第17話 偶然と、嘘ばかりの男
朝の空気はまだ冷たかった。
カルヴェンの市場が動き出す前の時間帯、石畳の上には荷を運ぶ男たちの足音と、屋台の準備をする声がまばらに混じっている。アルドは宿を出て、ゆっくりと歩き出した。
頭の中で、盤面を整理する。
行商人が来るのは明後日。クルトにはそれが三日後と伝わっている。つまり一日、クルトの予定が狂う時間がある。
フィクサーとして生きた前世で、一日という誤差がどれだけの意味を持つか、アルドは骨の髄まで知っていた。
――前世では一日の陽動作戦で国の実権が変わったこともあった。
まぁ、動くなら今日だ。行商人の立ち回り先を先に押さえて、クルトより先に「真実をちょっとずらした話」をしておく。それだけでこちらの手札が一枚増える。単純な話だ。
アルドは石畳の傾斜を下りながら、目的地を頭に描いた。行商人がカルヴェンに入るとすれば、まず荷を預ける問屋か、馴染みの宿に顔を出すはずだ。市場の南側に、旅商人がよく使う安宿が二軒ある。どちらかで顔を見せる前に捕まえられれば——
前方に、人影が見えた。
ローブの裾が翻る。歩幅が速い。
アルドは三秒で理解した。
シャルロットだ。
まずい、と思ったのか、思わなかったのか。
アルドの足は止まらなかった。止まる理由もなかった。こちらは南側へ向かっているだけだ。向こうがたまたま同じ方向へ歩いているだけで、アルドには何の後ろめたさもない。
ただ。
歩幅が、だいたい同じだった。
シャルロットの歩調に、気づけばこちらの歩調が合っていた。距離にして四、五メートル。追いかけているわけではない。ただ向かう先が同じで、歩く速さが似ているだけで、結果として後ろからついていくような絵面になっているだけで——
……前世でも、あったな。
本当にたまたま、行き先が同じ女性が数メートル先を歩いていて、歩調もほぼ同じで、ずっとついていくような形になってしまって。
向こうが気づいていた。気づいていたのがわかった。絶対交渉権など使わなくても、微妙に歩幅を変えて確認するような動き、一瞬だけこちらに向けられる視線の鋭さ、それが全部「つけられてる……変質者?」という警戒に変わっていく感じが。
あのいたたまれなさよ。
俺は悪くない。俺は悪くない。でもなんかすまんという気持ちは、ちょっとはあるんだ……。
そう思っていたところで、シャルロットがキッと振り返った。
「……なんでついてくるの?」
「ついてきてなんかいない」
「同じ速さで同じ方向に歩いてる人のことを世間では『ついてくる』と言うのよ?」
「世間は厳しいな。冤罪だ。俺はやってない。初犯だ」アルドは両手を上げた。
「初犯はやってるのよ」
「そうだな。だが本当にやってないので見逃してください」
シャルロットの目が細くなった。探るような色ではなく、どちらかというと呆れに近い。
「どこ行くの?」
「南だ」
「私も南」
「……偶然だな」
「絶っ対嘘!」
「それでも俺はやってない。冤罪だ」
沈黙が落ちた。二人とも歩みを止めていなかった。並んで歩くような距離ではなく、かといって離れるほどでもない。結局、さっきと似たような絵面のまま、二人して石畳の坂を下っていた。
アルドは内心だけで小さく息をついた。
まあいい。向こうが何を掴んでいるかは知らないが、行商人のところへ向かうなら、どうせ鉢合わせる。それなら今から並んで歩いているほうがまだ自然だ。
「……先に言っておくけど」とシャルロットが前を向いたまま言った。「別にあんたの邪魔をするつもりはないから」
「こちらもだ」
「じゃあ別々に動けばいい」
「向かう先が同じなら、別々に動いても向こうに二度手間をかけるだけだ」
シャルロットの足が、一瞬だけ遅くなった。
「……それ、一緒に動くって言いたいの?」
「そうは言っていない」
「嘘ばっかり」
「嘘ではない。ただ、非効率は嫌いだと言っている。意味もなく、わざわざ遠回りしていくバカはいないということだ。それに俺はここの土地勘もないからな。嫌なら土地勘のあるお前が遠回りしろ」
また沈黙。今度は少し、柔らかい種類の沈黙だった。
行商人は、南の安宿の一軒目にいた。
四十がらみの、日に焼けた男だった。荷解きの途中で、いかにも面倒ごとはご免という顔をしている。絶対交渉権が示したのは「早く終わらせたい」「厄介事を避けたい」という、わかりやすい欲望だった。
アルドは穏やかに、笑った。
「荷運びのことで少し話を聞かせてほしい。難しい話じゃない。面倒はこちらが全部引き受ける」
男の表情が、微妙に緩んだ。
そこからは早かった。
脅しも金の積み増しも要らなかった。ただ「あなたの手間を増やす気はない」という一点を丁寧に示し続けるだけで、男は思ったより素直に話した。王都方面からの荷の依頼主、そのルートに挟まれた中継点の名前、そしてクルトへの「三日後」という伝言が——男の言葉を借りれば「そう伝えてくれと頼まれた」ものであることが、ひとつひとつ出てきた。クルトのところへは明日会う予定らしい。
意図的な遅らせ。黒幕側の指示。
読んだ通りだった。
男が宿の奥に引っ込んでから、アルドは表に出た。
シャルロットが壁に背を預けて待っていた。アルドが先に話していた間、離れた場所で別のことをしていたらしい。表情はいつも通り涼しいが、何かを考えている目をしていた。
「どうだった?」とアルドは言った。
「……クルトへの行商人の到着の連絡、向こうが意図的に遅らせたものだった。行商人はいつもよりも1日長く滞在して、明日クルトのところへ向かう予定らしい」
「知っている」
シャルロットの眉がわずかに動いた。
「……先に聞いてたの?」
「話が早かった」
「なんで私が別ルートで動いてると思ったの?」
「思ってはいなかった。たまたまだ」
「嘘ばっかり」
「……今回も本当に、たまたまだ。偶然って続くものだな」
シャルロットはしばらくアルドを見てから、小さく鼻を鳴らした。
「私が掴んだのは荷の出所。王都の、宰相に近い商人の名前が挟まってた。あなたは?」
「中継点の名前と、クルトへの伝言の出所」
沈黙。
二人の情報が、静かに噛み合った。
シャルロットが先に口を開いた。
「……別々に動いてたら、片方ずつしか取れなかった情報ね」
「そうなる」
「じゃあ結果的に、一緒に動いてよかった?」
「そうは言っていない。一緒に動いてなくても、この答えに俺なら秒で辿り着いた」
「嘘ばっかり。私の情報は役に立ったと素直にいえばいいじゃん」
アルドは答えなかった。本気でイキっているわけではない。ただの軽口だ。
シャルロットが踵を返す前に、ほんの一瞬だけ何かを言いかけて——やめた。その代わりのように、ローブの裾を翻して歩き出した。
アルドは市場の南の方角を見た。
クルトに明日行商人から、俺が流した「真実をずらした情報」を手に入れ、それを元に次の行商人が来る際に実際に行動を起こすだろう。そうなると……
クルトが動くであろう日程は多分六日後。行商人が次にカルヴェンに来るのはその1日前の五日後。こちらにはもう、相手が知らない情報がある。
宰相の影が、少しだけ輪郭を持ち始めた。
——悪くない。




