面を侵食するような黒々とした冥語が記すのはその魂が歩んだ軌跡だ。
「本来なら、こんな数値有り得ないんだけどなぁ」
そうぼやきながら見上げた荒目のヘマタイトの天井がウォールランプで複雑な輝きを放ち、カリンを幽冥の迷路へ誘う。
「生まれてすぐ孤児院前に……中流階級の家庭の養女で――」
カルテは全ての御魂に存在し、命の蕾が地上に綻んだ時に創造され、宙の粒子へ還るその時まで記録され続ける。
そこから知り得るのはあくまでもどう行動して、どうなったかという表面上の情報であり、サブジェクトらが何を思い、何を感じたか、という内面を汲み取ることはできない。
だからこそ、カリンは何一つ取りこぼしが無いように指で文字を追い、そして声に出し言葉を噛む。
「『未練』は枯れた花、と」
身体を起こしたカリンは意識をまたカルテに戻す。天体を閉じ込めたような深い宵闇の瞳が捉えるのは、カルテに埋め込まれた冥府の鏡片だ。
カルテの鏡片はハデスの執務室にあるあの大鏡を縮小加工させたものだ。死を統べる冥王が大鏡で未練の答えを見ているとするならば、冥府の葬儀師は鏡片で未練のヒントを見ている。
カリンはそれを『落し物』と呼んでいた。
「ハデス様もお人が悪いわ」
答えを教えてくれてもいいだろうに。とはよく思う。
「ダメよ、良くない良くない」
同時に、そう出来ない理由があるのだと容易に想像もできる自分もいる。
「そんな暇があるなら、頭を使うのよ」
カリンは堕落な感情を排除するように首を横に振った。
「さて、」
鏡の世界に閉じ込められている前屈するように項垂れた花が小さな手に握り締められている。
「うーん……」
静止した時間の中に置き去りにされた一輪の花にはかつて湛えていたであろう瑞々しさはなく、古びた羊皮紙のように乾ききっている。
固く噛み合った両手が解かれれば簡単に砕け散る脆さを感じさせた。
「初めて見る形してるのよねぇ」
残念ながら花の知識に明るくないカリンには、種類などちんぷんかんぷんなので、今度は明らかに成人した女性ではない手を注視する。
「この『小さな手』は……」
五十七歳で生涯を閉じた女性の鏡片になぜ幼子の影が混じるのか。カリンは首を捻った。
「まるでなぞなぞね」
長い生を終えた魂の未練は、大抵自分が一番輝いた時代にフォーカスされがちである。なんせ、幼い頃など覚えていないことが多いからだ。
では、予想されるのは。
「落し物は幼い頃に関係してる?」
自問自答を繰り返していると、思考が徐々に彼女の過去へと呑み込まれていく。
その手が訴える悲痛なまでの必死さに魅入り、カリンの指先が鏡片へと伸びた。
「ッ――」
輪郭をなぞるように触れた鏡片は、結氷した湖面が肌を劈くほどに冷たい。触れた先から伝わる拒絶は、これ以上踏み込むことを許さぬというような冥王の沈黙に通ずるものを感じた。
「到着したみたいだぞー」
思考の底が抜け、濁流となって深淵へと流れ込んだ意識が、軽快なノック音と場違いなほどに明るい声音によって強引に引き揚げられる。
「ぁはっ」
肺に溜まった虚無を吐き出すようにカリンは小さく息を漏らし、鏡片から指を離した。
額に滲んだ脂汗を手の甲で乱暴に拭い、靄がかった知覚を呼び戻すように冥府の湿った空気を大きく吸い込んで、顔をあげる。
「しっかりしてよ、カリン」
目の前――窓の外に広がる黒曜石の岩峰へ、鼓舞するように鋭い叱咤を放つ。
カリンの共鳴力は死者の魂の断片を拾い上げる葬儀師として最強の武器であるが、自らの精神を昏い峡谷へ突き落としかねない諸刃の剣でもあった。
「――もう?」
カルテを手に席を立ったカリンは、迎えに来た声の主へ扉越しにそう訊く。
「そう、『もう』だ」
立て付けの悪いオークの扉が沈黙を破り、重たい音と共に内側に折れる。
扉に預けようとしていた同僚ヘリオのノックの拳がその勢いに飲まれるように空中で静止していた。
「おい、顔色悪いぞ」
拳の向こう側にあるヘリオは驚きに目を見開いている。
「またやったな?」
「問題ないわ」
「問題だらけに見えるけどな?」
刹那、眇められた鋭い眼光が逃がさぬと言わんばかりにカリンを絡め取った。
「わかってるだろ。やり過ぎると戻れなくなるぞ」
声こそ明るいが、廊下に灯る燐光を反射した彼の瞳は獲物を射抜く峻烈な閃光に似ている。
カリンは肌が粟立つ感覚に気が付かないフリをして、その視線を流麗に受け流した。
「それより、何番?」
「――十三番」
このやり取りもいつもの事だ。
ヘリオも諦めたように溜息を飲み込んで、カリンの問いに応じる。
「行こうか」
ヘリオはそれ以上、カリンの無茶を咎めなかった。代わりに、腰に下がった葬儀具の金鎖が、彼の動きに合わせて冷ややかに鳴る。
「君のサブジェクトがお待ちかねだ」
二つの足音が冷え切った廊下に硬い音を響かせた。
行く先、闇の奥に在る『十三』の扉が、嘆きを封じ込めるように重く、静かにカリンを待っている。




