第8話 王都と、隣にいる人
王都・ヴァリィへの道は、思ったより悪くなかった。
街道は整備されていて、天気も持っていた。荷馬車が時折追い越していく。行商人の一団とすれ違った。どこにでもある、普通の街道だ。
ただ、アルドの身体が普通ではなかった。
出発から半刻も経たないうちに、太ももが地味に主張し始めた。長距離を歩くのが、いつ以来かも思い出せない。四十二年間、移動といえば街の中だけだった。
「……顔が歪んでますよ」
エリシアが横から言った。
「歪んでない。俺は端正で整った顔だ」
「歪んでます。さっきから三回」
「気のせいだ。きっとエリシアの心が歪んでるからそう見えるのだろう」
「気のせいじゃないです。というかさりげなくひどいこと言いませんでした?不敬ですよ!?不敬!王都だったら即刻首飛ぶんですよ?」
アルドはエリシアを無視して黙って歩き続けた。
内心では、じわじわと広がる太ももの重さと静かに格闘していた。
でも、ふと気づいた。
以前なら、もっと早くに限界が来ていたはずだ。腰も、足も、今日はまだ耐えている。呼吸が、思ったより楽だ。
「……氣功、馬鹿にできないな」
小声で呟いた。
「何か言いましたか?」
「なんでもない」
「またクソデカ独り言ですか?」
「そうだ。…ってか、王女殿下とは思えないクッソ汚ねえ言葉だな?どこで覚えたそんな言葉…」
「庶民にクソ溶け込むには言葉遣いもクソ溶け込まないと、家出なんてできないですから」
エリシアが、小さく笑う気配がした。
昼過ぎ、木陰で休憩を取った。
エリシアが水筒を取り出しながら、ぽつりと言った。
「王都、久しぶりです!」
「何年ぶりだ?」
「一年、くらいかな?逃げ出してからだから…」
アルドは何も言わずに聞いていた。
「……好きじゃなかったんです、王都」
「なぜ?」
エリシアは少しの間、水筒を見ていた。
「王女殿下としか見てもらえない場所だから」
静かな声だった。
アルドは答えなかった。
ただ、その言葉を、そのまま受け取った。否定もしない。慰めもしない。ただ、聞いた。
エリシアが、横目でアルドを見た。
「……グレイン様は、私のことを最初から王女殿下じゃなく見てましたよね?」
「使えると思ったから」
「それが一番の褒め言葉なんですよね、グレイン様にとっては」
「そうだ」
エリシアが、小さく笑った。
「……変なんですけど、嫌いじゃないです、それ」
アルドは水を一口飲んだ。
木漏れ日が、街道に静かに落ちていた。
二日目の夕方、王都・ヴァリィが見えてきた。
丘の上から見下ろす王都は、この国で一番大きな街だけあって、規模が違った。城壁が遠くまで続いている。城塔が空に突き出ている。街道に入り込むと、人と荷馬車と喧騒が一気に押し寄せてきた。
エリシアは、フードを深く被った。自然な動作だった。身に染みついた習慣なのだろう。
アルドは歩きながら、王都を読んでいた。
前世の感覚が、静かに動く。
金持ちの通りと貧しい通りの境界線。人の流れが集まる場所と、避けられている場所。どこに権力があって、どこに歪みがあるか。
どんな街も、読めば地図になる。
「……全部見える」
小声で呟いた。
「何がですか?」
「この城下の構造だ」
エリシアが、アルドを見た。
「……本当に、何者なんですか?」
「ただの変なおじさんだ」
「その答えは三週間前から変わらないですね」
「変わる理由がない。本当に自分はただのおじさんだからな」
エリシアが、またため息をついた。でも、そのため息にはもう、呆れだけじゃない何かが混じっていた。
宿を取ったのは、王都の中心からやや外れた、こぢんまりした宿だった。
目立たない場所。でも清潔で、主人の目が信頼できる目をしていた。アルドが一目で選んだ。
部屋に入ってから、エリシアがいつもより落ち着かない様子だった。荷物を置いて、窓を開けて、また閉めて。
「緊張しているか?」
アルドが聞いた。
「してません」
「嘘だね」
エリシアが、少し止まった。
「……少しだけ」
素直に言えた。
アルドは窓の外を見たまま、静かに言った。
「明日、お前は何もしなくていい」
「でも、王女の顔が必要だと言いましたよね」
「そうだ。ただそこにいるだけでいい。それだけでお前はとても役立つ」
エリシアが、訝しげにアルドを見た。
「……それって、褒めてるんですか?」
「褒めている。お前の存在そのものを。エリシア、生まれて来てくれてありがとう」
少しの間があった。アルドは茶化したつもりだったが、エリシアの反応が予想外のものだったため、アルドも少し出方を伺う形になった。
「……ありがとうございます」
エリシアが、静かに言った。
いつもの即答じゃなかった。少し間があって、でも真っ直ぐな声だった。
アルドは何も言わなかった。
ただ、その言葉を受け取った。
夜、エリシアが寝てから、アルドは窓を開けた。
王都の夜景が広がっていた。無数の灯りが、遠くまで続いている。城塔のシルエットが、夜空に黒く浮かんでいた。
吸って。溜めて。吐く。
前世でも、こういう夜があった。大きな仕事の前夜。次の日に何が起きるかを静かに考えながら、一人で夜景を見ていた。
あの頃は、いつも一人だった。
それが当たり前だと思っていた。
今は、部屋の奥に寝息がある。
アルドは窓の外を見ながら、静かに思った。
隣に誰かがいる、ということ。
それを、悪くないと思っている自分がいる。
前世では、なかったことだ。
吸って。溜めて。吐く。
明日、貴族と対面する。
どんな相手かはまだわからない。でも、どんな相手でも、やることは変わらない。
相手が何を欲しがっているかを見る。それを渡せる形を作るだけだ。
王都の灯りが、静かに揺れていた。




