第5話 網と噂と、おじさんにしてはロマンチック
噂というのは、思ったより早く広がる。
朝、《灰色熊亭》の食堂に下りると、いつもより客の数が多かった。職人風の男たち、行商人、それから顔の見えない旅人が二人。全員が、どこかそわそわしている。
アルドは女将にパンと水を頼みながら、さりげなく耳を立てた。
「……聞いたか、自警団の詰め所に乗り込んだおじさんがいるって」
「本当か? あいつらに逆らって生きて帰ったのか?」
「しかも部下を何人か転ばせてきたらしいぞ!?」
「どんな化け物だ?」
アルドはパンをちぎりながら、内心で静かに思った。
転ばせた、という表現がいつの間にか定着していた。
まあ、転んだのは本当だから、間違いではない。
同じ頃、自警団の詰め所では。
隊長が、部下から受け取った報告書を眺めていた。
「……アルド・グレイン。ヴァレリア王国東端、准男爵グレイン家の三男。没落貴族。王都の商会に勤めていたが商会倒産で失職。以来、実家の小領地で農業。特筆すべき経歴なし。武術の師事歴なし。騎士団への所属歴なし。現在の資産、ほぼなし」
隊長は報告書を机に置いた。
「……なんだこれは!?」
「は、はあ。どこを調べても、本当に平凡な記録しか出てこなくて…」
「平凡な男が、うちの部下を四人転ばせるか!」
側近が、困った顔をした。
「……そこが、その、なんといいますか」
「もっと調べろ!」
「どこを調べればいいんですか?」
「それを考えるのがお前の仕事だろう!?」
側近が、肩を縮めて部屋を出ていった。
隊長は腕を組んで、窓の外を見た。
得体が知れない。
それが、一番厄介だった。
昼前、《灰色熊亭》の扉が開いた。
入ってきたのは、見知らぬ男だった。四十がらみ、革のエプロンをつけている。靴屋か、鞄屋か。手の荒れ方が職人のそれだ。
男はカウンターの女将に何か聞き、それからアルドの座るテーブルに近づいてきた。
「……あんたが、グレインさんか?」
「そうだ」
「少し、話を聞いてもらえないか?」
アルドは男を見た。
絶対交渉権が、静かに動く。
肩の力が入りすぎている。緊張している。でも、ここに来る決断をしたのは今日の朝だ。昨日まで迷っていた。欲しいのは「安心」だ。背中を押してほしいわけじゃない。ただ、信用できる根拠が欲しい。
「座ってくれ」とアルドは言った。
男が座った。
「自警団の件か?」
「……ああ。三年前から、毎月取られてる。断ったら店の前に毎日隊員が立つようになって、客が来なくなった。それで仕方なく払い始めたんだが…」
「額が上がった」
男が、目を見開いた。
「……なんで知ってる?」
「そういう構造だからだ」アルドは言った。「一度払い始めると、こちらが逆らえないとわかる。だから少しずつ上げてくる。際限なく、な」
男が、テーブルを見た。
「……どうすればいい?」
「今はまだ、何もしなくていい」
「何もしなくて、変わるのか?」
「変える。俺が」
男が、アルドをじっと見た。
アルドは視線を外さなかった。
しばらくして、男が息を吐いた。
「……信用していいのか?あんたを」
「それはお前が決めることだ」
男が、少しの間黙った。
それから、小さく頷いた。
「……わかった……信用する」
「名前は?」
「ダレン。鞄屋だ」
「ダレン、三日後にまた来い。話が進んでいる」
午後、女将が帳簿を持ってきた。
仕入れ先を変えてから最初の一週間分の記録だ。
アルドが数字を確認すると、想定通りの改善が出ていた。食材の原価が一割以上下がっている。月単位で換算すれば、銀貨にして相当な差になる。
「……ほんとに変わるもんだね」
女将が、素直に驚いた顔をした。三十年やってきた商売の常識が、あっさり覆された顔だ。
「変わる。やり方次第で」
「月貸しの部屋も、昨日二つ埋まったよ。話を馴染客たちに話したら、職人の兄ちゃんたちが飛びついてきた」
「そうだろうそうだろう」
女将が、帳簿を閉じながら言った。
「……お礼と言っちゃなんだけど、一つ教えとくよ」
アルドは女将を見た。
「自警団の隊長、ランドルってやつなんだけどね」女将は声を落とした。「あいつ、王都の貴族と繋がってるって噂があるよ。三年前に隊長が代わったのも、その貴族が手を回したって話だ」
アルドは黙って聞いていた。
「確かめたわけじゃないよ。ただの噂だ。でも、この街で長くやってると、噂の質ってのがわかるようになってくる」
「信憑性は?」
「高い方だね」女将は静かに言った。「だから…あんたに教えた」
アルドは少し考えた。
「……ありがとう」
女将が、鼻を鳴らした。
「礼はいらないよ。銅貨の残り、忘れるんじゃないよ」
「もう忘れてた」
女将はアルドを小突いた。
夕方、エリシアが戻ってきた。
市場で半日過ごしてきたらしく、髪に埃が混じっている。テーブルに座るなり、今日集めてきた情報を手短に話し始めた。
自警団の隊員が最近、いつもより数が多く街を巡回していること。東の通りで新しく店を開こうとしていた商人が、突然話を取り下げたこと。それから、街の外から来た行商人が、この街の自警団の噂を既に知っていたこと。
アルドは聞きながら、内心で評価していた。
情報の質が、確実に上がっている。最初の日は人の動きを観察するだけだった。今日は情報の繋がりを意識して拾ってきている。
「エリシア、お前は筋がいい」
エリシアが、微妙な顔をした。
「……毎回それだけですか?」
「十分な褒め言葉だ」
「『よくやった』とか『さすがだ』とか、もう少しバリエーションがあってもいいと思いますけど…?」
「事実を言っている」
「褒め方が雑なんですよ」
アルドはパンを食べながら、エリシアを見た。
「もう一つ聞いていいか?」
「なんですか?」
「街の外から来た行商人、自警団の噂をどこで聞いてきたと言っていたか?」
エリシアが、少し考えた。
「……王都の近くの街で、らしいです。そこでも似たような話があるって」
アルドは黙った。
女将の話と、繋がった。
この街だけの問題じゃない。王都の貴族が絡んでいるなら、同じ構造が複数の街に展開している可能性がある。
「グレイン様」
「なんだ?」
「難しい顔してますよ?」
「考えている」
「何を?」
「盤面が思ったより大きかった、ということを」
エリシアが、少し表情を変えた。
「……怖くないんですか」
「怖いかどうかより――」
「やるかどうかの方が大事、でしょう?」エリシアが先に言った。
「わかってます、もう」
アルドは少し驚いた。
エリシアが、窓の外を見た。
「……私も、怖いです。正直に言うと」
「そうか」
「でも、ここにいます」
アルドは何も言わなかった。
言わなかったが、エリシアの横顔を一瞬見た。
十九歳の娘が、追われながら、素性を隠しながら、それでも前を向いている。
素直じゃないくせに、芯だけは真っ直ぐだ。
「……ほんとに素直じゃないやつだな」
思わず、口から出た。
エリシアが振り返った。
「なんですか?突然」
「独り言だから気にするな」
「独り言が大きすぎて気になるんです」エリシアが、少し唇を尖らせた。
「ごめんなさいね、素直じゃなくて」
アルドは、その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが反応した。
前世の記憶の底から、するりと浮かび上がってくるフレーズがある。
「……夢の中なら言えるってか」
エリシアが、首を傾げた。
「? 何それ。何かの比喩?」
「いや」
「おじさんにしては、ロマンチックですね?」
アルドは少し止まった。
「……前世の、…いや、遠い昔の歌の歌詞だ」
エリシアの目が、すっと細くなった。
「今、前世って言いましたよね?」
「言ってない」
「言いました!はっきり」
「聞き間違いだ」
「二回目ですよ?そのパターン」
「飯にしよう。女将に話してくる」
「また話逸らしましたね?ご飯につられると思ってるんですか?」
アルドはすでに立ち上がっていた。
「ていうか、グレイン様は今、パン食べてたじゃないですか!」
背後でエリシアの小さなため息が聞こえた。でも、その声に笑いが混じっているのを、アルドは聞き逃さなかった。
夜。
アルドはベッドに座って、目を閉じた。
吸って。溜めて。吐く。
呼吸を始めてから、ふと気づいた。
腰の鈍痛が、昨日より小さい。
全身の重さも、一昨日よりは確実に軽い。筋肉痛の峠を越えた、というだけかもしれない。でも、それだけじゃない気もした。
呼吸のたびに、奥の方から何かが巡ってくる感覚。それが今日は、昨日より少し早く、少し深いところまで届いている。
身体が、応えてきている。
アルドは静かに思った。
盤面は、思ったより大きかった。
自警団の隊長、王都の貴族、複数の街に展開する構造。
でも、前世でもそうだった。最初は小さな綻びから始まって、気づけば国を動かしていた。
やり方は、変わらない。
一つずつ、丁寧に、崩していく。
吸って。溜めて。吐く。
街の灯りが、窓の外で静かに揺れていた。




