第3話 駒と盤面と、入街料(仮)
朝の《灰色熊亭》は、思ったより賑やかだった。
一階の食堂に、街の職人や行商人が朝飯を食いに集まっている。安くて量があるのだろう。客の入りは悪くない。でも、女将の表情は険しいままだ。
アルドは女将をカウンター越しに呼んだ。
「帳簿の件、話がある」
「ちょうどよかった。私もそのつもりだったよ」
女将が腕を組んだ。「どうせ大したことは言えない」という昨日の顔とは、少し違う。期待半分、警戒半分、といったところだ。
アルドは昨夜整理した内容を、順番に話した。
「まず、仕入れ先を変えろ。南の通りの粉屋と、西門近くの肉屋。今の業者より三割は安い」
「……知ってるよ、そんなこと」
「なぜ変えない?」
「今の業者と長い付き合いだからね」
「付き合いに払う金が、三年で銀貨何枚になるか計算したか?」
女将が、黙った。
「それから、二階の使っていない三部屋。あれを月貸しに回せ。長期滞在の職人や行商人は必ずいる。一部屋ずつ小分けに貸すより、月単位でまとめて貸した方が手間が減って収入が安定する」
「……月貸しなんて、やったことないよ」
「やり方は教える。契約の文面も作る」
女将がアルドを見た。昨日からずっと繰り返される、値踏みの視線だ。でも今日のそれは、昨日より明らかに色が変わっていた。
「……あんた、本当に何者だい?」
「ただのおじさんだ」
女将が、鼻を鳴らした。
「ただのおじさんが、一晩で帳簿を読んでそんな話をするかい」
「読めば誰でもわかる話だ」
「わからないから三十年やってきて気づかなかったんだよ、私は」
アルドは何も言わなかった。
女将が、ゆっくりと息を吐いた。
「……銀貨三枚じゃもらいすぎだね、この話は」
「では銅貨四枚にしましょう」
「銀貨一枚もらうよ」
「銅貨六枚で」
女将が、初めて笑った。皺の深い、でも悪くない笑い方だった。
「……気に入ったよ、あんたのこと」
ベリンの店に着いたのは、昼前だった。
昨日と同じ、半分塞がれた入口。でも今日は、ベリンが外に出て荷物の整理をしていた。アルドの顔を見ると、手を止めた。
「……来ると思ってた」
「考えてくれたか?」
「一晩、考えた」ベリンは荷物から手を離さなかった。「で、三ヶ月で店を元に戻すって話、具体的にどうするつもりだ?」
アルドは店の前に立ったまま言った。
「自警団が街の商人から金を吸い上げている。あんただけじゃない。この街の商人のほとんどが、同じ目に遭っている」
「知ってる」
「その商人たちをまとめ上げる」
ベリンが、初めてアルドをまっすぐ見た。
「……まとめて、どうする?」
「一人ずつ潰せても全員まとまれば、そう簡単には潰せない。自警団もそれはわかっている。だから各個撃破している」
「理屈はわかる」ベリンの目が細くなった。「でも、そう簡単にまとまるもんじゃない。みんな怖くて動けないんだ」
「動かなくていい」
ベリンが眉をひそめた。
「動かなくていい?」
「最初は俺が動く。あんたたちは俺の後ろにいるだけでいい。それだけで、絵が変わる」
沈黙。
ベリンは、しばらくアルドを見ていた。四十代の、苦労を重ねてきた男の目だ。簡単には信用しない。でも、見る目はある。
「……あんた、怖いな」
「ただのモブおじさんですよ?」
「そのモブおじさんが一番怖い」
アルドは小さく笑った。
「三日、待ってくれ。その間に、動ける商人の名前を三人、集めてきてくれ。それだけでいい」
ベリンが、長い息を吐いた。
「……わかった。三日だな」
宿に戻ると、エリシアが一階の隅のテーブルで、食堂の客たちをぼんやり眺めていた。
アルドが向かいに座ると、エリシアが言った。
「私、何をすればいいんですか?」
唐突だったが、アルドには意味がわかった。
昨日から、エリシアは何もしていない。ついてきているだけだ。それが、この娘には居心地が悪いのだろう。役に立ってないという現状が歯痒いという感じだろうか。
「今日、ここで何を見ていた?」
「……え?」
「客を見ていただろう。何か気づいたことはあるか?」
エリシアが、少し考えた。
「奥のテーブルの二人組、朝からずっとここにいます。注文はパン一つずつなのに、出ていかない。何かを待っているみたいで」
「他には?」
「入口近くの男、三回来ました。毎回すぐ出ていく。何かを確認しに来ているような」
アルドは黙って聞いていた。
「それから、女将さんが昼前に誰かに短い手紙を渡していました。配達の子どもに。急いでいる様子でした」
アルドは小さく頷いた。
「使えるな」
エリシアが、複雑な顔をした。
「……使える、って」
「エリシア、お前を褒めてる」
「なんか釈然としないんですけど」
「王女殿下と呼ばれる方が好みか?」
エリシアの顔が、一瞬固まった。
アルドは表情を変えなかった。
「……いつから?」
「最初から、大体な。確信したのは今だが」
エリシアが、テーブルの上で手を握った。逃げる気配はない。ただ、静かに、アルドを見ていた。
「……どうするつもりですか?」
「何も変わらん」アルドは言った。「お前は使える。それだけだ」
長い沈黙。
エリシアが、ゆっくりと息を吐いた。
「……本当に変なおじさんですね」
「そうです、私が――」
アルドは一瞬止まった。
……また発動するところだった。
「……そう、それですよ」
エリシアが、じとっとした目で見た。
「今、また何かありましたよね?変な間が」
「気のせいだ」
「絶対気のせいじゃないですよね?」
「情報収集を頼む。この街で自警団を快く思っていない人間の顔と名前を覚えてこい」
「話逸らしましたね?」
「頼んだぞ、エリシア!」
午後、アルドは街を歩いていた。
エリシアは別行動だ。市場に紛れて人の話を聞いてくる、と言って出ていった。王女育ちのくせに、物怖じしない。度胸だけはある。
商店が並ぶ大通りを歩いていると、前から三人組が来た。
革の胴鎧に、腰に剣。袖に自警団の印がある。先頭の男が、アルドを見て足を止めた。
「おい、お前!」
アルドは止まった。
「見ない顔だな。旅人か?」
「そうだ」
「どこから来た?」
「…東の方から」
男がアルドの周りをゆっくりと回った。値踏みするような目だ。でも、女将やベリンのそれとは違う。獲物を探す目だ。
「旅人なら、この街のしきたりを教えておいてやろう」男が笑った。「俺たち自警団に、入街料を払うのが決まりでな」
「そんな決まりはない」
男の笑いが消えた。
「……何?」
「入街料などという制度は、この王国のどの法にも存在しない」
静かに、でも確実に言った。
男の顔が赤くなった。
「なんだと、このっ――!」
男が掴みかかってきた。
アルドは動じなかった。
前世の感覚が、静かに動く。来る方向、速度、重心の位置。全部見えている。
男の腕がアルドの胸倉に届く寸前、アルドはわずかに半身を開いた。男の勢いが空を切る。そのままアルドは男の腕を軽く添えるように誘導し、男の体重を前方に流した。
どさり、と男が石畳に転がった。
投げた、というより、転んだように見えた。
残りの二人が固まった。
アルドは転がった男を見下ろした。腰が、じんわりと痛い。さっきの動作でまた腰に来た。顔には出さなかった。
「次は、法に基づいた仕事をしろ」
そのまま歩き出した。
背後で、二人が転がった男に駆け寄る気配がした。
「……な、なんだあのおっさん」
小さな声が聞こえた。
アルドは振り返らなかった。
ただ、内心で思った。
腰が、本当に痛い。
夜。
部屋の窓から、街の灯りが見えた。
エリシアはすでに戻っていた。夕飯を食べながら、今日集めてきた情報を手短に話してくれた。自警団を快く思っていない商人の名前が、五人。その中の二人は、ベリンと顔見知りだという。
思ったより、早い。
アルドはベッドに座って、目を閉じた。
吸って。溜めて。吐く。
最初の数日より、呼吸が深くなっている気がした。まだ変化と呼べるほどではない。でも、奥の方に、何かが灯っている感覚がある。
前世でこの感覚を掴むまでに、三年かかった。
今の身体は、前世よりずっと老いている。でも、前世よりずっと多くのことを知っている。
吸って。溜めて。吐く。
盤面は、少しずつ整ってきている。
女将。ベリン。エリシアの情報網。そして今日、自警団にこちらの存在を刻んだ。
まだ序盤だ。でも、駒は揃い始めている。
「……グレイン様」
エリシアの声がした。
「なんだ?」
「今日、王女だってわかってても何も変わらないって言いましたよね?」
「ああ」
「……なんで、ですか?」
アルドは目を閉じたまま、少し考えた。
「俺にとって大事なのは、何ができるかだ。何者かじゃない」
沈黙。
「……王都では誰も、私という人間を見ていませんでした。みんな、王女殿下という肩書を見ていました」
「そうか」
「それだけですか?もっと、こう…」
「それだけだ」
エリシアが、小さく笑う気配がした。呆れたような、でも悪くない笑い方だった。
「……やっぱり変なおじさんですね?」
アルドは答えなかった。
吸って。溜めて。吐く。
街の灯りが、窓の外で静かに揺れていた。




