第9話 格上と、俺か俺以外か
朝の光が、宿の窓から差し込んでいた。
アルドは鏡の前に立った。
くたびれた旅装束。節くれだった手。四十二年分の皺が刻まれた顔。どこからどう見ても、ただのおじさんだ。
まあ、それでいい。
相手が油断するなら、それも使える。
食堂に下りると、エリシアがテーブルの前に座っていた。パンに手をつけていない。水を一口飲んで、また置いた。
「食えないか?」
「食べられます」
でも、手が動いていない。
アルドは向かいに座って、自分のパンをちぎった。
しばらく沈黙が続いた。
「……もし、うまくいかなかったら…」
エリシアが、小さな声で言った。
「うまくいく」アルドは即答した。
「なんで言い切れるんですか?」
「経験則だ」
エリシアが、じとっとした目でアルドを見た。
「その経験則、いつも都合よく出てきますね?」
「都合がいいのは事実だからだ」
エリシアが、パンを一口だけかじった。それから、また手を止めた。
「……怖いんです、正直に言うと」
「そうか」
「そうか、だけですか?」
「怖くて当然だ。仕方ない…あ、そういえば…」
アルドは少し考えた。
「昔、古い知人に教えてもらった言葉がある」
エリシアが、顔を上げた。
「どんな言葉ですか?」
「世の中には二種類の人間がいる」
「はい」
「俺か……俺以外か」
エリシアが、一瞬止まった。
それから、ぷっ、と吹き出した。
「な、何をおっしゃってるんですか!?当たり前じゃないですか、それ!」
エリジアのツボだったらしい。朝の食堂で大声を出せないから必死で抑えていた。
「そう、当たり前なんだ」アルドは静かに続けた。
「世の中は自分か、そうじゃない人間で構成されている。つまり、最後に信じられるのは……自分自身ってことだ」
エリシアが、笑いの残った顔で、アルドを見た。
「……それ、励ましてるんですか?」
「そうだ。バレちまったか」
「回りくどいですね。それになんで励ましてるの隠そうとしてるんですか?」
「言わせんな、恥ずかしいからだ。行くぞ」
アルドは立ち上がった。
エリシアが、パンを残りひとかじりで片付けて、立ち上がった。
さっきより、背筋が伸びていた。
サーヴァント侯爵の屋敷は、王都の中心部からやや北に位置していた。
石造りの門、手入れの行き届いた庭、等間隔に立つ使用人たち。華美ではないが、すべてに隙がない。金と権力を長く持ってきた人間の屋敷だ。
アルドは歩きながら、静かに読んでいた。
警備は門に二人、庭の角に一人、屋敷の入口に二人。武装は軽い。本気で排除するつもりではない。でも、逃げ道は計算されている。使用人の目の動き。主人の意向を常に気にしている目だ。この屋敷の主人は、細かい。
隣でエリシアが、フードを被ったまま歩いていた。
でも背筋だけは、自然と伸びていた。
「やっぱりお前は王女だな」
小声で言った。
エリシアが、少し苦く笑った。
「今だけですよ」
「今だけで十分だ」
通されたのは、屋敷の奥の応接室だった。
調度品は上質だが、主張しすぎない。壁に一枚だけ絵画が掛かっている。窓から庭が見える。すべてが計算されている部屋だ。
アルドとエリシアが席に着いてから、しばらくして扉が開いた。
入ってきた男を見た瞬間、絶対交渉権が静かに動いた。
五十代、細身。白髪交じりの髪が整えられている。歩き方に無駄がない。穏やかな笑顔を浮かべている。
でも、目が笑っていない。
権力を長く持ってきた人間の目だ。値踏みではない。観察している。すでに情報を持っていて、それと照合している。
「よく来てくださいました、グレイン殿」
ロウェル・サーヴァント侯爵は、アルドに目を向けてから、わずかにエリシアへ視線を移した。
「……それと」
一拍の間。
「第三王女殿下も」
エリシアの肩が、わずかに固まった。
アルドは動じなかった。
想定内だ。手紙を送った時点で、この男が調べないはずがない。わかった上で呼んでいる。
「お座りください」と侯爵は言った。「堅苦しい話をするつもりはありません。まずは、お互いを知る時間にしましょう」
お茶が運ばれた。
侯爵は、茶を一口飲んでから、静かに言った。
「グレイン殿。あなたは面白い手紙を書かれる」
「お読みいただけましたか」
「何度も」侯爵は笑った。「脅しでも懇願でもない。取引の提案。しかも具体的な条件は書かない。興味を持たせるだけ書いて、会いに来させる。……見事です」
「お褒めにあずかり光栄です」
「どこで学ばれた?」
「経験です」
侯爵が、アルドを見た。観察の目が、少し変わった。興味の色が混じり始めている。
アルドは侯爵を見ながら、絶対交渉権をフル稼働させていた。
この男が欲しいもの。恐れているもの。動く条件。
少しずつ、輪郭が見えてくる。
権力は欲しい。でも、今の権力を失うことを最も恐れている。ランドル隊長への最近の不満は本物だ。やりすぎて、余計な注目を集めている。自分の名前が表に出ることを嫌っている。
陰で動きたい男だ。
前世で、何度も見てきたタイプだ。
「侯爵」アルドは静かに言った。「一つ確認してもよろしいですか?」
「続けたまえ」
「ランドル隊長は、あなたの意図通りに動いていますか?」
侯爵の、穏やかな表情が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だ。でも、アルドには十分だった。
「……何をおっしゃりたいのですか?」
「ランドル隊長は今、街の商人から到底見過ごせない取り立てを行い、反抗すると店を閉店に追い込むことをしています。そして最近はさらに、それまでの倍額の取り立てをしています。それはあなたの指示ではないはずですよね?」
沈黙。
「やりすぎている駒は、使いにくい」アルドは続けた。「あなたは今、隊長を切り捨てたいと思っている。でも、自分の手を汚さずに」
侯爵が、ゆっくりと茶を置いた。
それから、初めて目も笑った。
「……面白い男だ」
低い声だった。先ほどの社交的な声とは、質が違った。本音の声だ。
「グレイン殿、あなたは何者ですか?」
「ただのおじさんです」
侯爵が、声を上げて笑った。
「ただのおじさんが、この短期間でこれだけの情報を集め、私に手紙を書き、わざわざ王都まで来る。……面白い」
茶が二杯目になった頃、アルドは静かに条件を出した。
「ランドル隊長を切る。街の商人への搾取をやめさせる。それが一つ目です」
「それで、私に何の得がありますか?」
「二つ目です」アルドは続けた。「あなたには別の形で、より大きな利益を出す」
「別の形とは?」
「今日はまだ言いません」
侯爵が、眉を上げた。
「言わない、とは?」
「今日はお互いを知る日でいい、とおっしゃったのはあなたです」
侯爵が、アルドを見た。
それから、また笑った。今度は、心底おかしそうな笑い方だった。
「……グレイン殿、あなたは私を手玉に取っているんですか?」
「とんでもない」
「取っていますよ」侯爵は言った。「私が先に言ったことを、そのまま返してくる。見事です」
アルドは何も言わなかった。
侯爵は少しの間、窓の外の庭を見た。
「……わかりました。続きを聞きましょう。次にいつ来られますか?」
「三日後に」
「お待ちしています」
侯爵が立ち上がった。そして、エリシアに向き直った。
「エリシア王女殿下」
エリシアが、静かに侯爵を見た。
「王都にお戻りになるおつもりはありますか?」
エリシアは一瞬だけアルドを見た。
アルドは何も言わなかった。
エリシアが、侯爵を見た。
「……それも、三日後にお答えします」
侯爵が、満足そうに笑った。
「殿下も、なかなかおできになる」
屋敷を出てから、しばらく二人は黙って歩いた。
王都の大通りに出ると、エリシアがようやく口を開いた。
「……思ったより、怖くなかったです」
「そうか」
「グレイン様が全部持っていくから」
「お前も、最後うまく返した。少し意外だった」
エリシアが、少し照れたような顔をした。
「……真似しただけです。三日後に、って」
「真似できるなら十分だ」
王都の喧騒が、二人の周りを流れていった。
「グレイン様」
「なんだ?」
「さっきの言葉…」
「どれだ?『ただのおじさん』ってやつか?」
「そんなわけあるはずないじゃないですか」
「いい反応だ」アルドは笑った。
「…世の中には二種類の人間がいる、ってやつです」エリシアは少し笑いながら言った。「あの知人って、どんな人だったんですか」
アルドは少し考えた。
「……派手な男だった。でも、芯のある言葉を持っていた」
「前世の人ですか?」
「そうだ」
「今、前世って言いましたよ?」
「言った」
エリシアが、止まった。
アルドも止まって、振り返った。
「今、認めましたよね?」
「ああ」
「今までは全部『言ってない』だったのに…」
「そうだな」
エリシアが、じっとアルドを見た。
「……なんで今日は認めたんですか?」
アルドは少し考えた。
「お前が『怖い』と素直に言えるようになったから」
エリシアが、その言葉の意味を考えるように、アルドを見ていた。
アルドは歩き出した。
「三日後の準備をする。今夜は休め。しっかり食って寝ろ」
背後で、エリシアの足音がついてきた。
その足音が、いつもより少しだけ、軽かった。




