第16話 市場の喧騒と、思惑と
中央市場は、今日も騒がしかった。
アルドは昨日と同じ時間に、昨日と同じ場所へ向かった。露店の端、荷物の脇。男はやはりいた。
「また来たのか」
男は顔を上げもせずに言った。荷の仕分けをしながら、手だけが動いている。
「なぁに、通りがかっただけだ」
「昨日も同じことを言った」
「同じ道を通ったからだ」
男が少し口角を上げた。笑いをこらえているような、呆れているような。
「……クルトだ」と男は言った。「名前くらい教えといてやろうかなと」
「そりゃどうも。俺はアルド・グレインだ」
「ん?貴族か?」
「親父はな。それも准男爵だ。俺は三男で家督も継がないから名前ばかりの平民だ」
「ふうん。自分で身を立てなきゃいけないわけだからあんたも大変だな」
「まぁな」
それだけで、また手の動きに戻った。アルドは荷物の脇に腰を下ろした。特に許可は取らなかった。クルトも何も言わなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。市場の喧騒が遠くで続いている。
「手を貸そうか?」
「貸せるのか、あんたに」
「やってみなければわからない」
クルトが初めてアルドの顔を正面から見た。品定めするような目だった。少しの間があって、「じゃあこっちを」と木箱を顎でしゃくった。
荷運びをしながら、話が進んだ。
カルヴェンに来て三年。以前は別の街で商売をしていたが、縁があってここへ。東のグレナ商会とも南のミラン商会とも付き合いはない。中央で独立してやっている。
絶対交渉権が、静かに動いていた。
欲しいもの——「信用できる取引相手」。それは昨日と変わらない。筋を通したいタイプだ。嘘をついている様子もない。
(使えるかもしれない)
アルドは木箱を運びながら、内心で整理していた。ベリンのときと同じ温度感だ。警戒はしているが、話は聞こうとしている。もう少し時間をかければ——
「東のグレナ商会は、最近動きが鈍い」とクルトが言った。
「仕入れを絞っているらしい」
「理由は?」
「さあ。上から何か言われてるんじゃないか?何かうまく行ってないらしい」
「上、というと」
「商会の上……というより、もっと上。王都の方から、何か話が来てるって噂だ」
(……)
アルドの手が、一瞬だけ止まった。
王都。宰相。カルヴェンの膠着を意図して維持している何者か——ルーチェの言葉が頭をよぎった。
「その噂、どこで聞いた?」
「うちに出入りしてる行商人から。信憑性はわからない。まぁ噂話だ」
絶対交渉権が、もう一度動いた。
クルトの輪郭を、今度はもっと深く読む。欲しいもの——「信用できる取引相手」。それは変わらない。だが、その取引相手として想定している人間の像が、ぼんやりと浮かんだ。
(……あ)
輪郭の端に、色が 滲んでいた。
「信用できる取引相手」を求めている。それは本当だ。だがクルトが求めているその相手は——すでに決まっている?まだ会っていない?……あるいはまだ正体を明かしていない、特定の誰か?その誰かの輪郭が、アルドの知っている「色」と重なった。
(なるほど。そういうことか)
内心で、静かにギアが切り替わった。表情は変えなかった。手の動きも変えなかった。
「行商人というのは、どのくらいの頻度で来るんだ?」
「十日に一度くらいかな。次は三日後のはずだが」
「そうか」
(三日後か。使える)
それからの会話は、少しだけ変わった。
アルドが渡す情報を、微妙に調整し始めた。本当のことを言いながら、肝心な部分だけ少しずらす。カルヴェンの盤面についての見立てを話しながら、「東のグレナ商会がついに後見人の存在を掴んだらしい」という印象をさりげなく埋め込む。
実際には東のグレナ商会は後見人の存在は掴んでおらず、動けない状態だ。だがクルトを通じてその情報が流れれば——
(南のミラン商会が焦る。焦れば手を打つ。手を打てば、見える)
前世で何度もやった手だった。敵の情報網を逆に使う。餌を撒いて、釣れた魚で海の深さを測る。
クルトは気づいていない。話しながら少しずつ警戒が解けてきている。「このおっさん、大丈夫かもしれない」という空気が滲み始めていた。
(まあ、大丈夫なのは本当だけどな)
内心でぼやいた。
利用するからといって、クルトが嫌いなわけではない。筋を通したいという欲望は本物だ。ただ、その筋の向く先が——今のところ、こちらの望む方向ではない。それだけだ。
いつか変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
(まあ、それも含めて育てればいい。)
そこへ、シャルロットが来た。
中央市場の東寄り、青果の露店が並ぶ一角。アルドとクルトが話していた場所から、十歩も離れていない。
シャルロットは露店の前で立ち止まり、林檎を一つ手に取って眺めていた。こちらには気づいていないような素振りだった。
(気づいているな)
アルドには、わかった。視線の角度が微妙にこちらを向いている。
クルトがその視線の先を追うように首を動かした。
「知り合いか?」
「まあ」
「きれいな娘だな」
「そうだな」
(余計なことを言うな)
と思った瞬間、シャルロットがこちらへ歩いてきた。
「あら、また会ったわね」
笑顔だった。計算した笑顔だったが、自然に見えた。クルトを一瞥して、アルドに視線を戻す。
「ちょっといいかしら?商会の件で確認したいことがあって」
「今、話し中だ」
「すぐ済むから」
(済まないやつの顔をしている)
クルトが立ち上がった。「俺は荷の続きがあるから」と言って、荷物を持ち上げた。
「また明日な。お前が俺に用があるならな?」
「ああ」
クルトが去っていく。アルドは背中を見送りながら、内心で深く息を吐いた。
シャルロットが隣に立った。
「邪魔した?」
「少しな、いや、結構?かなり?」
「ごめんなさい……」
謝った。珍しく、素直に。
「……本当に商会の件か?」
「嘘」と彼女はあっさり言った。「でも、話したいことはあるの」
(素直なのか狡猾なのか判別がつかない)
アルドは露店の軒先に移動した。シャルロットがついてくる。
「あの男、どこで知り合ったの?」
「クルトのことか?昨日、市場で」
「そう」シャルロットは林檎を一口かじった。買っていたらしい。
「……あの男は気をつけた方がいいと思う」
「理由は?」
シャルロットが少し間を置いた。計算しているのではなく、どこまで言うか測っているような間だった。
「出入りしている行商人がいるでしょ?十日に一度くらいの」
(知っているのか)
「その行商人、東のグレナ商会の荷だけじゃなくて、別の荷も運んでいる。どこへかは……まだ調べてる途中」
「別の荷、というのは……」
「王都の方から来ている、らしい」
アルドは何も言わなかった。
(やはりそういうことか。クルトがその行商人の情報をすぐに出したのも、繋ぎを確認したかったからだろう)
シャルロットがアルドの顔を横から見た。
「……驚かないのね?」
「驚く必要がない」
「なんで?」
「知っていたからだ」
シャルロットの目が、少しだけ変わった。「知っていた」という言葉の意味を測るような目だった。
「いつから?」
「さっき」
「……さっき」彼女は繰り返した。「それで、どうするつもり?」
アルドは露店の向こう、クルトが消えていった方向を見た。
「泳がせる」
短く言った。シャルロットが黙った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。市場の喧騒だけが続いている。
それから、シャルロットが小さく息を吐いた。
「……あなた、やっぱりただのおじさんじゃないわね?」
「旅人だと言っている」
「嘘ばっかり」
「嘘ではない。ここの地元民じゃないからな」
シャルロットが、また林檎をかじった。何かを考えているような横顔だった。計算とも本音とも取れない、珍しい顔だった。
「……一つだけ、教えてあげる」と彼女は言った。「あの行商人が次に来るのは、今回は三日後じゃなくて明後日よ。前倒しになった」
アルドは少し考えた。
(明後日。クルトは三日後と言った。つまりクルトには正確な日程を教えていない。あるいはクルト自身も知らされていない……)
「なぜ知っている?」
「調べたから」
「どうやって?」
「それは教えない」
アルドは息を吐いた。
(やはり、ただの商会の娘ではない。)
シャルロットが立ち上がった。外套を整えながら、歩き出す。三歩ほど行って、振り返った。
「泳がせるなら、時間が一日縮んだってことだから。——頑張って、おじさん」
それだけ言って、人混みの中に消えていった。
アルドはしばらく、その場に立っていた。
(好都合だ)
内心でぼやいた。
一日縮んだのは誤算だが、シャルロットが情報を持っている。そしてその情報を、こちらに渡してきた。理由はまだわからない。だが——
(使えるかもしれない。今度は本当に)
市場の喧騒が、変わらず続いていた。




