第30話 騎手になれ、さすれば君は 強くなる
馬車が揺れるたびに、腰が「未成年の主張、続編希望」と言ってくる。
気のせいだ、とアルドは思った。完治した。氣功で回復した。医者にも太鼓判を押された。腰は問題ないはずなのだ。
馬車がまた揺れた。
(……問題ない。断続的な揺れが来ているから、不安になってるだけだろう)
「さっきから難しい顔をしているが」
向かいの席からシャルが言った。手帳を膝に置いたまま、こちらを見ている。
「腰か?」
「違う」
「そうか」
「すまん腰だ」
「なぜ否定した?」
シャルが手帳に視線を戻した。三秒ほどして、また顔を上げた。
「……ひとつ、聞いていいか?」
「何だ?」
「カルヴェンで見た、あれだ」
アルドは少し間を置いた。
「もう少し絞れ。今、二万件くらい俺検索でヒットしたぞ」
「アルドが男を吹き飛ばしたやつ。拳を思いっきり当てたわけでもないのに、ドン、と来ていた。あれは何だ?」
発勁のことだ、とアルドはすぐにわかった。覚醒して初めて致命傷を敵に負わせた、あのときのことだ。
そろそろいけるかなと思って使ってみたが……功夫がまだ足りてなかった。腰にかなりきた。それでも咄嗟に出た。
「発勁だ」
「……ハッケイ?」
「4000年くらい前の古代王朝に伝わる格闘技の技法だ。簡単に言うと、身体の内側から爆発的な力を短い距離で叩き込む」
シャルが少し目を細めた。
「私でも……習得できるものか?」
「功夫を積めばな」
「その功夫というのは何だ?前にも聞いたが」
アルドは少し考えた。
「……簡単に言うと、努力とか精進とか、積み上げとか、そういうことだ」
「抽象的だな」
「そういうものだ」
シャルが少し間を置いた。
「もっと具体的に言えないのか?」
アルドは窓の外を見た。街道が続いている。木々が流れていく。空が青い。
(功夫、か)
前世で師匠に言われたことがある。功夫とは時間だ、と。才能でも根性でもない。ただ積み上げた時間だ。嘘をつけない時間が、身体に刻まれていく。
それが功夫だ——。
「……宿場町まで待て」
「見せてくれるのか!?」
「ああ」
シャルが手帳を閉じた。
「楽しみにしている!」
「楽しみにしない方がいい」
「……なぜ?」
「地味だから」
シャルの肩が、少し動いた。
宿場町に着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
馬車を止めて、御者に休憩を取らせた。シャルが宿の手配をしている間に、アルドは宿の裏手に回った。人気のない、少し開けた場所だ。土が固い。悪くない。
アルドは、足を肩幅より広く開いた。
膝を曲げた。
腰を落とした。
それだけだ。
あとはそのまま、動かない。
「……それだけか?」
いつの間にかシャルが来ていた。手配を済ませてきたらしい。腕を組んで、こちらを見ている。
「そうだ」
「型に名前はあるのか?」
「馬歩站椿という」
「馬歩、站椿」シャルが繰り返した。「……どういう意味だ?」
「馬歩、馬に跨るように立ち 站椿、杭のように動かないことだ」
「簡単そうだな?」
アルドは何も言わなかった。
「私も早速、やってみていいか?」
「よし、やってみろ」
シャルが隣に立った。足を開いた。膝を曲げた。腰を落とした。アルドと同じ形だ。剣を学んでいるだけあって、身体の使い方は悪くない。形は綺麗に入った。
一分が経った。
シャルは余裕そうだった。
二分が経った。
まだ余裕そうだった。
三分が経った。
「……」
シャルの太腿が、微かに震え始めた。
五分が経った。
「…………」
息が少し変わった。
七分が経った。
「……これは」
シャルが低い声で言った。
「なんだ?」
「……太腿が」
「そうだろ?」アルドは意地悪そうに笑った。
「…っ!………終わりはあるのか?」
「三十分だ」
シャルが黙った。二秒ほど黙った。
「……正気か?」
「功夫とはそういうものだ」
十分が経った頃、シャルの膝が小さく揺れ始めた。太腿だけじゃない。腰回りが、体幹が、じわじわと悲鳴を上げ始めている。それでもシャルは形を崩さなかった。唇を一文字に結んで、前を向いていた。
(根性はあるな)
アルドはそう思った。
十二分が経った頃だった。
「……少し、いいか?」
シャルが静かに言った。膝を伸ばして、立ち上がった。太腿を片手で押さえている。プライドがあるから表には出さないが、相当きているはずだ。
「休んでいいぞ」
「……情けないな」
「最初からできる人間はいない。むしろ筋がいい。俺が初めてやった時は三分で根を上げた」
シャルがアルドを見た。アルドはまだ動いていなかった。同じ形のまま、同じ場所に立っていた。
「……アルドは何分前からやっているんだ?」
「二十分ほどだ」
「……あと十分か」
「そうだ」
シャルが少し間を置いた。
「……続きを見ていていいか?」
「どうぞ。毎日これを続けていれば、シャルなら三週間くらいで、三十分はできるようになるだろう」
シャルが腕を組んで、立って見ていた。
三十分が経った。
アルドがゆっくりと立ち上がった。膝を伸ばした。一度、深く息を吐いた。
それから。
何もない空間に向かって、静かに構えた。
動いた。
速くはなかった。むしろゆっくりだった。ただ——重かった。一つひとつの動作に、何かが乗っている。型を流すのではなく、型の中に力が宿っているような動きだった。
そして最後に。
右の拳を、静かに前に出した。
ドン、という音がした。アルドが地面に踏み込んだ音だった。
何もない空気の中で、音がした。
シャルが動かなかった。
アルドが構えを解いた。
「……今のが」
「発勁だ。正確には寸勁——短い距離で打つ。あれが出せるようになるまでの土台が、馬歩站椿だ」
シャルがしばらく黙っていた。
さっきまでの「簡単そうだな」という顔は、もうなかった。
「……理屈はよくわからないが」
「わからなくていい。むしろ考えるな、感じろ。やるか?これから毎日」
「やる」
即答だった。迷いがなかった。
アルドは少し間を置いた。
「根気がいるぞ?」
「知っている」
「毎日だ」
「知っている」
「成果はすぐ出ない」
「だから何だ?アルドが完成形を見せてくれたから、決心がついた」
アルドは何も言わなかった。
シャルが再び足を開いた。膝を曲げた。腰を落とした。さっきより少し深く、少し安定した形で。
一分が経った。
二分が経った。
シャルは前を向いたまま、動かなかった。
(本物だな)
アルドは静かにそう思った。
自分も隣で構えを作った。型のおさらいだ。初めて発勁を実践で使って以来、ずっと課題として残っている。八極拳の基本型。陳式太極拳の基本型。丁寧に、ひとつひとつ確認していく。
五分ほどして。
(……腰が。普段使ってない筋肉も声を上げ始めてるな……)
型を続けた。
隣でシャルが震えていた。それでも形を崩さなかった。
宿場町の裏手に、風が通った。
悪くない午後だ、とアルドは思った。




