第11話 定期監査と、前世の政治家
《灰色熊亭》の扉を開けると、女将が真っ先に目に入った。
カウンターに腕を組んで立っている。いつも通りの顔だ。でも、目の端が少し緩んでいる。
「遅かったじゃないか」
「約束通り十日以内だ」
「十日ぴったりだよ」
「誤差の範囲だ」
女将が、鼻を鳴らした。
「銀貨十六枚、忘れてないだろうね」
「……用意してある」
女将の目の端が、さらに緩んだ。
ベリンが奥のテーブルから立ち上がった。ガルドも、壁際から静かに歩いてきた。
「……おかえり」とベリンが言った。
短い言葉だった。でも、十分だった。
「留守中の話を聞かせてくれ」
ガルドが、静かに報告した。
アルドたちが出発してから最初の三日間、自警団は動きを止めていた。様子を見ていたのだろう。でも四日目から、また取り立てを再開した。ただし、額は元に戻っていた。倍額は流石に反発がすごくて続けられなかったそうだ。
「商人たちは、どうだった?」
「……動揺していた」ガルドは言った。「でも、誰も完全には崩れなかった」
「お前がまとめたのか?」
「俺は何もしていない。ただ、そこにいただけだ」
その言葉に、奥のテーブルから声がした。
「……俺も、そう思います」
振り返ると、布屋のマルコが座っていた。アルドが王都に発つ前、離脱しかけていた男だ。
「マルコ、戻っていたのか?」
「……はい」マルコは、少し恥ずかしそうに言った。「離脱するとか言っておいて、すみません」
「なぜ戻った?」
マルコが、ガルドを見た。
「……ガルドさんが、ただそこにいたから」
その言葉で、場の空気がふっと緩んだ。いるだけで人を動かす。ガルドの「王国の番犬」という二つ名はいまだに健在だということだ。
ガルドが、照れくさそうに目を逸らした。五十がらみの元騎士が、耳を赤くしている。ベリンが小さく笑った。女将が鼻を鳴らしたが、その顔は悪くなかった。
アルドはその光景を見ながら、内心で何かが反応した。
(……ジョージ・マロリーかよ)
(前世の世界で「そこに山があるから」と言った男。前世でも有名な言葉だった)
(……でも、誰もマロリーわからないし)
(言葉は有名でもマロリーの言葉って知らない人は前世でも多いし…)
(何より、このほんわかした空気を)
(ぶち壊すことだけは絶対にわかってる)
(……黙っておこう)
結論。
「……そうか」
アルドは平静を装って笑った。
エリシアが、横からじっとアルドを見ていた。
「なんか今、何か言いたそうでしたよね?」
「気のせいだ」
「絶対気のせいじゃないですよね?」
「じゃあ報告の続きを聞かせてくれ」
「むぅ」エリシアはちょっとふくれた。
ガルドの報告が終わった頃、女将が口を開いた。
「昨日から、自警団がまた動き始めたよ。今度は商人じゃなくて、街の人間に聞き込みをしてる。誰かを探してるみたいな動き方だ」
「そうか」
「……またそれだ」エリシアが呟いた。
「好都合だ」
「やっぱりそっちだった」
アルドは立ち上がった。
「ベリン、明日の朝に商人たちを集めてくれ。話がある」
「わかった」
「ガルド、今夜は街を見ていてくれ。自警団の動きを把握したい」
「了解だ」
ガルドが静かに頷いて、外に出た。
女将が、アルドに向かって言った。
「……で、王都はどうだったんだい?」
「うまくいった」
「それだけかい?」
「それだけだ。以上」
女将が、ため息をついた。でも、口元は笑っていた。
「……まったく、変なおじさんだよ」
翌朝。
まだ日が低いうちに、王都からの公文書が届いたと知らせがあった。女将と仲の良い、街の役人から直接連絡が来た。
差出人は王都の監察府。内容は一行だった。
「当該地域の自警団に対し、定期監査を実施する。」
侯爵が動いた。
約束通りだ。しかも早い。
アルドは文書の内容を折りたたんで、ベリンに渡した。
「商人たちに見せてくれ。これが何を意味するか、みんなわかるはずだ」
ベリンが文書を読んで、目を細めた。
「……王都が動いたのか!?」
「動いた」
「お前が動かしたのか?」
「俺はただ話をしてきただけだ」
ベリンが、アルドを見た。
「……本当に、何者なんだ?お前は……」
「ただのおじさんだ」アルドは笑った。
ベリンも、苦く笑った。
「その答えも、もう何度聞いたかわからないくらいに予測できてた」
昼前、自警団の詰め所では。
隊長ランドルが、公文書の内容の写しを手に持ったまま、顔色を変えていた。
「……誰がこんなものを!?」
「調べました」と側近が言った。「グレインという男が、十日前に王都へ行っていたようで……」
ランドルは、持ってた紙を机に叩きつけた。
「あのおっさんか……っ!」
「ど、どうしますか?」
ランドルは、しばらく黙っていた。
焦りと怒りが、顔に出ていた。でも、目の奥にはまだ何かがあった。切り札を持っている人間の目だ。
「……直接、話をつけに行く」
午後、アルドが《灰色熊亭》の一階で商人たちと話していると、扉が勢いよく開いた。
ランドルが、部下を二人連れて入ってきた。いずれも非常に大きい体躯の二人だった。
商人たちが、一斉に固まった。
アルドは振り返らなかった。商人たちに向かって、静かに言った。
「続きはまた明日にしましょう。今日はここまでだ」
商人たちが、そそくさと出ていった。
アルドはゆっくりと振り返った。
「隊長、わざわざ来ていただいて……」
「とぼけるな!」ランドルは低い声で言った。「お前が仕組んだのか!?あの公文書を!」
「はて、何のことですか?」
「王都に行って……何をしてきた!?」
アルドは、ランドルを静かに見た。
絶対交渉権が、動く。
焦っている。追い詰められている。でも、まだ切り札があると思っている。その切り札が何かは、まだ見えない。でも、今この瞬間、この男は判断を誤りやすい状態にある。
「隊長」アルドは静かに言った。「まずは、座りませんか?どうぞ」
「座る気分じゃない!」
「ならば立ったままで聞いてください」
アルドは続けた。
「あなたには今、二つの選択肢があります」
ランドルが、眉をひそめた。
「一つ。このまま監査を受ける。三年間の取り立ての記録が全部出てくる。あなただけじゃなく、繋がっている人間も全員巻き込まれる」
ランドルの顔が、わずかに青く、引き攣った。
「二つ。自分から身を引く。穏やかに終わる。記録は、なかったことにはならないが、表に出る量を最小限にできる」
沈黙。
「どちらを選んでもいい。正直俺はあなたを個人的に恨んでいない」アルドは言った。「俺はただ、この街の商人たちが普通に商売できる状態に戻したいだけだ」
ランドルが、アルドを見た。
怒りの中に、別の何かが混じり始めていた。
「……俺には、切り札がある」
「ほう?聞かせてもらえますか?」
「お前には関係ない!」
「関係あるかどうかは、聞いてから判断します」
ランドルが、拳を握った。
その瞬間、ランドルの隣に、人の気配がした。
元・王国の番犬、ガルドが、いつの間にか入口の脇に立っていた。
何もしていない。ただ、そこにいる。
ランドルが、ガルドを見た。ガルドはランドルたちをただ睨みつけた。顔色が、また変わった。横の巨体二人も萎縮していた。
「……考える時間をくれ」
絞り出すような声だった。
「明日の朝までだ」
ランドルが、踵を返した。部下を連れて、出ていった。
扉が閉まってから、女将がカウンターの奥から言った。
「……ガルド、あんたいつの間に入ってきたんだい?」
「裏から」とガルドは静かに言った。
「気配もなかったよ」
「……騎士の頃の習慣だ。いや、最前線で奇襲攻撃をするときのものだな」
エリシアが、アルドの隣でそっと息を吐いた。
「……終わりますか、これで?」
「まだわからない」アルドは言った。「……切り札が何かによる」
「切り札、何だと思いますか?」
アルドは少し考えた。そして
「……明日の朝にわかる」
アルドは前世の政治家のように、明言を避けた。
わからなかったから。
夜。
アルドはベッドに座って、目を閉じた。
吸って。溜めて。吐く。
身体が、軽い。
腰の重さは、もうほとんどない。全身の動きに、滑らかさが定着してきた。これが当たり前になってきている。
前世でこの感覚を掴むまでに、三年かかった。
今回は、まだ一ヶ月も経っていない。
身体が、前世の記憶に追いついてきている。
でも、まだ先がある。
吸って。溜めて。吐く。
明日、ランドルが何を持ってくるか。
切り札の中身次第で、次の手が変わる。
どんな手でも、対応できる。それだけの準備はある。
王都の灯りではなく、街の小さな灯りが、窓の外で静かに、僅かに揺れていた。
帰ってきた場所の灯りだ。




