第21話 リテラシーと、プライド
目が覚めた。
アルドは天井を見たまま、順番に確認した。
肩。——大丈夫だ。 背中。——大丈夫だ。 ふくらはぎ。——大丈夫だ。
全員、黙っている。
「……ご苦労だった。痛みに耐えてよく頑張った。感動した!」
誰もいない部屋で、アルドは筋肉たちに向かって静かに言った。返事はなかった。当然だ。
起き上がる。軋まない。重くない。腰はとうに問題ない。回復も、以前より明らかに早い。氣功の積み上げが、じわじわと効いている。劇的ではない。派手でもない。ただ確実に、身体が変わっている。
……まあ、悪くはない。
窓を開けると、朝の空気が入ってきた。今日は行商人が来る日だ。クルトが動く。グレナ商会かどうかはまだわからないが、黒鷲と繋がった商会も動く可能性がある。
盤面が、今日動く。
アルドは着替えながら、静かに気合いを入れた。気合いを入れる、というより、スイッチを入れる感覚に近かった。前世でも、大きな仕掛けの前はこうだった。静かに、余裕を持って、全部を見る。
食堂に下りると、シャルがすでにいた。パンに手をつけていない。地図のようなものを広げて、何かを書き込んでいた。
「早いな」
「あなたが遅い」
「十分前に起きた」
「私は三十分前から動いてる」
「早起きマウントとるなよ。シャル、お前の勝ちでいいから」
アルドは席に座りながら、シャルの書き込みを横目で見た。カルヴェンの市場周辺の簡易な図で、いくつかの場所に印がついていた。
「行商人の立ち回り先と、各商会の使いが動く経路。昨日のうちに仲買人から聞いておいた」
「……行動が早いな」
「それって褒めてる?」
「最大限の賛辞と称賛を込めて讃えている。神にも感謝してる」
「嘘ばっかり、というかその表現、ちょっと何言ってるかわかんない」
シャルが地図を折り畳みながら、少しだけ口の端を動かした。声には出なかった。
市場が動き始めた頃合いを見て、二人は宿を出た。
行商人の荷が入ってくる南の入り口から少し離れた場所に、人の流れを見渡せる位置がある。物売りの屋台と屋台の間、石造りの柱の陰だ。目立たない。自然に立っていられる。
アルドはそこに陣取って、待った。
待つのは嫌いではない。前世でも、仕掛けの大半は待つことだった。動くのは最後の一手だけで、それまでの時間はひたすら読んで、見て、確かめる作業だった。
……それにしても。
これだけ裏で動いているのに、表向きはただの旅人だ。前世でもそうだった。世界を影で動かしている人間ほど、表では地味な顔をしている。それが正解なのだが、なんというか——報われない気分には、少しなる。
「……張り込みは動くまでが苦行みたいなもんだからな……」
ボソッとアルドは呟いた。
「何か言った?」
隣でシャルが小声で言った。
「何も?何か言った証拠でもあるんですか、弁護人?」
「顔が動いてた。…というか、私は誰の弁護をしているんだ?」
「顔?気のせいだ。イタズラ好きな風の精霊さんが通ったんだろ」
「嘘ばっかり。というか流石に言い訳が最近適当すぎないか?」
「否定はしない。でも、だんまり決め込んで無視よりは、シャルの極度の緊張状態もほぐれていいだろ?」
「は?別に緊張してないし!?」
シャルが小さく息をついた。
呆れているのか、笑っているのか、判別のつかない息だった。
行商人が来たのは、昼前だった。
四頭の荷馬車。見慣れた、日に焼けた男の顔。荷を降ろし始めて、しばらくした頃——クルトが現れた。
予想通りだった。
クルトは行商人と短く話した。荷の確認をするような素振りで、実際は別の何かを確かめているのがアルドには見えた。絶対交渉権は使わなかった。使わなくてもわかる。クルトの欲望の色は知っている。「信用できる取引相手を求めている」——その欲は本物だ。ただし、その上に黒幕側の糸がかかっている。
つまり、クルトは黒幕側の商人だ。なぜかはわからないが、だ。そこまでは最初の絶対交渉権でわかっていたことだ。
クルトが去った。
入れ替わるように、別の人間が現れた。
三十がらみの、地味な服の男だった。行商人に近づいて、何かを渡した。紙か、あるいは小さな荷か。行商人が受け取って、頷いた。男は来たときと同じように、人の流れに紛れて消えた。
シャルが、ほんの少しだけ息を詰めた。
「……あの男、グレナ商会の使いよ」
「確かか?」
「三日前に市場で見た。グレナの荷を運んでいた」
アルドは頷かなかった。ただ、男が消えた方向をもう少しだけ目で追ってから、視線を戻した。
可能性が、一気に高い確度に変わった。
クルトと使いの者が去ってから、アルドは行商人に近づいた。
男はアルドの顔を見て、一瞬だけ表情を動かした。警戒ではない。前回の感触を思い出しているような、確認するような顔だった。
「おお、元気かい?」
「また来た。一つだけ聞かせてほしい」
アルドは穏やかに、笑った。
「今日、二人来ただろう?一方は知っている。知り合いだからな。もう一方——さっき来た男の出どころを教えてほしい」
男が少し迷った。迷いの色は読めた。「話してもいいか?」ではなく「どこまで話すか?」を測っている。
「大丈夫だ兄弟。面倒はこちらが引き受ける。お前に火の粉は飛ばないから安心しろ」
男が、短く言った。
「……グレナ商会だ。月に一度、荷を受け取りに来る」
「ふうん。その荷は?」
「王都からのものだ。中身は知らない。知らない方がいいと思っている。王都で荷物を持ってくるやつは、いつもフードを深く被って得体が知れない」
アルドは礼を言って、その場を離れた。
確定した。グレナ商会は黒鷲側だ。
宿に戻って、情報を整理した。
クルトは黒幕側の駒。グレナ商会も黒鷲の配下。残り二つの商会は膠着したまま動いていない。宰相はこの三つ巴を維持しながら、裏でグレナ商会を通じてカルヴェンに足場を作ろうとしている。王都からの荷が月に一度グレナに届いている。それが証拠になり得る。
駒が、全部見えた。
シャルが向かいに座って、同じように情報を整理していた。
しばらく無言の時間が続いてから、アルドが言った。
「グレナ商会を動かす。クルトを経由して、グレナに誤った情報を掴ませる。グレナが宰相側に報告すれば、宰相は誤った手を打つ。その隙に——」
「中央市場の空白に入り込む……?」
シャルが、続きを読んだ。
「そうだ」
「でも、アムリタの後見人がいないと、その空白に手出しはできないわ。それこそ、宰相でさえ、ね」
「そこなんだよなぁ……でも、多分違う気がするんだ、順番が」
「順番?」
シャルはきょとんとした表情をした。
「そ、順番。実は俺、カルヴェンに来る前に、この国の商法全部に目を通したんだ。あとカルヴェンの条例にも」
「商法?それに順番も何も、後見人がいなかったら、中央市場エリアを手に入れる権利は……」
アルドは少しため息をつき、シャルに言った。
「お前、商売人やってるのに知らないのか?実際にはどんな手順で土地を手に入れるか」
「……あ!……なんでこんな簡単なこと気づかなかったんだろう、他の三商会も……」
アルドはニヤッと笑った。
「俺から言わせれば、みーんなアホなんだよ!後見人が必要なのは『第二段階目』の手続きの時。その前の『第一段階目』の書類提出を通して、正式に審査が降りてから初めて後見人が必要になる。俺から言わせれば、リテラシーが低すぎるっつーの!」
シャルは黙って聞いていた。
アルドは続けた。
「それにな、第一段階目の書類審査が通ってしまうと、後見人が出てこなくても、他社の申請は並行して受け付けられることはない。つまり、書類提出早いもん勝ちってこと。一応期限は決まってるけどな。後見人のサイン等が必要になる第二段階目の書類提出は第一段階目が「提出されてからちょうど5年まで」となってる。つまり、5年のうちに後見人を探せばいい。俺から言わせれば、その手続きをして置いて、後見人探しに全力出した方がいいと思ったんだよ」
「……5年の間に見つからなければ?」
「ばーか!5年もあるんだ。失敗することを考える前にやることをやるんだよ!」
「!?」シャルはハッとした。
過去に言われたことのある言葉だったのだ。
「それにしても、なんで商法に詳しいカルヴェンの3商会や宰相がいながら、その考えに至らなかったのかが謎すぎるな」
「多分、その考え方は、この国の商人のポリシー的に合わないからだと思う。後見人も立てないで申請をするなんて、なんて 厚顔無恥なんだと後ろ指を刺されるからな。なんの根拠もなく段取りを組むなんて、商人の風上にも置けない存在だって私も思うし……それに商人・商会にとって自分たちがそう思われるのは屈辱でしかないから、そんなプライドのない行為はできないのは当然の行動原理だと思う。だが、今回のアルドの動きはとても理にかなっていて、今一番有効な一手だと思った」
「意外とカルヴェンの商人たちってのは清廉潔白なんだな?」
「逆だ。筋を通さないやつは許さないという風潮なんだ。だからアムリタの一件はカルヴェン中の商人たちが激怒した。たとえあの「不審死」が「本当に不慮の事故」だとしても、そんな火事場泥棒みたいに中央市場を、アムリタから掻っ攫おうと動いているであろう人間がいるとなれば、当然猛抗議する。たとえ宰相のような権力者でもな」
アルドは自分が思い違いをしていることに気づいた。この膠着状態を作ったのは、確かに宰相なのだろう。ただ、宰相は元からそうしたかったわけではなかった。膠着「してしまった」というのが本当のところなのだろう。
きっと、宰相はアムリタのトップを力でねじ伏せて、トップがいなくなったことで火事場泥棒のような形で中央市場の権利を手に入れるつもりだった。
それが思っていた以上に、カルヴェンの商人たちが力による勢力図の塗り替えに猛反発をした。
多分、そのまま押し切ることもできたのかもしれないが、今後カルヴェンで活動するのに、たくさんの血を流すのは必至、しかもカルヴェンの民衆には受け入れられない。
どう考えても悪手だと判断し、本来の正攻法である「後見人」に認められることで正当に譲り受けるという方法に出たというのが、ここまでの経緯だと考えるのがしっくりくる。なるほど。
シャルがアルドを見た。少し間があってから、言った。
「……ただ、うまくいったとして。あなたはカルヴェンで何をする気なの?」
「それはな、フィクサーの仕事だ」
シャルの目が、何かを確かめるように動いた。
それ以上は聞かなかった。聞かない、という選択をした目だった。
アルドも、それ以上は言わなかった。
(……なんか俺がイタいことを言って、駄々滑りしたみたいじゃないか……!)
スベったかも……という後悔を感じながら、アルドは笑ってみせた。
夕方になった。
カルヴェンの石畳が橙色に染まる時間帯、アルドは盤面の最終確認をしていた。グレナへ流す情報の中身、クルトへの経路、タイミング——全部、頭の中で動かした。穴はない。少なくとも、今見えている範囲では。
扉が開いた。
シャルが戻ってきた。いつもの涼しい顔ではなかった。何かを確かめてきた、という顔だった。
「——グレナ商会の動きが、おかしい!」
アルドが顔を上げた。
「今日の夕方から、人が増えた。外から来た人間。荷運びにしては動きが違う。皆んな明らかに商人ではない筋肉のつき方だった」
沈黙。
「……いよいよ前倒しで来たか」とアルドは静かに言った。「宰相側が、こちらの動きに気づいている可能性がある!」
「どこから漏れた?」
「わからない。ただ——」
アルドは窓の外を見た。石畳の向こうで、カルヴェンの夜が始まろうとしていた。
「盤面が、向こうからも動き始めた。こちらが仕掛ける前に、向こうが来る可能性がある」
シャルが、短く言った。
「——どうする?」
アルドは少しの間、窓の外を見ていた。
それから、静かに言った。
「——好都合だ」




