第4話 静かな一手と、おじさんの古傷(嘘)
三日後の朝、ベリンが四人を連れてきた。
《灰色熊亭》の一階、食堂の隅のテーブルに、五人がぎこちなく座った。ベリンの他に、布屋の主人らしき小太りの男、鍛冶屋と思しき腕の太い男、薬屋の看板を背負ってきた白髪の老人、それから革細工屋の若い女。全員、どこか落ち着かない顔をしている。
アルドは向かいの椅子に座った。
その瞬間、全員の視線が集まった。
アルドは動じなかった。ただ、一人ずつ、静かに見ていった。
布屋の男は肩が上がっている。怯えている。でも欲が深い目だ。損得で動く。鍛冶屋は腕を組んで正面を向いている。強がっているが、足が微妙に揺れている。薬屋の老人は目が泳いでいる。情報を集めようとしている。革細工屋の女は、全員の中で一番落ち着いていた。品定めをしている目だ。
前世の感覚が、静かに動く。
絶対交渉権。
一人ずつの輪郭が、くっきりと見えてくる。
欲しいもの、恐れているもの、動く条件。
全員、読めた。
「集まってくれてありがとう」
アルドは言った。
「俺の話は一つだ。自警団の搾取を止める。それだけだ」
布屋の男が、すかさず口を開いた。
「……止めるって、どうやって?あいつらは剣を持ってるんだぞ?」
「知ってる」
「あんた、ただの旅人だろう…?なんでそんなことができる?」
「できると思っているから言っている」
男が黙った。
鍛冶屋が、低い声で言った。
「……俺たちに何をしろと言う?」
「何もしなくていい」
全員が、顔を見合わせた。
アルドは続けた。
「俺が動く。お前たちは今まで通りにしていろ。ただ一つだけ頼みがある」
「なんだ?」と老人が言った。
「俺が動いている間、この街の商人仲間に話を広めてくれ。自警団に逆らった男がいる、と。それだけでいい」
沈黙。
革細工屋の女が、初めて口を開いた。
「……逆らって、どうなるかわかってて言ってるんですか?」
「わかってる」
「怖くないんですか!?」
アルドは少し考えた。
「怖いかどうかより、やるかどうかの方が大事だ」
女が、じっとアルドを見た。
それから、小さく笑った。
「……面白いおじさんですね」
「よく言われる」
ベリンが、テーブルを見ながら言った。
「……わかった。やってみる」
一人が頷くと、残りも、ぽつりぽつりと頷いた。
昼前、アルドは一人で自警団の詰め所に向かうとエリシアに言った。
エリシアが、宿の入口で腕を組んで立っていた。
「一人で行くんですか?」
「ああ」
「死にますよ」
「死なない」
「なんで言い切れるんですか?」
「……経験則だ」
エリシアが、じとっとした目でアルドを見た。
「経験則って、何の経験ですか」
「まぁ……色々だ」
「絶対ろくな経験じゃないですよね?」
「お前は危ないからついてくるな」
アルドは歩き出した。
背後でエリシアが何か言いかける気配がしたが、今日は振り返らなかった。
自警団の詰め所は、街の中央広場に面した石造りの建物だった。
入口に二人の隊員が立っていた。アルドの顔を見て、すぐに眉をひそめた。先日、大通りで転がした男の仲間だろう。
「……なんの用だ?」
「隊長に会いたい」
「アポもなしに来られても――」
「三日前、大通りで部下が転んだだろう?その件で話がある、と伝えてくれ」
隊員の顔が、微妙に強張った。
しばらく待つと、奥から「通せ」という声がした。
隊長室は、思ったより広かった。
革張りの椅子に、四十がらみの大柄な男が座っていた。顎に無精髭、目が細い。権力を手にして時間が経った人間の、緩んだ油断と、でもまだ残っている獣の勘が同居している顔だ。
「……お前が、うちの部下を転ばせたおじさんか?」
「転んだのは本人の足元が悪かったんだろう」
隊長の目が、細くなった。
「……面白いことを言う。座れ」
アルドは座った。
その瞬間だった。
椅子に腰を下ろした拍子に、太ももの裏側から腰にかけて、鈍い電撃が走った。
三日前の戦闘の筋肉痛が、今頃になって本格的に主張し始めていた。
アルドは顔に出さなかった。
出さなかったが、わずかに表情が歪んだ。
隊長が、それを見ていた。
「……古傷か」
「……まあ、そんなところだ」
嘘ではない。ある意味で、四十二年間ロクに動かなかったツケという意味では、古い傷と言えなくもない。
隊長が、少し表情を変えた。警戒の色が、わずかに混じった。
(古傷を庇いながら、うちの部下を転ばせた。どんな修羅場をくぐってきた男だ……)
アルドの内心は、まったく別のところにあった。
(いてて……なんで今更こんなに来るんだ……三日前の動きがそんなにきつかったか……)
「それで…」と隊長が言った。「話とはなんだ?」
アルドは痛みを奥に押し込んで、隊長を見た。
「お前たちのやり方には、三つの欠陥がある」
隊長の目が、すっと細くなった。
「……欠陥?」
「一つ。各商人から個別に取り立てているせいで、徴収額に上限がある。二つ。恐怖で押さえつけているだけなので、反発が蓄積し続けている。三つ。その構造を誰かに整理されると、一気に崩れる」
静寂。
隊長が、ゆっくりと立ち上がった。
「……随分と舐めた口を利くじゃないか」
「事実を言っている」
「お前、自分が今どこにいるかわかってるか?」
「自警団の詰め所だろう」
「生きて帰れると思うか?」
アルドは隊長を見た。
「帰れる。お前が賢ければ」
隊長の顔が、赤くなった。
「――連れてこい!」
扉が開いた。四人の隊員が入ってきた。
アルドは立ち上がった。
その瞬間また、太ももから腰に電撃が走った。
顔には出さなかった。
出さなかったが、立ち上がりざまにわずかに動きが止まった。
四人の隊員のうちの一人が、仲間に小声で言った。
「……見たか、今の。立ち上がるだけで顔が歪んだぞ」
「ああ……あれだけの古傷を抱えて、よく動けるな」
「只者じゃないぞ、あのおじさん」
アルドの内心は、相変わらず別のところにあった。
(頼むから今は筋肉痛来ないでくれ……っ)
四人が、同時に動いた。
前世の感覚が、静かに動く。
四人の重心、視線、踏み込みの方向。全部見えている。
先頭の男が右から来る。大振りだ。次が左、慎重なタイプ。後ろの二人は様子を見ている。
右から来た男の腕をわずかに流して、勢いを殺さずに横へ誘導する。男が前のめりに崩れる。その背中を軽く押して、左から来た男にぶつける。二人がまとめて転がった。
後ろの二人が止まった。
アルドは動じなかった。
ただ、内心では全力で腰をいたわっていた。
隊長が、椅子から立ち上がったまま固まっていた。
「……なんだ、今のは!?」
「転んだ!?」
「転ばせたんだろうが!」
「そうかもしれない…」
アルドは隊長を見た。
「続けるか?」
隊長は、しばらくアルドを見ていた。
アルドは視線を外さなかった。
痛みは奥に押し込んだまま。顔は、穏やかなままだ。
隊長が、ゆっくりと座り直した。
「……今日のところは、帰っていい」
「賢明だ」
「ただし」隊長の目が、鋭くなった。「お前のことは調べさせてもらう」
「好きにしろ」
アルドは踵を返した。
扉を出て、廊下を歩いて、詰め所の外に出た。
陽の光が、石畳に降り注いでいた。
アルドは誰もいないのを確認してから、盛大に顔を歪めた。
腰と太ももが、死ぬほど痛かった。
宿に戻ると、エリシアが入口の前に立っていた。腕を組んだまま、ずっとそこにいたのかもしれない。
「……生きてた」
「言っただろう、死なないと」
「顔色悪いですよ」
「気のせいだ」
「歩き方もおかしいですよ」
「気のせいだ」
エリシアが、じっとアルドを見た。
「古傷ですか?」
アルドは一瞬止まった。
「……まあ、そんなところだ」
「どこですか?」
「全身だ」
「全身って」
「気にするな……くっ」(筋肉痛がっ……)
エリシアが、何か言いたそうな顔をした。でも今日は、珍しく黙った。
ただ、アルドの歩く速度に合わせて、少しだけゆっくり歩いてくれた。
アルドはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
夜。
アルドはベッドに座って、目を閉じた。
全身が、じんわりと重かった。腰だけじゃない。肩も、腕も、脚も。三日前の戦闘と、今日の詰め所でのやり取りが、四十二年間眠っていた身体に正直に出ていた。
吸って。溜めて。吐く。
呼吸を始めると、少しずつ重さが変わってくる気がした。まだ痛みが消えるわけじゃない。でも、奥の方から、何かが巡り始めるような感覚がある。
前世でこの感覚が安定するまでに、何年もかかった。
でも今日は、昨日より少しだけ深く入れた気がした。
吸って。溜めて。吐く。
今日、盤面が動いた。
商人たちが動き始めた。自警団がこちらを意識し始めた。隊長は今頃、アルドのことを調べさせているはずだ。でも、調べたところで出てくるのは「没落貴族の三男坊、四十二年間ぱっとしない人生を送ってきた男」という記録だけだ。
それで十分だ。
得体が知れない方が、怖い。
アルドは静かに思った。
盤面は動いた。次は、加速させる。




