第45話 それぞれの前夜
朝、目が覚めた。
断罪まで、五日あるはずだった。それが明日になっている。シャルの根回しが想定より早く進んだ。証人が揃った。エリシアが「前倒しにします」と言った。それだけのことだ。
アルドは体を起こした。
窓から朝の光が入っている。静かだ。
立ち上がって、体を動かし始めた。前世で習慣にしていたやつだ。ルーチェにこの世界とのチャンネルを整えてもらってから、毎朝やっている。呼吸を整えて、関節を順番にほぐして、気を通す。地味な作業だ。派手さが何もない。
(確かに効く)
体が軽い。回復が速い。発勁を使った翌日でも、以前ほど腰に残らない。
(……前世の俺が仕込んだ習慣だと思うと、認めたくはないんだが)
もし、明日、「万が一」でも荒事になっても立ち回れそうだ……
腰が何か言ってきた。
もう、自分を怒らせないって、約束したよな、我が友よ?と。
アルドは無視することにした。
朝食を終えたころ、シャルが手帳を広げていた。
「ガイウス子爵への連絡は昨夜のうちに入れた。今朝、王都に着いたと報告が来ている」
「証人は、誰が出廷できそうだ?」
「グレン伯爵、ウォルター子爵、ファーレン男爵——懐柔済みの主要な面々は全員揃う。ドワイト商会からも一名、商業区の証言ができる人間を出してもらう」
「シャルが動いたのか?」
「当然だ」
シャルが手帳に何かを書き込んだ。それから、ふと手を止めた。
「……明日、終わるんだな」
計算でも皮肉でもない声だった。ただの、素直な言葉だった。
「ああ」
シャルが少し間を置いた。それから、また手帳に目を落とした。
「こんな政治ごと、ささっと終わらせてしまおう」
アルドはめんどくさそうに言った。
昼前、ガイウス・レンフォードが別邸の近くの宿に入ったという報告が来た。アルドとシャルが顔を出しに行くと、ガイウスがすでに仁王立ちで待っていた。
「来たかアルド!実はな、今日の王都入りにあたって、私がひとつ段取りをしてな——二十年前、似たような場面で私が先陣を切ったことがあるのだが、あのときの経験が今日も——」
クロードが入口の脇に立っていた。
目を閉じていた。
(おいたわしや……旦那様……王都に来ても、空気が読めておりません……)
「ガイウス殿」とアルドが言った。「御足労痛み入ります。助かります!」
ガイウスの顔が輝いた。クロードが遠くで小さく頭を下げた。
「任せろ!明日は私が証人の筆頭に立つ。なぜなら私が——」
「旦那様」とクロードが静かに言った。
「明日の準備もございますので、くれぐれも」
「わかっておる!……武勇伝は、スペシャルな一つだけに絞るから、安心しろ!」
「……承知いたしました」
シャルの肩が動いた。
グレン伯爵が夕方に王都入りするという連絡が来たのは、その直後だった。ウォルター子爵も、ファーレン男爵も、続々と揃いつつある。
舞台が、整っていく。
宰相の執務室。
セドリックが報告に来た。
「刺客の件ですが——失敗しました。生き残りが一人、戻りましたが……証言を取られた可能性があります」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「証人が王都に集まり始めています。貴族の数は——」
「わかっている」
セドリックが口を閉じた。
ヴィクトルは窓に近づいた。王都が広がっている。灯りが散らばっている。
手の中に、小さな何かがいた。羽虫のように見えた。ただ、羽虫ではない。ヴィクトルがそれをそっと窓の外に放った。
それは音もなく、夜の王都に溶けていった。
ヴィクトルはしばらく、その行方を目で追っていた。王都の隅々が、見える。広場。路地。別邸の周辺。証人たちが動いている様子が、手に取るようにわかる。
(アルド・グレイン)
あの男の顔が頭に浮かんだ。読めない男だ。ただ——
(まだ終わりではない)
「セドリック」
「はい」
「明日、先ほど伝えた段取り通りに動け」
セドリックが頷いた。何も聞かなかった。それでいい。
「俺には、奥の手がある。まだ、この国では知られていない、スペシャルな『切り札』がな!」
ヴィクトルは窓の外を見たまま、静かに言った。
夜。
エリシアが一人、机に向かっていた。
書類が積まれている。証拠の一覧。証人の名前。上奏の文面。全部、自分で確認した。何度も確認した。
ペンを取った。
署名欄に、名前を書いた。エリシア・エトワール・ヴァレリア。王女としての署名だ。これを出せば、後には退けない。
手が、止まらなかった。
ずっとここを目指していた。一人でやろうとして、できなかった。限界を認めた。頼んだ。ここまで来た。
書類を重ねて、封をした。
「明日……」
エリシアが一言だけ呟いた。
部屋は静かだった。
宿に戻ったのは夜も遅い時間だった。
アルドは横になった。眠れない、ということはない。ただ、すぐには目を閉じなかった。天井を見ていた。
(長かったなような、そうでもないような)
カルヴェンを出てから、どれだけ経ったか……貴族を懐柔して、王都に来て、刺客を捌いて、証拠を揃えた。シャルが動いた。エリシアが動いた。ガイウスが来た。
(まあ……)
アルドは目を閉じた。
(悪くない道だったが)
腰が何か言ってきた。アルドは少し面倒くさそうに
(明日が終わったらな)
腰が「君は、信頼に報いなければならぬ。今はそれだけが大事なこと」と言ってきた。
(わかった。約束する。俺が一番きらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ)
アルドは前世で読んだ、太宰の短編集の一節を使って、腰に返した。
静かに息をついた。
「明日だ」
そう呟いて、目を閉じた。




