第41話 黒鷲は、まだ諦めない
執務室の燭台が、風もないのに揺れた。
宰相——ヴィクトル・クロスハルトは、窓の外を見ていた。夜の王都が広がっている。灯りが散らばっている。この街の全てを、自分の手の中に収めるつもりだった。
そのつもりだった。
(カルヴェン……っ!)
頭の中で、その地名が浮かぶたびに、胃の奥が重くなる。押さえ込んでいるが、それがどういう感情なのかは自分でわかっていた。怒りだ。そして——初めて感じる種類の苛立ちだった。
読めなかった。
没落した准男爵の三男坊。四十三歳。これといった経歴もない。チェスで言えば、盤外に転がっていた駒のひとつだ。そのはずだった。
それが今、盤の上に乗っている。しかも——中央に。
(何者だ、あの男は!?)
絶対交渉権という言葉は知らない。ただ、あの男が動いた場所では、必ず人が籠絡されていく。恐怖でも金でもなく——何かが、動いている。その「何か」が見えない。
それが、一番気に食わなかった。
扉が鳴った。
「入れ」
宰相の腹心の部下——セドリックが入ってきた。四十代、痩せた男だ。感情を顔に出さない。それがヴィクトルが気に入っている理由のひとつだった。
「報告します」
「話せ」
「貴族の離反は、現在把握しているだけで全体の八割以上に達しています。ヴォーン家の動きと、レンフォード子爵の根回しが主な要因かと」
「アルド・グレインは?」
「昨日、王都に入りました。エリシア王女殿下と別邸で接触したことが確認されています」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「殿下の動きについては」
「証拠の収集が、想定より速く進んでいます。このままでは——」
「わかっている」
セドリックが口を閉じた。
ヴィクトルは燭台の炎を見た。揺れていた。
「時間がない」
静かな声だった。怒鳴らない。怒鳴る必要がない。この言葉の意味を、セドリックは理解しているはずだ。
「あいつらの証拠が固まる前に、動く。熟した」
「……御意」
別室だった。
燭台が一本。窓のない部屋。石造りの壁が、音を吸っている。
男が一人、立っていた。三十代か四十代か、判然としない顔だ。目だけが鋭い。この男の名をヴィクトルは知らない。知る必要がないからだ。
「標的はアルド・グレイン。すでに確認している通りだ」
男が頷いた。
「エリシア王女には、手を出すな」
男がわずかに目を細めた。
「王女に手を出せば、取り返しがつかない。あくまで——没落貴族の三男坊が、王都で命を落とした。それだけでいい」
「承知しました」
男が立ち上がった。深く礼をして、扉に向かった。
ヴィクトルは「待て」と言った。
男が止まった。
「確実に、やれ。あの男は——普通ではない」
男が一瞬だけ振り返った。それから、何も言わずに出ていった。
夜の王都。
男は屋根の上を移動していた。音がしなかった。影が滑るように動いた。
標的の宿は把握している。警戒の具合も、出入りの時間帯も、全部頭に入っている。
男は一度だけ立ち止まった。宿の方角を見た。
「明日の夜……、いや、今夜……」
そう呟いた。
それから、夜の中に消えた。




