第34話 武勇伝は、おいたわしや
馬車の中で、シャルが手帳を開いた。
「次はレンフォード子爵だ」
「どんな男だ?」
「ガイウス・レンフォード。五十三歳。由緒正しい家柄で、実力も本物だ。領地経営は堅実で、領民からの評判も悪くない」
「聞こえはいいな?」
「ただ……」
シャルが少し間を置いた。
「……周囲の貴族からは、煙たがられている」
「……なぜだ?」
「自慢が多い。武勇伝が多い。会うたびに同じ話を繰り返す。家族にも疎まれているという話だ」
アルドは少し考えた。
(自慢が多くて周囲に疎まれている、か)
「宰相派か?」
「中立だ。ただプライドが高いから、簡単には転ばない。こちらの話を聞く前に、自分の話を始める可能性が高い」
「そうか」
「……正直、今回は時間がかかるかもしれない。手強い相手だと思っている」
アルドは窓の外を見た。レンフォード領の景色が流れていく。整った農地だ。道も綺麗だ。領地経営が堅実というのは本当らしい。
(前世でも同じ手合いはいた)
自負がある人間。実力が本物だからこそ、認めてもらえないことへの渇望が深い。一番面倒なタイプだ——と、前世では思っていた。
ただ……
(一番落としやすいタイプでもある)
シャルには黙っておいた。
レンフォード子爵邸は、堂々としていた。
門が大きい。庭が広い。手入れが行き届いている。使用人の動きが揃っている。主人のこだわりが隅々まで行き届いている邸だ。
応接間に通された。
調度品が渋い。派手さはないが、全部本物だ。家格の重みがある。
ガイウス・レンフォード子爵が入ってきた。
大柄だった。白髪が混じっているが、背筋が真っ直ぐだ。歩き方に威厳がある。目が鋭い。第一印象は確かに手強そうだ。
アルドは絶対交渉権を静かに走らせた。
見えた。
認められたい。わかってほしい。自分には価値がある、それを誰かに言いたい。——そして、孤独だ。深いところで、ひどく孤独だ。
(……チョロい)
アルドは内心でそう思った。声には出さなかった。顔にも出さなかった。
隣でシャルが少し姿勢を正した。手強い相手に備えている。
「ヴォーン家のご令嬢が直々においでとは」と子爵が言った。声が低くて響く。「わざわざご足労をおかけした。レンフォードへようこそ」
「お招きいただきありがとうございます」とシャルが答えた。
子爵がアルドを見た。値踏みする目だった。
「こちらは」
「アルド・グレインと申します」
「グレイン……東端の」
「はい。三男坊です」
子爵が少し目を細めた。身分的に格下と判断した目だ。ただ——追い払うほどでもない、という目でもある。
「まあ、おかけください」レンフォードは、シャルに声をかけた。
全員が座った。
子爵が口を開いた。
「ところで——先日、我が領の東側で狩りをしたのだが……」
(始まった)
アルドは静かに、少し前に身を乗り出した。
子爵の話は、止まらなかった。
狩りの話が終わると、若い頃の剣の話になった。剣の話が終わると、十五年前に近隣領地の争いを仲裁した話になった。仲裁の話が終わると、それに関連して王都に呼ばれたときの話になった。
シャルが途中から、すっかり微妙な顔になっていた。
アルドは、ずっと聞いていた。
ただ聞いているだけではなかった。絶妙なタイミングで相槌を打った。「それはすごい」ではなく「なるほど、そういう判断をされたのですか」という相槌だ。子爵の武勇伝の中で、本当に判断が良かった部分だけを拾って返した。
「——その場面で引いたのは、勇気がいる決断だったのでは?」
子爵が少し目を輝かせた。そしてアルドに体を向けて話始めた。
「そうなのだ!そこをわかってくれるか。あのとき周囲は全員、押せと言った。だが私は引いた。結果として損失を最小限に抑えられた。しかし誰も——」
子爵の勢いが、はたと、止まった。
アルドが沈黙を破った。
「誰も、正しく評価しなかった」
「……そうだ」
子爵の声が、少し変わった。
遠巻きに立っていた執事長が、そっと目を細めた。白髪の老人だ。長年仕えているのだろう。子爵を見る目が温かい。ただ——どこか不憫そうでもある。
(旦那様……)という顔だ。
アルドはそれを視界の端で確認して、続けた。
「レンフォード子爵。ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「今おっしゃった仲裁の件。あの判断がなければ、近隣三領地の争いは長引いていた。そうですね?」
「……まあ、そうだな」
「では、その三領地の領民は今も普通に暮らしている。子爵の判断のおかげで」
子爵が少し黙った。
「そういう言い方は……したことがなかったな」
「周囲はきっと、結果だけを見ていたのでしょう。ただ私には、子爵が何を考えてその判断をしたかが、少し見えた気がしました」
子爵がアルドを見た。今度は値踏みする目ではなかった。
何か別の目だった。
「……グレイン、といったか」
「はい。どうぞ、お気軽にアルドとお呼びください」
「アルド、お前は……」子爵が少し声を低くした。
「お前は、変わった男だな!」
「よく言われます」
「褒めているんだ!」
「ありがとうございます!」
子爵がしばらく黙った。
執事長が、また遠くで目を細めていた。
それからしばらくして。
「——お前だけだ」
子爵が、静かに言った。
アルドとシャルを交互に見て、それからアルドだけを見た。
「本当の私を、わかってくれたのは……」
シャルが微かに息を呑んだ。
「大げさではないか、思うかもしれん」と子爵が続けた。「だが本当のことだ!家内も、息子も、近隣の連中も——みんな、表面だけを見る!私がどういう判断をしてきたか、何を考えてきたか、そういうことを聞こうとする者がいない!」
「……それは」
「……孤独だよ」
子爵が笑った。自嘲気味な笑いだった。
「まあ、自業自得かもしれんがな。話が長いと言われるのは知っている。それでも——」
子爵が目を押さえた。
大柄な五十三歳の子爵が、静かに、泣いていた。
執事長が「旦那様……」と呟いた。声に出さなかったが、口がそう動いた。目が潤んでいた。
シャルが完全に固まっていた。
アルドは何も言わなかった。しばらく待った。
子爵が顔を上げた。少し照れたような顔をした。
「……失礼した。みっともないところを見せた」
「いえ」
「シャルロット、アルド。今度はヴォーン家やカルヴェンでの話、聞かせてくれ。お前たちに、協力できることがあれば——惜しまない」
「ありがとうございます!」
「他の連中にも、私から声をかけよう。このレンフォードが動いたとなれば、多少は話を聞く者も出てくるだろう!」
シャルが小さく目を見開いた。
アルドは静かに頷いた。
子爵邸を出た。
馬車に乗り込んで、扉が閉まった。
しばらく沈黙が続いた。
シャルが口を開いた。
「……泣かせたぞ?」
「……ああ」
「五十三歳の子爵を」
「ああ」
「……あれが、懐柔か」
「そうだ」
シャルがアルドを見た。何か言いたそうな顔だった。ただ、言葉が出てこないようだった。
「最初、私は手強いと思っていたが」
「ああ」
「……チョロかったな」
「シャルが事前に話をした人物像から大体わかってた」
「……なぜ最初から言わなかった?」
「言ったら面白くないだろう?それにシャルが知らない方が、素の反応になるからいい」
シャルが二秒ほど黙った。
それから肩が動いた。今日一番長く、動いた。
「……悪趣味だ」シャルは、アルドの脛を軽く足で小突いた
「前世からそういう性分だ」
「前世で一体何があったんだ本当に……」
「色々あった」
「やっぱり抽象的だな?」
「そういうものだ。聞きたいなら話してもいいが、六時間くらい時間をくれ」
「遠慮する。疲れたから少し休む」そう言って、シャルは目を閉じた。
(……誰も、俺の話を聞いてくれない、か……)
アルドは、さっきまで涙を流していた子爵と自分を重ねていた。
そしてアルドはシャルの寝息を確認し、一人、涙した。
馬車が走り始めた。レンフォード領の整った景色が、窓の外を流れていく。
アルドは少し目を閉じた。
(執事長の顔が良かった)
長年仕えてきた主人が、初めて誰かにわかってもらえた瞬間の顔。ああいう顔を見ると——
(悪くない仕事だ)
前世でも、たまにああいう顔を見た。滅多になかったが。
馬車が揺れた。
腰は問題なくなったが、尻が痛くなってきた。




