第35話 前世の話
レンフォード領を出て、しばらくしたころだった。
馬車の中は静かだった。窓の外を景色が流れていく。夕方に差しかかった空が、少しずつ橙色に変わりつつある。
シャルが手帳を閉じた。
それからしばらく黙っていた。
「……大変だったんだな」
唐突に言った。
アルドは少し間を置いた。
「何がだ?」
「前世の話だ。色々あったんだろう」
アルドは窓の外を見た。
違和感があった。ずっとあった。カルヴェンにいた頃からだ。前世の話をするたびに、エリシアは必ず懐疑的な反応をした。当然だ。普通はそうなる。「何を言っているんだ」という感情が、言葉の端々に滲み出る。
だがシャルは違った。
否定しない。懐疑的な顔もしない。ただ、受け取る。まるで、そういうものだと知っているかのように。
(なぜだ?)
ずっと引っかかっていた。
「……ひとつ、聞いていいか?」
「何だ?」
「お前は俺の前世の話に対して、大した反応もしないよな?否定もしない」
「ああ」
「普通は大抵、世迷言だという感情が滲み出る。だがお前にはそれがない。ずっと気になっていた。なぜだ?」
シャルが少し間を置いた。
窓の外を見た。それからアルドを見た。
「……実は私も、前世の記憶があるからだ」
アルドは表情を変えなかった。
内心では、少し驚いた。
(!?)
顔には出さなかったが。前世で読んでたヤンキー漫画みたいなびっくり具合だった。
「そんなに驚いた顔をするとは思っていなかった」
「していない。俺はポーカーフェイスでミステリアスダンディだからな?」
「してたぞ?」
「気のせいだ。そう思いたいのならそれでも俺は一向に構わん。主観の問題だ」
シャルの肩が少し動いた。それから、また窓の外を向いた。夕暮れの景色を見ながら、静かに話し始めた。
「前世は……今とは全く違う世界だった。文明が栄えていて、今の世界より色々と便利だった。ただ——」
少し間があった。
「私は、体が男だった」
アルドは何も言わなかった。
「心は女だったがな。一応、そういう人間への理解がある世界ではあった。表面上は。だが実態は違う。周囲の目がある。家のこともある。だから内側を隠して生きていた。ずっと」
淡々とした声だった。感情を抑えている声だ。抑えているからこそ、重さがある。
「それを——一発で見抜いた男がいたんだ」
アルドは少し姿勢を変えた。
「当時、敵対していた勢力の幹部だった。圧倒的な知略と暴力に、私は死を覚悟した。しかし、その時その男が言ったんだ。『お前、本当は女なんだろ?お前の体と心が悲鳴をあげている。俺の前では無理しなくていいからな』と……最初、何の話かと思ったよ。だって、ついさっきまで命のやり取りをしていた相手なんだぞ?調略してくるとは思ってなかった」
(……その話)
アルドの内心で、何かが静かに動いた。
(俺のことじゃ——)
少し間があった。
(……ああ)
繋がった。
あいつだったのか。過去の名前、なんだっけ?雪……?浩……思い出せん。
(……とりあえず黙っておこう)
「私の所属していた組織は壊滅し、生きる気力も本当は亡くなっていた。そんな時に声をかけられた。前の組織でも、個を殺して生き続けてきた。その組織が亡くなったことで、生きる指針がなくなった……彼が、次の私の指針になると言ってくれたんだ。それで、私はその男の部下になった。全てを捧げて、身を粉にして、彼の「駒」として働いた。程なくして——彼は世界を掌握した」
シャルの声が、少しだけ低くなった。
「だが、彼は燻っていた反体制派の残滓に消された。私たちはもちろん弔い合戦をして、反対勢力を全て殲滅した。非戦闘員・協力者含めて、全員だ」
全員だ、という言葉に、少し力があった。
「それでも……心の穴が埋められなくてな。私は自決した。それだけだ」
シャルが少し息を吐いた。
「もう戻ってこない、大昔の記憶だ。あれほど恋焦がれた相手も、そうそういない」
アルドは黙っていた。
俺のこと、そんなに好きだったんだ。来世で知るとは……
「この人生は貴族令嬢として政略結婚をして生涯を終えるのだろうが——それまでは自分の道を歩みたい。彼の口癖みたいなものでね」
シャルが少し笑った。自嘲でも感傷でもない、ただ静かな笑いだった。
「『お前の道はお前が決めろ。俺じゃない、お前自身がな』——それが今の人生でも、私の心の支えみたいなものなのだ」
アルドは窓の外を見た。
夕暮れの空が、橙から少し赤に変わっていた。
「……そうか」
それだけ言った。
それ以上は、言えなかった。本人です!とは到底いえない。
今はただの変なおじさんだから……
しばらく沈黙が続いた。
シャルが不意に「あ」と言った。
「どうした?」
「発勁」
「……?」
「あれは——彼の得意技の一つでもあった。なんで今まで思い出せなかったんだろ?」
アルドの内心に、冷たいものが走った。
(やば)
(気づかれたか?)
顔には出さなかった。何も言わなかった。シャルはアルドを見ていなかった。どこか遠くを見ていた。記憶を手繰り寄せているような目だった。
「……でも」
シャルがアルドを見た。
「彼の方が、何十倍もスマートで洗練されていたから」
「あ、ああ、そうか」
「アルドのはすごいけど——下位互換みたいな感じ」
アルドは少し間を置いた。
(……下位互換)
(功夫が足りないだけだ)
アルドはちょっとだけ、前世の自分に嫉妬した。
「まあ」とアルドは言った。「功夫が足りないからな。俺も精進しないと」
「そうだな」とシャルが言った。あっさりしていた。
アルドは窓の外を向いた。
(多分、無意識で過去の俺の姿と被ったことで、発勁を体得したいと思ったんだろうな)
そういうことだ。そういうことにしておく。
「こっちも聞きたいことがある」
シャルが言った。
「何だ?」
「絶対交渉権、とはなんだ?前から気になっていた」
アルドは少し考えた。
それから、左目をゆっくりと手で押さえた。
不敵な笑みを浮かべた。
「……何でも見通す眼みたいなものだ」
「ほう?」
「千里眼の力を舐めるなよ!」
シャルが少し目を細めた。
「それ、邪眼の妖怪の、ひえ——」
「それ以上はダメだ」
「え?」
「異世界の神が介入してくる」
シャルが少し黙った。
「……どういうことだ?」
「うまく説明できないが、とにかくダメだ」
「……わかった」
納得していない顔だったが、それ以上は追わなかった。
シャルの肩が、少し動いた。今日何度目かわからない、声に出さない笑いだった。
「……変な男だな」
「よく言われる」
「褒めてないぞ」
「知っている」
シャルがまた肩を動かした。
それからしばらくして、シャルが静かになった。
寝ていた。
背もたれに頭を預けて、規則的な呼吸をしている。長話で疲れたのだろう。それとも、久しぶりに前世の記憶を引っ張り出して、消耗したのかもしれない。
アルドは窓の外を見た。
空はもう暗くなりかけていた。星がひとつ、出始めていた。
(あいつが、こんなところに来ていたのか)
静かに思った。
前世で、確かにいた。体は男で長身、見た目はかなり威圧的だったが、誰より実直で真面目だった。誰より身を粉にして動いた。誰より忠実だった。あいつが女だったことは、絶対交渉権を使って知っていた。
ただ——前世の自分は、恋愛対象が異性だったため、そういう感情は全く抱かなかった。部下として、人間として、認めていた。それだけだった。
今世では、女として生まれてきた。
そして、また同じ場所にいる。
(奇妙なものだな)
アルドは小さく息を吐いた。
「……女になれて良かったな」
声に出して言った。
シャルには聞こえなかった。
馬車が不規則に揺れていた。悪くない夜だ、とアルドは思った。




