第10話 葡萄酒と、雨水
三日間、アルドは王都を歩き回った。
市場、港に近い倉庫街、貴族の屋敷が並ぶ通り、職人たちが集まる職人街。前世の感覚で街を読むと、金の流れと人の流れが地図のように見えてくる。
どこに滞りがあるか。どこに伸びしろがあるか。
三日でほぼ把握できた。
エリシアも、動いていた。
王都は逃げ出してきた場所だ。でも三日経つと、慣れた足取りで市場を歩き、人の話を集めてきた。適応が早い。この娘の本質は、場所ではなく人を読むことにある。
それにしても、王都をこれだけ歩いていたら、エリシアなら普通誰かしらから声をかけられそうなものだが…何か認識阻害系の能力を持っているのだろうか……?
絶対交渉権ではそこまではわからなかった。
夕方、宿に戻るたびに情報を報告してくれた。
「サーヴァント侯爵の屋敷に出入りしている商人が三人。そのうち一人は東の港の船問屋で、侯爵とは十年以上の付き合いらしいです。もう一人は――」
「さすがだ」
エリシアが、微妙な顔をした。
「……相変わらず褒め方が雑ですね」
「十分な褒め言葉だ」
「もう少しバリエーションを希望します」
「検討する。検討に検討を重ね、検討を加速する所存であります」
「絶対しないですよね」
アルドはエリシアの報告を聞きながら、侯爵への提案の最後のピースを埋めていった。
三日後の夜には、頭の中に完成した絵があった。
前世のやり方で行く。
二度目の対面は、前回より静かな部屋だった。
使用人の数が少ない。侯爵が、本音で話す気でいる、ということだ。
茶が運ばれて、侯爵が口を開いた。
「三日間、王都を歩き回っていたそうですね」
「よくご存知で」
「王都は私の庭のようなものですから」侯爵は笑った。「で、何が見えましたか?」
「色々と」
「……たとえば?」
「王都には金の流れに、三つの滞りがある」アルドは言った。「東の港、中央市場の卸問屋、それから城下の職人街。この三点を繋げれば、今より三割は効率が上がる」
侯爵が、静かに茶を置いた。
「……三日で、それが見えたのか?」
「見えました」
侯爵は少しの間、アルドを見ていた。それから、静かに言った。
「続きを聞かせてくれ」
アルドは、順番に話した。
ランドル隊長を切る。街の商人への搾取をやめさせる。そこまでは前回と同じだ。
問題はその先だ。
「あの町の搾取をやめた後、町の商人たちは動き始めます。今まで抑えられていた商売が、一気に動く。その流れを整備する仕組みを作る。情報と金の流れを正式なネットワークとして構築する。特に、王都から三日の距離であるあの町と王都を、スムーズに繋ぐ環境が大事です」
「それを、誰が束ねるのかね?」
「表向きは、街の商人たちの自治組合という形にします」アルドは続けた。「でも実際の流れを設計するのは……別の誰かだ」
侯爵が、静かにアルドを見た。
「……その『別の誰か』が、私だと」
「あなたが陰で座る形で。表には一切出ない」
沈黙。
侯爵の目が、変わった。
社交的な観察の目が消えて、本音の目になった。欲しいものを目の前に差し出された人間の目だ。
「……陰で動く、か」
「それが、あなたの本意でしょう?」
侯爵が、ゆっくりと息を吐いた。
「……見事です、グレイン殿。三日でここまで読まれるとは……」
「買いかぶりすぎです」
「いいえ」侯爵は首を振った。「これは買いかぶりじゃない」
少しの間があった。
侯爵が、静かに言った。
「いいでしょう。その船、乗りましょう。ただ…」
侯爵は続けた。
「一つだけ、私からも条件を」
「どうぞ」
侯爵が、エリシアに目を向けた。
「殿下を、王都にお戻しください」
エリシアの肩が、わずかに固まった。
アルドは侯爵を見たまま、静かに言った。
「それは、殿下が決めることです」
侯爵が、少し驚いた顔をした。
「……あなたが決めるのではないんですか」
「俺が決めることじゃない」
侯爵が、エリシアに向き直った。
「殿下、いかがですか」
エリシアが、しばらく黙っていた。
アルドは何も言わなかった。
背中を押さない。これはエリシアが自分で決めることだ。
やがて、エリシアが顔を上げた。
「……王宮に、戻ります」
静かな声だった。
「ただし、私のやり方で」
侯爵が、満足そうに笑った。
「……殿下も、なかなかおできになる。以前お会いした一年ほど前よりも逞しく感じます」
エリシアは答えなかった。
ただ、真っ直ぐに侯爵を見ていた。
屋敷を出てから、しばらく二人は黙って歩いた。
大通りに出たところで、エリシアがぽつりと言った。
「……戻るって、言っちゃいました」
「聞こえてた」
「正直怖いです」
「そうか」
「……背中、押してくれないんですか?」
「押さない」
エリシアが、アルドを見た。
「なんでですか?」
「自分で決めたんだろう?」アルドは言った。「それでいい」
エリシアが、少し泣きそうな顔をした。
でも、笑った。
「……やっぱ変なおじさんです」
「よく言われる」
「今回は褒めてないですよ?」
「知ってる。俺は空気が読めるからな」
エリシアが、また笑った。今度は、さっきより少しだけ力のある笑い方だった。
翌朝、二人は王都を発った。
帰り道は、来た道と同じ街道だ。でも、来た時とは少し空気が違った。
アルドは歩きながら、その違いを静かに確認していた。
行きは「これからどうなるか」という前向きな緊張があった。帰りは「決まった」という静かな重さがある。重さ、でも悪い重さじゃない。
帰る場所がある。やることが決まっている。
それだけで、十分だ。
二日目の昼過ぎ、空が曇り始めた。
やがて、ぽつぽつと雨が落ちてきた。
「……雨、嫌いなんです」
エリシアが、空を見上げながら言った。
「そうか」
「なんか気分が下がるというか」
「そういえば」アルドは言った。「あいつが過去に、言ってたことを思い出した」
エリシアが、顔を向けた。
「あいつ、というのはあの知人の方ですか」
「ああ」
「興味あります。教えてください」
アルドは少し考えてから、言った。
「どうでもいい奴と飲む葡萄酒と、俺と一緒に飲む雨水。どっちを飲みたい?」
エリシアが、一瞬止まった。
「……自意識過剰なんですか?その知人の方」
「まあ、そういう男だった。自信は青天井の男だが、口だけじゃなく実力もある男だった」
アルドは続けた。
「つまりだ。物質的な価値を求めるよりも、誰と一緒にいるか、精神的な豊かさが大事ということだ」
「極端だとは思いますけど」エリシアは少し考えながら言った。
「なんとなくわかる気はします、今なら」
「そうか。言葉の表面だけじゃなくて、奥の想いが見えたのなら、エリシアも成長したんだな」
エリシアが、アルドを見た。
それから、自分が言った言葉の意味に気づいたように、視線を前に戻した。
何も言わなかった。
ただ、耳が少し赤くなっていた。
雨に降られることよりも、誰とこの雨降りを過ごすか……
アルドは何も言わなかった。それ以上の言葉が野暮だからだ。
雨が、街道に静かに降り続けていた。
三日目の夕方、街が見えてきた。
あの石畳の街だ。
エリシアが、遠くに見える街の輪郭を見て、小さく言った。
「……帰ってきた」
「ああ」
「なんか、帰ってきた感じがするのが不思議ですね。あんなに短い間しかいなかったのに」
アルドは何も言わなかった。
でも、同じことを思っていた。
二週間ちょっとしか経っていない。全裸で槍に囲まれていた街だ。それでも今は、帰る場所だと感じる。
「グレイン様」
「なんだ」
「なんか、若返ってませんか?」
アルドは少し止まった。
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないです。来た時より明らかに動きが軽いですよ」
「歩き慣れただけだ」
「顔も違いますよ。なんか、しゅっとしてきたというか」
「しゅっとはしていない」
「してますよ」エリシアが、じっとアルドを見た。
「あの変な呼吸、あれが秘訣なんですか?」
「……どうだろうな?」
アルドは前を向いたまま、内心で静かに思った。
効いている。間違いなく。
この身体が、少しずつ、前世の記憶に追いついてきている。
まだ道半ばだ。でも、確実に変わっている。
「グレイン様」
「なんだ?」
「帰ったら、女将さんに怒られますね。銀貨十六枚」
「払う」
「どこから出すんですか」
「侯爵が動けば、金は動く。多分。動かなければ皿洗いでも掃除でもしてやる」
エリシアが、呆れたような、でも笑いの混じった顔をした。
街の門が、夕日を背に大きくなってきた。
帰ってきた。次の一手を打つ時間だ。




