第31話 小心者の転がし方
ファーレン男爵領に入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていた。街道沿いの農地が整えられている。領民の家が新しい。道が補修されている。どれも金がかかることだ。
(羽振りがいい、というのは本当だな)
アルドは窓の外を眺めながら、そう思った。
「見ての通りだ」
向かいの席からシャルが言った。膝の上に手帳を広げている。
「ファーレン男爵。ミロード・ファーレン、四十七歳。男爵位としては中程度の領地規模だが、ここ数年で急に羽振りがよくなった。理由は不明。本人は商才があると触れ回っているが」
「嘘だな」
「私もそう思う。商才があるような男ではない」
「どういう男だ?」
シャルが少し間を置いた。
「小心者だ。家格の割に見栄っ張りで、上の者には徹底的に従う。怖い相手には逆らえない。ただ、それなりに賢いから立ち回りは上手い」
「壁の上に座り続けてきた、か」
「そういうことだ」
アルドは少し考えた。絶対交渉権を使えば欲望は読める。小心者で見栄っ張り——おそらく「認められたい」「安全でいたい」「今の立場を手放したくない」の三つが軸になっているはずだ。その三つを順番に触れば、転がすのは難しくない。
「役割を確認する」
「アルドが核心を突く。私が家格と情報網で揺さぶる」
「そうだ。お前が先に出ろ。俺は後ろで見ている」
シャルが手帳を閉じた。
「任せておけ」
言い方がいつもより少し弾んでいた。こういう場が好きなのだろう、とアルドは思った。
男爵邸は、領地の規模に対して明らかに豪奢だった。
門構えが新しい。石畳が綺麗だ。迎えに出てきた使用人の服も上等だ。全部金がかかっている。全部最近のものだ。
(わかりやすい男だ)
応接間に通された。調度品が並んでいる。どれも高い。どれも趣味がない。「高いものを買った」という事実だけがある部屋だ。
ミロード・ファーレン男爵が入ってきた。
四十七歳。中背で、少し太っている。顔に愛想がある。笑い方を知っている男だ。ただ——目が笑っていない。客を値踏みしている目だ。
アルドは絶対交渉権を静かに走らせた。
見えた。
認められたい。格上に認められたい。怖い相手には従いたい。今の金の流れを手放したくない。今の立場を手放したくない。
——そして、何かを怯えている。
(怯えている、か)
それが少し引っかかった。ただ今は置いておく。
「これはこれは、ヴォーン子爵家のご令嬢が直々においでとは」
男爵がシャルに向かって丁寧に頭を下げた。アルドのことはちらりと見て、すぐに視線をシャルに戻した。格下と判断したのだろう。
(それでいい)
「ファーレン男爵、お時間をいただきありがとうございます」
シャルの声が変わった。普段より少し低く、少し硬い。貴族として話すときの声だ。
「ヴォーン家として、近隣の皆様との関係を改めて深めたいと考えており、こうしてお伺いした次第です」
「それはそれは。ヴォーン子爵家といえば、王都でもご高名な——」
「カルヴェンの件は、ご存知ですか?」
シャルが静かに遮った。
男爵の顔が、一瞬固まった。
「……カルヴェン、といいますと?」
「中央市場の件です。宰相府の商業介入が、先日完全に排除されました。ご存知でなければ、それはそれで構いませんが」
男爵の目が泳いだ。知っている目だ。
「……ああ、そのような話は、多少耳に」
「ドワイト商会がカルヴェンを押さえました。そのドワイト商会と、ヴォーン家は現在、強固な協力関係にあります」
畳み掛けるように、シャルが続けた。
「近隣の情報網も、かなり整ってきています。どの領地に、どのような金の流れがあるか——まあ、おおよそのことは把握しております」
男爵の顔から、笑みが消えた。
(そろそろだな)
それまで壁際に立っていたアルドが、初めて動いた。男爵がそちらを向いた。
アルドは男爵の目を、静かに見た。
「ファーレン男爵」アルドは覇気を込めて、低く声をかけた。
「は、はい」男爵はその覇気に気圧された。
「あなたは賢い人だ」アルドは覇気を一気に緩め、柔和な笑顔を向けた。
男爵が少し面食らった顔をした。褒められると思っていなかったのだろう。
「賢い人は、どちらに乗るべきかを見誤らない。今がその見極めどきだ、ということは——もうわかっておられるでしょう」
沈黙が落ちた。
五秒ほどの沈黙だった。
男爵の目が、一度だけ揺れた。
「……ヴォーン家と、ドワイト商会は」
「カルヴェンを取りました。次は王都です」
アルドは短く、静かに言った。余裕がある声で。急かさない。ただ、事実だけを置く。
男爵がゆっくりと息を吐いた。
「……よろしければ、もう少し詳しいお話を伺えますか」
シャルの肩が、微かに動いた。
男爵邸を出たのは、一時間ほど後のことだった。
馬車に乗り込んで、扉が閉まった。
「思ったより早かったな」とアルドは言った。
「小心者はこういうものだ」とシャルが言った。「怖い方に従う。それだけだ」
「前世でも——」
アルドは少し止まった。
「……似たような手合いは、よく見た」
少しの沈黙、そしてシャルが口を開いた。
「前世、というのはどういう場所だったんだ?」
「……色々あった」
「抽象的だな?」
「そういうものだ」
シャルの肩が動いた。
馬車が走り始めた。男爵邸の門が遠ざかっていく。
アルドは少し黙った。
(引っかかる)
さっき絶対交渉権で読んだ欲望の中に、ひとつだけ気になるものがあった。「今の金の流れを手放したくない」——その金の出所に対して、男爵は怯えていた。感謝でも依存でもない。怯えだ。
欲望は読めた。ただ、所属は読めない。どこから金が来ているかまでは、絶対交渉権では見えない。
それでも——方向性だけは、わかる。
「シャル」
「何だ?」
「あの男、誰かに飼われているな」
シャルが少し間を置いた。
「……私も同じ読みをした。羽振りの良さの出所が、領地経営の範囲を超えている。そしてあの怯え方は——」
「金をくれる相手が、怖い相手でもある、ということだ」
二人の視線が合った。
宰相の手が、ここまで伸びている。カルヴェンだけではない。近隣の貴族にも、じわじわと根を張っている。
ただ——今日のところはここまでだ。男爵は転がした。それで十分だ。深追いする必要はない。
(一枚一枚、剥がしていけばいい)
「好都合だ」
シャルが少し目を細めた。
「……どのあたりが好都合なんだ……?」
「手の内が見えた。それだけで十分だ」
シャルが少し間を置いてから、手帳を開いた。何かを書き込んでいる。
馬車が街道を走っていく。空は青く、風は穏やかだった。
次の領地まで、半日ほどだ。
悪くない午後だ、とアルドは思った。




