第1話 全裸と槍と、あと全裸
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空が、青い。
やけに、青い。
……なんで俺、空を見てるんだ?
背中に感じる石畳の冷たさで、ようやく自分が地面に寝ていることに気がついた。アルド・グレインは、のろのろと上半身を起こす。
そして、現状を把握した。
全裸だった。
理由はわからない。なぜそうなっているのかもわからない。ただ、疑いようのない事実として、アルド・グレインは今、石畳の上に全裸で座っていた。
おまけに、四方を槍で囲まれていた。
切っ先が、喉元、両脇腹、背中、合計七本。どれも微妙に震えている。持っている側が怖がっているのか、それとも怒っているのか。どちらにせよ、ご機嫌な状況ではない。
「……動くな、化け物!」
リーダー格らしき男が、掠れた声で言った。三十半ばくらいの、いかつい顔をした男だ。槍を持つ手が、じっとりと汗ばんでいる。
化け物。
アルドは自分の両手を見た。節くれだった、どこにでもいる中年男の手だ。
「……化け物って、俺のことか!」
「他に誰がいる!」
男が怒鳴る。槍の切っ先が、ぐっと数センチ迫った。
アルド・グレインは、四十二年間生きてきた。これほど意味のわからない状況に置かれたのは、おそらく初めてだ。
――いや、待て。
なにか、頭の奥がざわついている。
靄のかかった記憶の底から、何かが這い上がってくるような、そんな感覚。
ずっと、忘れていた何か。
いや、忘れさせられていた、何か。
「……っ」
アルドは静かに目を閉じた。
槍に囲まれたまま。全裸のまま。石畳の上で。
それでも、今この瞬間だけは、どうしても目を閉じなければならなかった。
――思い出す。
じわり、じわりと。
四十二年間、蓋をされていた記憶が、決壊寸前のダムのように、ひびを入れ始めた。
「おい、何をしている、目を開けろ!」
男の怒声が、遠くなる。
アルドの意識は、もっと深いところへ、沈んでいく。
1-2
アルド・グレインの人生は、驚くほど地味だった。
生まれは、ヴァレリア王国東端の小領地を治める、没落貴族の三男。三男というのは要するに、家督も継げず、騎士になるほど剣も立てず、かといって修道院に入るほど信心深くもない、という存在だ。つまり、最初からポジションがない。
准男爵の父親には「まあ、なんとかなるだろ」と言われ続け、兄二人には「お前は自由でいいな」と言われ続けた。自由、というのは、要するに期待されていないということである。
アルドはそれを、物心ついた頃から理解していた。
ただ、不思議と腐らなかった。
理由はわからない。ただぼんやりと、「俺はいつかなにかをする気がする」という根拠のない確信だけがあった。今思えば、あれは前世の記憶の残滓だったのかもしれないが、当時のアルドにそんなことがわかるはずもない。
十代は、畑仕事と薪割りと、たまに街に出て安酒を飲む日々。
二十代は、伝手を頼って王都の商会に雇ってもらい、帳簿をつける日々。特別できるわけでもなく、特別できないわけでもない。可もなく不可もなく、というやつだ。上司に怒鳴られ、同僚に出し抜かれ、昇給は三十歳を過ぎてもほとんどなかった。
三十代は、その商会がつぶれた。
アルドのせいではない。完全に上の人間の経営判断のミスだったが、割を食ったのは末端の雇われだった。再就職先を探しながら、実家の小領地に出戻り、また畑を耕す日々。
腰を痛めたのは、三十七歳のときだ。
以来、雨の日には必ず腰が重くなる。階段の上り下りが億劫になった。また、「今日はご機嫌はいかがでしょうか」と腰にお伺いを立てるようになった。
物忘れは三十五歳あたりから始まっていた。人の名前がとっさに出てこない。昨日の夕飯がすぐに思い出せない。それが四十を過ぎた頃には、朝起きて今日が何曜日かを把握するのに数秒かかるようになっていた。
こうして並べると、わりとひどい四十二年間だ。
いや、正確にはひどくもない。食えないわけではないし、戦争に巻き込まれたわけでもない。ただひたすらに、平凡だった。
天下を取るどころか、街の外れで野菜を作っている。
世界を動かすどころか、雨の日は腰が痛くて動けない。
前世の自分が見たら、なんと言うだろう。
――そう、前世の自分が。
アルドの意識の底で、何かがぐらりと揺れた。
前世。
その言葉が、鍵のように脳の奥に刺さる。
そうだ。俺には、前世がある。
四十二年間、完全に忘れていた。いや、忘れさせられていた。そういう契約だったから。
でも今、その蓋が、開こうとしている。
記憶が、戻ってくる。
俺が何者だったか。何をしていたか。何ができるか。
そして、ある女神と、どんな契約を交わしたか。
走馬灯のように流れる、前世の光景。
巨大な組織。動く金。動く人間。国家すら、駒として扱った日々。
そして最後に見えたのは、穏やかに微笑む女神の顔と、交わした言葉だった。
「ハードモードで、お願いするわ♪」
――なぜか少し「怒りの感情」が籠っている過去の自分の声。
アルドは、石畳の上で静かに頭を抱えた。
全裸で。槍に囲まれたまま。
そして、心の底から思った。
…………42年前の俺を、ぶん殴りに行きたい。
1-3
目を開けた。
男たちの槍が、まだそこにある。切っ先が、アルドの喉元で小刻みに揺れている。
さっきと、何も変わっていない。
ただ、アルドの中身だけが、別物になっていた。
「……ずいぶん待たせたな」
アルドは静かに言った。
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「な、なにを――」
「七本だな」
リーダー格の男が何か言いかけるのを、アルドは遮った。立ち上がりながら、視線だけで槍の数を数える。
「七本の槍で、一人の全裸の中年を囲んでいる。……ご苦労なことだ」
「動くなと言っている!」
「動いてないだろう?」
実際、アルドはまだ一歩も動いていない。ただ立っただけだ。それだけで、男たちの間に微妙な緊張が走った。
アルドはそれを、冷静に観察していた。
前世の記憶が戻るにつれて、見え方が変わってくる。
人間の重心。視線の向き。槍を握る力の入り具合。足の開き方。どこに体重がかかっているか。次の動作の予備動作がどこに出るか。
ひとつひとつが、驚くほど鮮明に読めた。
これだ。俺はこれを、知っていた。
前世で叩き込んだ、人を読む技術。絶対交渉権、と俺は呼んでる。
フィクサーとして生きた日々に身につけた、交渉と制圧の感覚が、ゆっくりと指先まで満ちてくる。
問題は。
「……身体が、ついてくるかだな」
小声で呟いた。
頭の中には動き方がある。完璧に、鮮明に。前世で無数に繰り返した、合気の捌き。重心移動。相手の力を借りる、あの感覚。
でも今の身体は、四十二年間ロクに鍛えていない、腰痛持ちのおじさんのものだ。
ぶっつけ本番にも程がある。
まあ、やるしかないのだが。
リーダー格の男が、目配せをした。
左右の二人が、同時に踏み込んでくる。
アルドの頭の中では、すべてがスローモーションだった。
右から来る男の重心は、やや前のめり。力任せに突いてくるタイプだ。左の男は慎重で、腰が引けている。怖がっている。
右から潰す。
一瞬で判断した。
踏み込んでくる右の男の槍を、アルドは真正面から受けなかった。わずかに半身を開き、槍の軌道を外側に誘導する。男の突いた力が、空を切る。そのまま男の右肩を掴み、勢いを借りて――
「――っ、うんっ!」
なんか変な声が出た。
男が地面に叩きつけられる。派手な音がした。
アルドは内心で冷静に反省した。技は出た。ちゃんと出た。ただ、自分の腰に電撃が走った。
痛い。地味に、じわじわと、ものすごく痛い。
でも止まる理由にはならない。
倒れた男が持っていた槍を拾う間もなく、今度はリーダー格が正面から突っ込んできた。大振りだ。感情的になっている。
アルドは動じなかった。
来い。その力ごと、もらう。
リーダー格の突進をわずかに横にずれて受け流し、男の勢いに乗せて背負い投げ。倒れ込む男の顔面に、肘を落とす。
鈍い音。
男が動かなくなった。
残りの五人が、一斉に固まった。
「…………」
誰も動かない。
アルドは静かに息を整えながら、心の中でもう一度だけ呟いた。
腰が、死ぬほど痛い。
前世ではこの程度、準備運動にもならなかったはずだが、今の身体にはなかなかこたえる。明日、確実に全身筋肉痛になる予感がした。
「……次、来るか?」
アルドは残りの五人を見渡した。
静かな声だった。怒鳴りもしない。凄みもない。ただ、確認しているだけのような口調。
それが、かえって効いた。
五人は、顔を見合わせ、そして――
一人が、槍を投げ捨てて走った。
残りも続いた。
数秒で、全員いなくなった。
静寂。
アルドは一人、石畳の上に残された。
全裸で。
腰を押さえながら、空を見上げた。さっきと同じ、やけに青い空だ。
前世の記憶は、まだ全部は戻っていない。でも、核心の部分は戻ってきた。俺が何者で、何ができて、これからどうすればいいか。
そのくらいは、もうわかる。
ため息をひとつ。
「…………まあ、やってやるか」
誰に言うでもなく、呟いた。
その時だった。
「あ、あの……!」
背後から、声がした。
女の声だった。
アルドは振り返った。
石畳の路地の端、崩れかけた壁の陰に、一人の娘が隠れていた。年のころ、二十歳かそこら。ボロをまとってはいるが、その顔立ちは隠しようもなく整っていて、身のこなしに育ちのよさが滲み出ている。
娘は、アルドをまっすぐ見て、言った。
「た、助けていただいて、ありがとうございます……!」
一拍の間。
「……その、あの」
娘の視線が、アルドの全身をさっと確認して、微妙に泳いだ。
「服は、どうされたんですか?」
アルドは答えなかった。
答えられなかった。
それだけは、前世の記憶が戻っても、まったく説明がつかなかった。
1-4
沈黙が、じわじわと広がっていった。
アルドは答えない。娘も、それ以上は聞かない。ただ、娘の視線が、アルドの顔と、アルドの全体と、アルドの顔と、を忙しなく往復している。
「……見るな」
「見てません」
即答だった。目は完全に顔に固定されていたが、その顔が微妙に引きつっていた。
アルドはため息をついた。
「我輩はアルド。服は、まだ、ない」
「見ればわかります。いえ、見てません」
「なぜないのかは、俺にもわからん」
「あの……どうして街中で全」
「聞くな」
「まだ聞いてません」
また即答だった。
この娘、口が立つ。アルドは内心でそう思いながら、とりあえず周囲を見回した。逃げ出した男たちの荷物が、あちこちに散らばっている。乱暴に漁ると、端切れのような布きれが一枚出てきた。腰に巻ける程度の大きさしかない。
選択肢はなかった。
巻いた。
「……多少はましか」
「多少は、そうですね。良くはないですが」
娘が、ようやくまっすぐこちらを見た。さっきより表情が落ち着いている。適応が早い。
アルドは改めて娘を観察した。
ボロ布をまとっているが、姿勢がいい。歩き方を知っている人間の姿勢だ。手が綺麗すぎる。顔の作りは整っているが、それよりも目が印象的だった。怯えているのに、逃げていない。怖いくせに、見ている。え、どこを?
育ちのよさと、それを隠そうとする意志が、同時に滲み出ている。
前世の感覚が、静かに告げる。
訳ありだ。
まあ、訳のない人間がこんな路地裏にいるはずもないが。
「助けてもらった、と言っていたな」
「はい。あの男たちに追われていて……」
「お前が目的だったのか」
娘が、一瞬だけ迷った。その一瞬を、アルドは見逃さなかった。
「……そう、だと思います」
嘘ではない。でも、全部でもない。
アルドは深く追わなかった。今は情報を集める段階じゃない。それより先に解決すべき問題がある。
「名前は?」
「エリシアと申します」
「改めて、俺はアルド・グレインだ」
短い沈黙。
エリシアが、おずおずと口を開いた。
「あの……グレイン様は、その」
「なんだ」
「先ほどの、あれは……魔法ですか?」
アルドは少し考えた。
魔法。この世界の人間からすれば、そう見えるのかもしれない。力で圧倒したわけでもなく、武器を使ったわけでもなく、相手が勝手に吹っ飛んでいったように見えたはずだ。
「違う」
「では、なんなのでしょう」
「……術だ」
嘘ではない。
エリシアはしばらくアルドを見つめた。何かを測るような目だった。それから、ふっと表情が緩んだ。
「術、ですか」
「ああ」
「……その術は、なぜ全裸で使うのですか?」
アルドは答えなかった。
答えられなかった。
それだけは、前世の記憶が戻っても、合気道の理論をどれだけ遡っても、説明のしようが一切なかった。なぜ今俺が全裸なのかは、……俺も知らないからだ。
「……流派の決まりだ」
「嘘ですね」
即座だった。
アルドは内心で、この娘はなかなか侮れないと思った。
路地裏に、乾いた風が吹いた。
アルドは腰の布きれを押さえながら、空を見た。日が傾きかけている。夜になる前に、屋根のある場所を確保しなければならない。
それから、服。
それから、飯。
やることは山ほどある。四十二年分の遅れを取り戻すにしては、スタートがあまりにもみすぼらしい。
でも、まあ。
アルドは小さく息を吐いた。
前世も最初はゼロからだった。いや、あの頃よりひどいスタートかもしれないが、持っているものは、あの頃より多い。
経験がある。技がある。そして今は、二つ分の人生分の知恵がある。
「グレイン様」
エリシアが、静かに言った。
「……私、行くところがないんです」
アルドは振り返った。
娘は、まっすぐこちらを見ていた。さっきの迷いが、もうない。覚悟を決めた目だった。
「一緒に、連れて行っていただけませんか」
沈黙。
アルドは娘を見た。訳あり確定。素性不明。追われている。面倒の匂いしかしない。
前世の自分なら、秒で断っていた。
でも……
「……はあ」
気がついたら、ため息をついていた。
「ついてこい」
我ながら、どうかしていると思った。
エリシアが、ぱっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます!」
「喜ぶな。まず服を調達する。俺の分だけだが」
「……私の分は?」
「気が向いたら前向きに善処し、検討に検討を重ね、検討を加速します」
「それ、やらない人の口上ですよ」
アルドはすでに歩き出していた。腰が、まだじんわりと痛い。全身筋肉痛の予感は、さっきより確実になっていた。
背後で、小さな足音がついてくる。
四十二年越しの、逆転劇。
スタートは、腰痛と全裸と、訳あり娘ひとり。
「まあ、悪くない。」
どうも、初めまして!UZI-18(ウージーエイティーン)と申します。挿絵が差し込めることを知らなかったので、落ち着いたら挿絵を入れたいと思います。キャラの設定画像とかはすでに作ってありますのでお待ちくださいますと幸いです。よろしくお願いいたします。




