第36話 黒鷲の古傷
報告を聞きながら、宰相・ヴィクトルは静かに指を組んだ。
「ファーレン男爵が、転んだ」
「はい。ヴォーン家の令嬢と、グレインという男が訪問した翌日から、態度が変わりました。レンフォード子爵も同様です。子爵は他の貴族への働きかけまで買って出ているとの報告が」
「……レンフォードが?」
ヴィクトルは少し目を細めた。
レンフォードは手強いと踏んでいた。プライドが高く、一筋縄ではいかない男だ。それが一度の訪問で転んだ。
「グレインが直接動いたか」
「そのようです」
「他の領地への締め付けは?」
「継続しております。ただ——じわじわと、崩されています」
部下が退室した。
執務室に一人が残った。
ヴィクトルは机の上の書類を見た。見ていなかった。
(アルド・グレイン)
没落貴族の三男坊。記録上は何もない男。それが、カルヴェンを動かした。近隣の貴族を崩している。自分の三年分の積み上げを、少しずつ剥がしていく。
なぜこんな男が、ここまでできる。
その疑問が、古い記憶を引っ張り出した。
前世のことを、ヴィクトルはあまり思い出したくなかった。
それでも、思い出してしまうことがある。
自分たちは、前世のアルドの組織に潰された敵対勢力の残滓だった。
世界を掌握したフィクサーに対して、反体制派として動いていた。負けていた。追い詰められていた。それでも諦めなかった。一矢報いてやる——その一念だけで動いていた。
そしてある日、機会が来た。
フィクサーの動きを掴んだ。隙があった。本来なら暗殺などという手段は選ばなかったはずだ。ただ、自分たちは追い詰められていた。他に手がなかった。
仕掛けた。
事故を装った。
すると、あの男が、絶命した。いとも簡単に。
(やってやった!)
あの瞬間の高揚感を、ヴィクトルは今でも覚えている。長く苦しめられた相手を、ついに仕留めた。一矢報いた。これで終わった——そう思った。
思った。
思っていたのだが。
前世アルドの組織が仕掛けた弔い合戦が、始まった。
最初は、仲間の一人が消えた。連絡が途絶えた。次に、また一人。また一人。
消え方が、おかしかった。
ただ消えるのではなかった。痕跡が残った。
「消えた仲間」の、一部だけ、残った。
人としての尊厳を無視した「消し方」だった。見せしめだと、すぐにわかった。
それから、家族が消された。わざわざ家族の最期の映像を送りつけてきた。
そして、ついに自分も、組織に捕まった。
その場で自決するべきだったと、深く、深く、後悔した。
仲間の家族が、目の前で——。そして仲間も。そして……
ヴィクトルは記憶を途中で止めた。
いつもそうする。そこから先は、引っ張り出さない。
ただ、断片的に浮かぶ。どうしても浮かぶ。
命乞いをした者は何人もいた。全ての情報を吐いた。洗いざらい吐いた。それでも助からなかった。情報を抜き取られた後で、丁寧に処された。
そして自分も、捕まり、
五感がなくなるギリギリまで、拷問された。
耐え難い痛みがあった。恐怖があった。それよりも——
(あの目が)
忘れられない目があった。
フィクサーの片腕だった。オカマだった。体は男だったが、心は女だったのだろう。見た目は普通だった。声は低いが、感情が昂ると、女口調になる。そして——指示を出すときの目が、違った。
冷たかった。
人が苦しんでいるのを見ながら、全く揺れなかった。当然のことをしているという目で、淡々と指示を出し続けた。
(俺たちは、とんでもないことをしてしまった……)
その時初めて、わかった。もう遅かった。
今でも、あの顔を思い出すだけで恐怖で涙が溢れ出る。動悸が止まらない。前世で一番恐ろしかったのは、あのフィクサーでも、あの組織でもなかった。
あのサディスティック・オカマだった。
だから今世では、暗殺は慎重になった。
感情に任せた行動が、いちばんの悪手だ。それを、骨身に沁みて知っている。
アルド・グレインへの対策は、いつでも動ける。いつでも殺せる。ただ——それをやった瞬間が、終わりの始まりになる可能性がある。前世でそれをやった。結果がどうなったかを、この身体が覚えている。
殺すにしても、タイミングがある。
今はまだ、その時ではない。
そう言い聞かせながら、ひとつだけ、静かに安堵していることがある。
(……この世界には、あのサディスティック・オカマはいない)
前世とは違う世界だ。あの冷たい目をした、絶対的恐怖の存在は、ここにはいない。あれほどの怖い存在など、この世界には存在しない。
それだけが、救いだ。
杞憂でしかない。
大丈夫だ。
ヴィクトルは立ち上がり、窓の前に立った。夜の王都が広がっている。灯りが点在している。静かな夜だ。
静かな夜だった。
ただ——もしかすると、あの冷たい目が、再び、自分に向くのでは?
被害妄想のフラッシュバックで、頭痛を抱えていた。
考えすぎだ、気のせいだ。
宰相・ヴィクトルは、今夜も、強めの睡眠薬を飲んだ。




