第37話 老骨、動く
ガイウス・レンフォード子爵の屋敷に立ち寄ったのは、昼前のことだった。
次の訪問先に向かう途中だった。シャルが「挨拶だけでも」と言ったので寄ることにした。アルドは特に異論はなかった。
応接間に通された。
ガイウスがすでに待っていた。こちらが来ると知っていたかのような顔だった。
「よく来た!実はちょうど良かった。先日な、近隣の三家に声をかけたのだが——」
武勇伝が始まる気配があった。
「それがな、一家は渋い顔をしていたのだが、私が昔の話をしてやったら——十五年前、あの大雪の年に私は単騎で山道を越えたことがあってな。その話をしたら、ようやく顔がほぐれてきたのだ。やはり実績というものは——」
クロードが遠くで静かに目を閉じた。
(おいたわしや……旦那様……)
口は動いていなかった。ただ、顔がそう言っていた。
シャルの肩が、微かに動いた。
アルドは真剣な顔でガイウスの話を聞いた。相槌を打った。「それは見事な判断でしたね」と言った。ガイウスの顔が輝いた。
一通り話が落ち着いたところで、アルドが切り出した。
「次の訪問先に向かうところです。マルコ・ヴェルテン男爵の領地に」
ガイウスの表情が、少し変わった。
「……ヴェルテンか」
「ご存知ですか?」
「知っている。愛想のいい男だ。ただ——」
ガイウスが少し間を置いた。珍しく、声を低くした。
「腹の中が見えない。私はあの男が好かない」
「参考になります」
アルドとシャルが立ち上がった。ガイウスが「気をつけろ」とだけ言った。武勇伝ではない声だった。
アルドたちが屋敷を出た。
応接間に、ガイウスとクロードだけが残った。
ガイウスはしばらく黙っていた。
それから、クロードを見た。
「……多分、お主の助力が役に立つだろう」
「…………」
「行ってこい」
クロードが静かに頭を下げた。
「御意」
マルコ・ヴェルテン男爵の屋敷は、山の上にあった。
街道から外れた山道を登った先にある。人目につかない場所だ。景色はいい。ただ、孤立している。
門をくぐった。使用人が丁寧に出迎えた。応接間に通された。調度品が派手だ。金がある。
マルコ・ヴェルテンが入ってきた。
四十代半ば。細身で、笑顔が上手い。目が細く、よく動く。第一印象は愛想がいい。
アルドは絶対交渉権を静かに走らせた。
見えた。
恐怖。焦り。それを隠すための愛想。そして——殺意だ。
(おいおい、真っ黒だな)
「ようこそおいでくださいました。遠いところをわざわざ——まあ、お茶でも」
使用人がお茶を運んできた。
アルドは視線だけで追った。
使用人の手が、一瞬だけ不自然に動いた。
(遅効性か)
アルドはカップに手をつけなかった。シャルも同じだった。
「……いただきます」とアルドは言った。カップを持ち上げた。口をつけなかった。テーブルに戻した。
ヴェルテンの目が、微かに動いた。
「折り入ってお話があります」とアルドが言った。「近隣の貴族の皆さんに、ヴォーン家として協力をお願いしているのですが——」
「ええ、ええ、もちろん。私としても——」
「その前に」
アルドが静かに遮った。
「そのお茶、飲まない方がいいですよ。私たちも飲んでませんので」
ヴェルテンの顔から、笑みが消えた。
一秒あった。
それから、ヴェルテンが何かに合図を送った。
扉が開いた。
廊下から、男たちが入ってきた。剣を持っている。体格がいい。動き方を見れば、素人ではないとわかる。
次々と入ってきた。
十人。二十人。三十人。
部屋の中が、人で埋まった。
ヴェルテンが笑った。先ほどの愛想笑いではない。腹の底からの笑いだった。
「お気づきになりましたか。さすがです。ただ——」
両手を広げた。
「この屋敷は山の上にある。街道からも遠い。どんなに声を出そうと、助けはこない。この屋敷で行われる悪意から逃れられた者は、いないのですよ」
高笑いが響いた。
アルドとシャルが、静かに構えた。
そのときだった。
男たちの中で、何かが起きた。
音がしなかった。
ただ、後ろの方から順番に、男たちが崩れ落ちていった。
一人。また一人。また一人。
ヴェルテンの笑いが、途中で止まった。
「……な」
振り返った。
三十人のうち、半数以上がすでに倒れていた。
部屋の隅に、三人が立っていた。
白髪の老人。端正な顔立ちの若い執事。小柄なメイドだ。
三人とも、表情がなかった。
老人——クロードが、静かに一礼した。
「ガイウス・レンフォード様の命により、助太刀いたします」
少し間があった。
「老骨ではございますが——尽力いたします」
残りの混乱した手練れたちが動いた。
シャルが剣を抜いた。
速かった。無駄がない、流れるような一閃。向かってきた男を二人、あっという間に仕留めた。
アルドは特に構えるでもなく、ゆらりと動いた。
来た男の力を受け流した。方向を変えた。男が自分で転んだように見えた。また来た。また転んだ。「投げた」というより「転んだ」という動きだ。周囲が一瞬、困惑した。
クロードと執事とメイドは、音もなく動いた。
あっという間だった。
気づけば、部屋の中に立っているのはアルドとシャル、クロードたち三人、そしてヴェルテンだけになっていた。
ヴェルテンが壁際に追い詰められていた。
アルドが正面に立った。
絶対交渉権を走らせた。
見えた。
恐怖。混乱。そして——悔恨はない。後悔もない。ただ、保身だけがある。
(こりゃ救えないな)
静かに、そう思った。
「男爵、『最後に』ひとつだけ聞きます」とアルドは言った。
「宰相から、どこまで指示を受けていましたか?」
ヴェルテンが黙った。不適な笑みを浮かべていた。
「あ、やっぱ、答えなくていいです」
アルドが一歩引いた。
シャルが前に出た。
ヴェルテンが何か言おうとした。
言えなかった。
それから一週間後。
一帯に、ニュースが広まった。
マルコ・ヴェルテン男爵が、盗賊に襲われ命を落とした。盗賊たちはその後、仲間割れを起こし、全員死亡した——というものだった。
馬車の中でシャルからその話を聞いて、アルドは少し黙った。
「……クロードからの報告か」
「レンフォード経由でな」
アルドは窓の外を見た。
(アフターケアも万全か)
盗賊が全員死亡。証拠は残らない。関係者の口も塞がれた。ヴェルテンが宰相派だったという事実も、表には出ない。
(絵の描き方が、完璧すぎる)
あの白髪の老人。端正な顔をした若い執事。小柄なメイド。三人で音もなく半数を片付けた。後処理まで一週間で仕上げた。
「……なかなか食えない爺さんだな」
「クロードのことか?」
「ああ……」
シャルが少し目を細めた。
「ガイウスが『行ってこい』と言えるということは——クロードの裏の顔を、ガイウスはわかっているということだよな」
「そういうことだろうな」
「……領民から慕われている愚直な子爵と、元暗殺者の執事長か」
「悪くない組み合わせだ」
シャルの肩が動いた。
馬車が揺れた。先程の戦闘で、腰や太ももが、盗んだバイクで走り出しそうな、未成年の主張をしてやろうかと画策している。
心を捨てろ捨てろ、お前は大人だろ?筋肉たちよ。
まぁ、こういうのも悪くない、とアルドは思った。




