第7話 想定内と、町の名前
朝から、雨だった。
アルドは窓の外を見ながら、静かに息を吐いた。腰が、じんわりと重い。雨の日は決まってこうだ。四十二年間、変わらない。
ただ、重さの質が少し違う気がした。以前なら引きずるような重さだった。今は、ただ重い、というだけだ。
氣功の効果か、それとも気のせいか。
まだ、断言できない。腰にはなんとかご機嫌を直してもらいたいものだ。いずれ俺に直接話しかけて来そうな気配さえある。
昼前、ベリンが顔を曇らせてやってきた。
「……布屋のマルコが、抜けると言い出した」
アルドは黙って聞いた。
「昨日の夜、自警団の隊員が店に来たらしい。直接脅されたわけじゃないが、隊員がただ店の中を眺めて帰ったと。それだけで、もう限界だと」
「他には?」
「薬屋のじいさんも、少し迷ってるみたいだ」ベリンは言いにくそうに続けた。「……アルド、お前を責めるつもりはないんだが…」
「責める必要はない。いや、責めないでやってくれ。彼は本当にいいやつなんだ…」
「おいおい、自分をそんなに擁護するやついるか?」
その一言で、張り詰めた場の空気が一気に緩んだ。
ベリンが、アルドを見た。
「……想定内か」
「ああ。全てな。抜けたがるあいつらも責めなくていい」アルドは言った。
「怖くて動けない人間を責めても何も変わらない。動ける人間だけで動く」
ベリンが、息を吐いた。
「……お前は、怖くないのか」
アルドは少し考えた。
「怖いかどうかより、やるかどうかの方が大事だと言っただろう」
「アルド、お前色んなところでそれ言ってるんだな?」
「それが当たり前だと思ってるからな」
ベリンが、苦く笑った。
その日の午後、自警団の隊員三人が大通りを歩いていた。
いつもより胸を張った歩き方だった。昨日から倍になった取り立ての結果、商人たちの動きが鈍くなっている。効いている、という空気が隊員たちにあった。
その隊員たちが、路地の角でガルドと鉢合わせした。
ガルドは特に何もしていなかった。ただ、そこに立っていた。
先頭の隊員が、ガルドの顔を見て、足を止めた。
「……ガルド!? 元『王国の番犬』のガルドじゃないか……!」
ガルドは答えなかった。ただ、静かに隊員たちを見た。
隊員たちが、顔を見合わせた。
ガルドの経歴は、この街の自警団なら知っている。王国近衛騎士団に十五年。その他、戦争での最前線実戦経験多数あり。別名「(元)王国の番犬」なぜ今ここにいるのか、誰の側にいるのか。
それだけで、十分だった。
隊員たちは、何も言わずに別の道を選んだ。
夕方、女将が封筒を持ってきた。
「……来たよ。王都から」
アルドは封筒を受け取った。
封蝋に、見覚えのない紋章が押されている。
開けると、短い文章が一行だけ書かれていた。
「貴殿と話がしたい。王都まで来られたし。」
エリシアが隣から覗き込んだ。
「……早いですね」
「ああ」
「罠じゃないですか?」
「罠かもしれない」
「なんで平然としてるんですか?」
アルドは封筒を折りたたんだ。
「罠を仕掛ける手間をかけるなら、興味があるということだ。興味があるなら、話ができる」
エリシアが、しばらくアルドを見た。
「……その論理、どこかおかしい気がするんですけど?」
「おかしくない」
「おかしいと思います」
「じゃあ、ここで俺が『おかしいな、じゃあ行かない』となったら、『この話』終わるぞ?」
「ちょっと何言ってるかわからないです」
翌朝、アルドはエリシアを呼んだ。
「王都に行く。お前も来い」
エリシアが、少し驚いた顔をした。
「私も、ですか?」
「ああ」
「……なぜ?」
「王都では、お前の顔の方が『使いやすい場面』がある」
エリシアが、静かにアルドを見た。
「……王女として、ということですか?」
「そうだ」
長い沈黙。
エリシアは窓の外を見た。王都、という言葉が、彼女の中で何かを揺らしているのがわかった。逃げ出してきた場所への、帰還に近い行動だ。
「……わかりました」
迷いは、短かった。
アルドは頷いた。
「やっぱり変なおじさんだ」とエリシアが小さく言った。
「そうかもしれない、でも、大丈夫だー」ちょっとだけ語尾をあげた。
ガルドへの話は、短くて済んだ。
「王都に行く間、この街を頼む」
ガルドは黙って頷いた。
「商人たちをまとめておいてくれ。自警団が動いても、今すぐ大きくは動けない。向こうも俺がいなくなったことを確認してからになる。その間に、できるだけ仲間を増やしておいてくれ」
「……わかった」ガルドは言った。「いつ戻る?」
「十日以内には戻る」
「もし戻れなかったら?」
「その時はその時だ」
ガルドが、低く息を吐いた。
「……相変わらず、おかしな男だ」
「よく言われる」
女将への話は、少し長くなった。
「留守の間、これだけのことを頼めるか?」要望を書いた紙を渡した。
「いいよ」女将は即答した。「帰ってきたら、銀貨二十枚もらうよ」
「十枚だ」
「十九枚」
「十四枚」
「十八枚」
「……十六枚だ」
女将が、満足そうな顔をした。
「……まったく。行くならさっさと行きな」
アルドは立ち上がりながら言った。
「帰ってきたら、この街が変わっている」
女将が、アルドの背中を見た。
「……変わるといいね」
静かな声だった。
いつもの鋭さとは、少し違う声だった。
出発前の夜。
アルドは一人で街を歩いた。
雨は上がっていた。石畳が、月明かりを濡れたまま反射している。
この街に来てから、まだ二週間も経っていない。全裸で槍に囲まれていた男が、今は手紙を王都に送り、商人たちをまとめ、元「王国の番犬」を動かしている。
我ながら、展開が早い。
でも、前世でもそうだった。最初の一手を打てば、あとは連鎖していく。人が動き、金が動き、情報が動く。それを束ねていくだけだ。
「最初は必ずここから始まる」
どんなに大きな盤面も、最初は小さな街の路地裏だった。
アルドは足を止めて、夜空を見た。
全裸で見上げた、あの青い空とは違う。今夜は星が出ている。
吸って。溜めて。吐く。
身体が、明らかに軽くなっていた。二週間前とは比べ物にならない。腰の重さは雨の日だけになった。全身の動きに、滑らかさが戻ってきている。
「……悪くない身体になってきた」
誰に言うでもなく、呟いた。
前世では、これほど身体に向き合ったことはなかった。あの頃は頭だけで動いていた。今は、身体も一緒に動いている。
それが、思ったより悪くない。「そういえば……」アルドは思い出した。
「この町の名前、まだ聞いてなかったな。物忘れひどいな…」
明日誰かに聞こうと、アルドは床に就いた。
翌朝、出発の前に。
《灰色熊亭》の前に、女将、ベリン、ガルドが立っていた。
誰も、集まろうと言ったわけではなかった。それぞれが、自然にそこにいた。
アルドは三人を見て、短く言った。
「じゃ、頼むわ」
それだけだった。
女将が、腕を組んだまま言った。
「死ぬんじゃないよ!」
「死なない」
「言い切れるのかい?」
「経験則だ」
女将が、鼻を鳴らした。
ベリンが、珍しく改まった声で言った。
「……行ってらっしゃいませ」
アルドは少し驚いた。ベリンから、そういう言葉が出るとは思っていなかった。
ガルドは何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。
アルドは三人を見た。
二週間前、この街に誰一人知り合いがいなかった男が、今は見送られている。
何も言わなかった。
言葉にするような男でもない。
アルドは踵を返して、歩き出した。
背後で、小さな足音がついてきた。
しばらく歩いてから、その足音が一瞬止まった。
振り返らなかったが、わかった。
エリシアが、振り返っている。
小さく手を振っているのが、気配でわかった。
アルドは前を向いたまま、歩き続けた。
王都まで、三日の道のりだ。
「あっ……!」
アルドは思わず舌打ちをした。
「……この町の名前、聞くの忘れてた…」




