第2話 訳あり娘と、私が変な…
2-1
この街は、思ったより活気があった。なんという名前の街だったかな…忘れた。
…いや、そもそもここの町の名前、聞いたっけ?それさえも覚えてない。
自分が何故全裸だったかも良くわからないくらいだから、問題ないか。
石畳の道に沿って、雑多な露店が並んでいる。パンを売る老婆、怪しげな薬を並べた行商人、酒樽を転がす男たち。どこかで鶏が鳴いている。遠くに城壁が見えた。王都ではない。地方の中規模な町、といったところか。
アルドはそれを、歩きながら観察していた。
前世の感覚が、少しずつ戻ってくる。街の規模、人の流れ、金の動き。どこに権力があって、どこに歪みがあるか。見ているだけで、街の構造が地図のように浮かび上がってくる。
なるほど。
やりようは、ある。
「……あの、グレイン様」
背後からエリシアの声がした。
「なんだ?」
「その、あの、服なんですが」
アルドは自分の格好を確認した。路地裏で拾った男物の上着と、丈の合っていないズボン。ベルトの代わりに縄を巻いている。色は不明。元の色が何だったのか、もはや判別できない。
「問題あるか?」
「……問題しかないです」
「歩けるなら十分だ」
「いえ、あの、私が隣を歩くのが少し、その」
「恥ずかしいか?」
エリシアが、少し間を置いた。
「……正直に言っていいですか」
「言うな。言わない優しさもある」
アルドは前を向いたまま歩き続けた。エリシアの小さなため息が聞こえた。
まず服だった。
古着を扱う露店を見つけた。くたびれた上着と、それなりに使えそうなズボンが目に入った。アルドは値札も確認せず手に取り、それから財布を探して、
なかった。
当然だった。全裸スタートだったのだから。
「……問題が発生した」
「お金ですか?」
「ああ」
「持ってません」
「俺もない」
短い沈黙。
「どうするんですか?」
「交渉する」
エリシアが、何か言いたそうな顔をした。言葉にはしなかった。
アルドは露店の主人に向き直った。五十がらみの、恰幅のいい男だ。目が細かく動いている。抜け目のないタイプ。でも根は小心者。値踏みはするが、強くは出られない。
前世の感覚が、静かに告げる。
こういう人間には、逃げ道を作ってやることだ。
「親父、この上着と、そのズボン」
「へい、合わせて銅貨八枚で――」
「今は持ち合わせがない」
主人の目が、すっと細くなった。
「なら結構で――」
「三日後に銀貨一枚払う」
主人が、黙った。
銅貨八枚と銀貨一枚。銀貨一枚は銅貨十二枚相当だ。つまり今払う値段より高い金額を、三日待つだけで受け取れる。
アルドは主人の目を、静かに見ていた。
逃げるな。疑うな。これはお前にとって得な話だ、と目で言う。
主人が、ゆっくりと息を吐いた。
「……名前と、宿は」
「アルド・グレイン。宿はこれから取る。この街で一番長くやってる宿屋はどこだ」
「……角を曲がって三軒目の、《灰色熊亭》で」
「そこに三日後の昼に訪ねて来てくれ」
主人は、しばらくアルドを見ていた。
それから、無言で服を包み始めた。
露店を離れてから、エリシアが言った。
「……払えるんですか、三日後に」
「なんとかする」
「なんとか、というのは」
「三日あれば、銀貨の一枚や二枚は作れる」
エリシアが、また何か言いたそうな顔をした。今度も言葉にはしなかった。
賢い娘だ、とアルドは思った。
聞いても答えが返ってこないと、もう学習している。俺を諦めるのが早すぎる。
《灰色熊亭》は、名前の通り古びた宿だった。
看板が傾いている。入口の扉が微妙に歪んでいる。でも石造りの壁はしっかりしていて、長く続いている店の安定感があった。
中に入ると、カウンターに太った女将が座っていた。六十近い、どっしりとした体格の女だ。目が鋭い。値踏みするような視線がアルドとエリシアを一瞬で舐め回した。
「一部屋、三日分」
「先払いだよ。銀貨一枚と銅貨二枚」
「今は持ち合わせがない」
「なら帰んな」
アルドは女将を見た。
さっきの露店主とは違うタイプだ。小心者じゃない。でも、長年商売をやってきた人間特有の、損得への鋭い嗅覚がある。
「三日で銀貨三枚払う。今夜から使わせてもらう代わりに、この宿の帳簿を一度見せてくれ」
女将の目が、細くなった。
「……帳簿ぅ?」
「一目見れば、三日で倍にする方法がわかる。そのうちの三枚をここに払う」
沈黙。
女将が、アルドをじっと見た。
アルドは視線を外さなかった。
嘘はついていない。前世で幾度となくやってきた、情報から金を生み出すやり方。この程度の規模の宿なら、一目見れば改善点が五つは出てくる。
女将が、ゆっくりと立ち上がった。
「……二階の突き当たり。文句言うなら出てきな」
女将は鍵を投げてよこした。
部屋は狭かった。
ベッドが二つ、窓が一つ。それだけだった。エリシアが無言で窓の外を見ている。
アルドはベッドに腰を下ろした。
腰が、じんわりと痛い。昼間の戦闘の余韻がまだ残っている。全身のあちこちが鈍く主張し始めていた。明日の朝が怖い。
窓の外が、暗くなってきた。
エリシアが振り返った。
「今日だけで、二回やりましたね」
「何がだ?」
「お金もないのに、言葉だけで相手を動かすやつ」
「交渉だ」
「……どうやってるんですか?」
アルドは少し考えた。
「相手が何を欲しがっているかを見る。それを渡せる形を作るだけだ」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないが、慣れる。まぁ、これは俺特有の能力かもな」
エリシアが、また何か言いたそうな顔をした。
「なんだ?」
「……グレイン様って、何者なんですか?」
アルドは答えなかった。
窓の外の暗くなった空を見た。そして
「ただのおじさんだ」
「嘘ですね」
「即答するな。間を大事にしろ」
「……嘘ですね」
「まぁ、そういうことだが、そういうことでもない」
夜が深くなった。
エリシアはいつの間にか寝ていた。慣れない逃亡で疲れていたのだろう。ボロをまとったまま、ベッドの端で小さくなっている。
アルドはベッドに座ったまま、目を閉じた。
眠れなかった。
前世の記憶が、少しずつ戻ってくる。断片的に、でも確実に。知識、経験、技術。フィクサーとして生きた日々の蓄積が、じわじわと今の自分に馴染んでいく。
そしてもう一つ。
前世で習得した、呼吸法。
氣功や体術の基礎にある、あの感覚。
アルドはゆっくりと、背筋を伸ばした。目を閉じたまま、鼻から息を吸う。腹に空気を溜める。止める。ゆっくりと吐く。
吸って。溜めて。吐く。
吸って。溜めて。吐く。
しばらくして、廊下を通りかかった宿の下働きの少年が、扉の隙間から中を覗いた。
中年の男が、薄暗い部屋でベッドに座ったまま、何やら奇妙な呼吸を繰り返していた。
少年は隣を歩く同僚に、小声で言った。
「……ねえ、二階の客、なんか変じゃない?」
翌朝、その話は宿の朝食の場に流れ、エリシアの耳にも届いた。
「二階の突き当たりのお客さん、夜中に変な呼吸してたらしいよ」
エリシアが、朝食のパンを手にしたまま、アルドを見た。すると、昨晩様子を見ていた少年がエリシアに、おずおずと話した。
「このおじさん、変な呼吸してるんです……!」
アルドは、一瞬だけ止まった。
頭の奥で、前世の記憶が何かに反応した。
そうです、私が――
…………いかん。
前世で国民的コメディアンの、往年のギャグが発動するところだった。
アルドは何事もなかったように、パンをちぎった。
「……鍛錬のために深呼吸してただけだ。気にするな」
「なんで急に黙ったんですか?」エリシアは見逃さなかった。
「気にするな。別件だ」
「絶対なんかあったでしょ?」
「気にするな。うまく説明できん」
エリシアが、じとっとした目でアルドを見た。
アルドはパンを食った。
2-2
朝食を終えてから、アルドは女将に帳簿を出させた。
居間の隅の小さなテーブルに、どさりと積み上げられた数冊の帳面。女将が腕を組んで立っている。信用しているわけではない、という姿勢が全身から滲み出ていた。
「……どうせ大したこと言えやしないよ」
「三日待ってくれ」
アルドは帳簿を開いた。
最初の一ページを見た瞬間、前世の感覚が静かに動き始めた。
数字が、読める。
当然だ。前世で動かしていた金の規模に比べれば、この帳簿など子供の落書きに等しい。でも、だからこそ、問題点が一瞬で見えた。
仕入れの単価が高い。同じ街の中で、もっと安く卸せる業者が必ずいる。客の回転率が低い割に、部屋数が多い。稼働していない部屋がある。それから――
「……この項目は何だ?」
アルドは帳簿の一点を指した。
女将が、渋い顔で覗き込んだ。
「街の自警団への『付け届け』だよ。毎月決まった額を納めないと、面倒なことになるんでね」
「いつから?」
「三年ほど前から。新しい隊長になってから額が上がった」
アルドは黙って次のページをめくった。
なるほど。
街の構造が、さらに見えてきた。自警団が商人から金を吸い上げている。この宿だけではないはずだ。街全体に同じ構造がある。
そして、そういう構造には必ず、歪みと綻びがある。
前世でさんざん見てきた光景だ。腐敗が進んでいる街の構造。逆にこう言うところに伸び代はあるが、腐敗が進みすぎていると、根底から作り変えないといけない。この街はまだ局所をいじれば大丈夫だろうと、前世の勘がそう言ってる。まずは……
「女将」
「なんだい?」
「この街で、自警団と仲が悪い商人はいるか?」
女将が、細い目をさらに細くした。
「……何をする気だい?」
「まだ何もしない。情報が欲しいだけだ」
しばらく間があった。
女将は、アルドをじっと見た。昨日から何度もされる、値踏みするような視線だ。でも今朝のそれは、昨日より少しだけ色が違った。
警戒から、興味へ。
「……東の通りの穀物商、ベリンって男がいるよ。自警団と揉めて、今は店を半分畳んでる」
「ありがとう」
「礼なんていらないよ。銀貨三枚、ちゃんと用意するんだよ」
アルドは帳簿を閉じた。
ベリンの店は、確かに寂れていた。
東の通りの端、かつては大きな倉庫だったらしい石造りの建物。今は入口の半分が板で塞がれ、申し訳程度に穀物の袋が並んでいるだけだ。
アルドが入ると、四十がらみの痩せた男が顔を上げた。目の下に隈がある。疲れている。でも目は死んでいない。
「何か用か?」
「少し話を聞かせてくれ」
「買う気がないなら帰ってくれ」
「買う気はないが、金になる話がある」
ベリンが、値踏みするような目でアルドを見た。
アルドは続けた。
「自警団と揉めているそうだな?」
ベリンの目が、一瞬鋭くなった。
「……誰から聞いた?」
「関係ない。揉めた理由を聞かせてくれ」
ベリンは黙った。
アルドは急かさなかった。前世で学んだことのひとつ。沈黙を埋めようとするのは、焦っている側だ。
やがてベリンが、低い声で言った。
「……三年前、新しい隊長が来た。付け届けの額を倍にしやがった。俺は断った。それだけだ」
「断った理由は?」
「筋が通らないからだ」
アルドは、ベリンを見た。
真っ直ぐな人間だ。融通が利かない。でも、筋を通す人間は信用できる。
「ベリンさん、あんたに提案がある」
「聞く気はない」
「まだ内容を言っていない」
「どうせろくな話じゃない」
「三ヶ月で、店を元に戻す」
沈黙。
ベリンが、アルドをまじまじと見た。
「……何者だ、あんた」
「ただのおじさんだ」
「嘘をつけ」
アルドは小さく笑った。
二日続けて、二人目の即答だった。
宿に戻ると、エリシアが部屋の窓際に座って外を見ていた。
アルドが入ってくると、振り返った。
「どこ行ってたんですか?」
「仕事だ」
「仕事って、昨日まで何も持ってなかったのに…」
「だから作りに行った」
エリシアが、眉をひそめた。
「……一日で、仕事が作れるんですか」
「種を蒔いただけだ。育つかどうかはこれからだ」
アルドは椅子を引いて座った。腰が鳴った。情けない音だった。今日はご機嫌斜めらしい。
エリシアが、何かを言いかけて、やめた。
「なんだ?」
「……いえ」
「遠慮せずに言え」
少しの間があった。
「私のこと、邪魔じゃないですか?」
アルドは、エリシアを見た。
娘は窓の外を向いていた。横顔に、昨日までとは少し違う色がある。強がりの下に、疲れが滲み始めていた。
追われている。行くところがない。素性を明かせない。それでも弱音を吐かずにいる。
十九歳には、なかなかきつい状況だ。
「邪魔かどうかはまだわからん。今のところ役には立ってはいない」
「……正直すぎますよ」
「だが、これから役に立つかどうかもまだわからん。それも同じくらい正直なところだ」
エリシアが、ようやくこちらを向いた。
「どっちもわからないなら、なんで連れてきたんですか?」
アルドは少し考えた。
「……勘だ」
「勘」
「前世で――」 アルドは一瞬止まった。「……長く生きていると、人を見る目だけは育つ。お前は使える。そう感じた」
エリシアが、じっとアルドを見た。
「前世、って言いましたよね、今」
「言ってない」
「言いました」
「聞き間違いだ」
「聞き間違いじゃないです」
アルドは窓の外を向いた。夕日が、街の石畳を橙色に染めていた。
「……飯にしよう。女将に交渉する」
「話を逸らしましたね?」
「飯、食いたいだろう?なら、この話は終わりだ」
エリシアが、小さくため息をついた。
でも、その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
その夜。
アルドはまた、暗い部屋でひとり、呼吸を繰り返した。
吸って。溜めて。吐く。
身体の奥に、何かが静かに灯るような感覚がある。まだ小さい。でも確かにある。
前世でこの感覚を掴むまでに、何年もかかった。
今の身体は四十二年間ほったらかしにしてきた、腰痛持ちのおじさんのものだ。
でも、時間はある。
やりようは、ある。
アルドは目を閉じたまま、静かに思った。
種は蒔いた。あとは育てるだけだ。




