第29話 早すぎる帰還
街道に出て、しばらく歩いた。
朝の光が斜めに差していた。石畳から土道に変わって、カルヴェンの外壁が背後に遠ざかりつつあった。風は少し冷たい。悪くない朝だ。
前を向いて歩きながら、アルドは王都への道筋をぼんやりと考えていた。エリシアが動いている。宰相の尻尾を掴もうとしている。「来い」とあった。ならば行く。それだけだ。
シャルが隣を歩いている。特に何も言わない。それでいい。
悪くない出だしだ、と思った。
そのときだった。
「……ちなみに」
シャルが前を向いたまま、静かに言った。
「王都まで、歩きで行くつもりか?」
アルドは少し間を置いた。
「……そうだが?」
シャルが足を止めた。
アルドも足を止めた。
シャルがゆっくりこちらを向いた。表情は穏やかだった。穏やかだったが、目が笑っていなかった。
「……ありえない」
「……なぜだ?」
「カルヴェンから王都まで、徒歩で何日かかると思っている?」
アルドは少し考えた。
(……何日だ?)
出てこなかった。
(なるほど。徒歩で行く距離じゃないことはわかった……)
「馬車を使うべきだ。一旦戻ろう」
シャルが既に踵を返していた。アルドは少し立ち止まってから、黙ってついていった。
(……今は別に馬車の運賃がないわけじゃないからな……)
ただそれだけのことだった。前世のフィクサーとしての矜持も、絶対交渉権も、氣功の積み上げも、全然関係ない。純粋に、馬車の選択肢を考えていなかった。
(……黙っておこう。ちょっと恥ずかしいし……)
カルヴェンの東門が、また近づいてきた。
石畳が橙色に染まっていた。さっきと同じ朝の光だった。同じ景色だった。ただ、歩いている方向が逆だった。
クルトが、いた。
ドワイト商会の幹部たちも、いた。
全員がこちらを向いた。
誰も何も言わなかった。ただ、見ていた。「どうしたんだ?」でも「忘れ物か?」でもなく、ただ静かに、戻ってきた二人を見ていた。
アルドは立ち止まらずに歩いた。目を合わせなかった。
「……馬車はどこで手配できるか、教えてくれ」
「……ご案内しますね」
クルトはくすりと笑った。ただ、どこか温度があった。アルドはそれ以上何も言わなかった。
馬車の手配が進む間、しばらく沈黙が続いた。
クルトが隣に来た。
「……何か理由があって、徒歩で向かわれたのかと思っておりました」
「理由がないわけではないのだが……」
「策のひとつかと」
「……金がない時の癖で歩いて行こうとしたら、シャルに馬鹿にされた……」
「失礼しました」
クルトが小さく頭を下げた。肩が、微かに揺れていた。
シャルの肩も、揺れていた。
アルドは前を向いたまま、何も言わなかった。
アルドは羞恥心を感じながら、自分を肯定することにした。
(……そんな抜けてる俺も、愛してあげようと思う俺だったとさ……)
馬車に乗り込んだ。
御者台に御者が座った。荷物が積まれた。クルトが短く「道中、お気をつけて」と言った。アルドは「ああ」とだけ返した。
馬車が動き始めた。
石畳の振動が、座面を通して伝わってくる。規則的な揺れだ。
アルドは何気なく懐に手を入れた。手紙がある。エリシアからの手紙だ。折り畳まれたまま、確かにそこにある。封蝋は既に切れている。短い文章。無駄のない文章。「来い」とあった。
一瞥して、懐に戻した。
窓の外を見た。カルヴェンの外壁が、また遠ざかり始めていた。
今度こそ、遠ざかっていく。
そのときだった。
「……神妙な顔をしているが」
向かいの席からシャルが言った。
「エリシア殿下から、よくない知らせでもあったのか?」
アルドは少し間を置いた。
「いや」
「では何だ?」
「……馬車というのは」
「ああ」
「……意外と、揺れるんだな」
シャルが少し目を細めた。
「こんなもんじゃないか?普通だと思うが……」
「……そうか……」
「……どうした」
「腰にくる」
シャルが黙った。三秒ほど黙った。
「……完治したと言っていたが」
「完治した」
「では問題ないな」
「完治した、が——」
馬車が少し大きく揺れた。
「——腰に、来る」
シャルの肩が、静かに動いた。声は出なかった。ただ肩だけが揺れた。しばらく揺れていた。
アルドは窓の外を向いた。街道が続いている。空が青い。雲が少ない。旅日和だ。
(完治した腰が、揺れるたびに、次回の未成年の主張は二時間スペシャル、特別編!と言ってくる)
季節が変わる時とかにやるあの未成年の主張の特別編やるのか。それはやめろ。
氣功で回復した。医者にも太鼓判を押された。腰は問題ない。
(腰にもくるけど、乗り物酔いもしてるかも。遠くを見よう……)
馬車がまた揺れた。
(……悪くない出だしだ……と思いたいが、次はいつ停まるだろうか……)
腰が、大好評につき続編希望ですよと話しかけるが、今は聞かないことにした。




