第8話
そのとき、固く閉ざされた扉の向こうから、なにかが床を引っ掻く音が聞こえた。
冷えた神殿の空気に、血と湿った土の匂いが混じった。桜来は扉へ視線を向ける。
「なにかが、扉の外にいます」
「……ムク」
初めて、ハクの顔から冷静さが崩れた。淡い青の瞳が扉へ向けられ、眉間に深い皺が刻まれる。
「ムク? 子どもですか?」
「そなたには関係ない。下がっていろ」
ハクは反射的に扉へ歩み寄った。しかし数歩進んだところで、身体を走った呪紋の光に足を止めた。
扉がゆっくりと、わずかに開いた。
「ハク、さま……たすけて……くろいのが、いたい……」
扉の隙間から、小さな獣の姿をしたあやかしが転がり込んだ。雪のようだったはずの毛は泥と血で汚れ、脇腹には黒い靄が絡みついている。
「ムク、なぜここまで来た?」
「森が……苦しい……」
「動くな。すぐに穢れを抑える」
ハクはムクの傍らに膝をついた。その大きな手が、小さな身体を壊さぬよう慎重に傷口へ近づく。
ハクが手をかざすと、淡い光がムクを包んだ。同時に黒い呪紋が強く浮き上がり、ハクの呼吸がわずかに乱れる。
「我が神殿を出られれば……森で異変が起きていることは分かっていた。我が動けぬ間に、ここまで穢れが広がったか」
桜来はムクの呼吸と傷の深さを目で確かめた。迷っている時間はない。帯に挟んでいた薬入れに手を伸ばし、二人のもとへと歩み寄る。もちろん、あやかしに触れた経験はない。だが、目の前で苦しんでいる者を放置するという選択肢は桜来にはなかった。
ムクの呼吸は浅く、傷口から流れる血も止まっていない。このままでは穢れより先に、出血で命を落とす可能性がある。
「私に診させてください」
「人間の手で触れるな。我らが人間を信用できると思うか?」
伸ばした桜来の手をハクの腕が遮った。
ハクの眼差しには明確な拒絶があった。それでも桜来は引かなかった。
「今は信用について語っている暇はございません。穢れのことは分かりません。ですが、傷の処置ならできます」
「雪代家の者に、あやかしを任せられるものか」
「傷を放置すれば、さらに弱ってしまいます。私に治療させてください」
「その薬になにが入っている?」
桜来は薬包を開き、ハクにも見えるよう掌へ載せた。乾燥させた葉と根を細かく砕き、傷口へ塗れるよう調合したものだった。
「雪国に自生する止血と解毒の薬草にございます。疑うのは構いません。ですが、このままではその子の命が危険です」
「人間、いや……人間は、ハク様を閉じ込めた!」
ムクは残された力を振り絞るように身を捩った。傷口が開き、白い毛に新たな血が滲む。
「ムク、動くな」
ハクが小さな身体を押さえた。その手つきは強引ではなく、傷を避けながら動きを封じている。
「人間の薬なんていらない!」
「傷が深い。暴れれば悪化する」
「怖いのですね。無理もありません」
「触るな!」
「噛んでも構いません。ですが、手当てが終わるまでは離しませんよ」
小さな牙が皮膚へ食い込む。桜来は眉を寄せただけで、もう片方の手を使い、傷口へ薬草を当て続けた。
血の匂いが広がった瞬間、ハクの目が鋭くなる。桜来が悲鳴も上げず治療を続けていることのほうが、ムクに噛まれたことより意外そうだった。
「おい、手を離せ。血が出ている」
「ご心配なく。大した傷ではございません。この程度の傷なら、あとから自分で手当てできます。それより今はこの子の命を優先するべきです」
ハクはなにも答えなかった。ただ、血を流す桜来の手と、治療を受けるムクを交互に見つめている。
「……あれ? いたく……ない?」
「薬草がもう効いたのでしょうか? 傷が……」
ムクの傷口にまとわりついていた黒い靄が、端からほどけるように消えていく。薬草を塗った箇所ではなく、桜来の血が落ちた場所を中心にして。
止血には時間がかかるはずだった。ましてや薬草に、黒い穢れを消す効能などない。
桜来が首を傾げる一方で、ハクの表情が変わった。彼は桜来の血が付着した箇所を凝視している。
「そのまま動くな。傷を見せよ」
ハクは桜来の手首を取り、噛み傷から流れる血を確かめた。その指先が触れた瞬間、桜来の肩がわずかに揺れる。
「はい」
「これは薬草の効果ではない。お前の血が触れた場所だけ、穢れが消えている」
「それはどういうことでございましょうか?」
「おそらく、これがそなたの霊力なのであろう」
その言葉は、桜来がもっとも遠いものとして諦めてきた可能性だった。
「私の霊力? 残念ながら私は霊力を持っておりません」
「なに?」
「私は雪代の娘ですが、姉や妹と違い霊力を持たずに生まれ、これまで生きてきました」
「……なるほど、そういうことか。雪代の当主や玄斎はそなたの霊力についてなにも知らないのだな?」
ハクの目から驚きが消え、代わりになにかを理解したような鋭い光が宿った。
なにに納得したのか、桜来には分からなかった。ハクはムクの傷と桜来の血を見比べている。
「ですから私には霊力など……」
「良い。そうか、そなたは相当運が良い」
「運が良い?」
「ああ、お前の霊力については玄斎に知られるな。奴に知られれば、お前の血は利用される」
神力を奪われ、身体に呪紋を刻まれたハクの言葉だった。利用されるという響きが、桜来の胸へ重く落ちる。
「利用?」
「玄斎はこの神殿についてすぐに、そなたの血を取りなにかを調べていたであろう?」
「はい。玄斎殿は私の血が封印へ作用するかを確かめていました。ですが、あの時はなにも変化は起きませんでした」
「だろうな。万が一、なにかしらの変化があれば、玄斎はそなたをここに置いてはいかなかったはずだ。なにも起きなかったから、見込み違いだと判断したのだろう」
疑問は尽きなかった。しかし今は、自分の力について考えている場合ではない。桜来はムクの傷へと視線を戻す。
表面の黒い靄は薄れている。それでも小さな身体の奥では、黒い筋が脈打つように蠢いていた。
「穢れが消えたのは、血が触れた部分だけです。身体の奥には、まだ黒い穢れが残っています。傷の手当てはできましたが、穢れの原因を取り除かなければ、完全には治せません」
「この穢れは雪花の森から流れている。発生源を断たなければ、いずれ全身へ広がるだろう」
「森が、黒くなった。白い花が、みんな枯れた。地面の下で、なにかが動いてる」
ムクは思い出しただけで怯えるように身体を丸めた。震える前足が、ハクの衣を強く掴む。
ムクの言葉を聞き終えると同時に、桜来の中で次にすべきことが決まった。
「分かりました。私が雪花の森へ参りましょう。穢れの原因を確かめてきます」
「そなたを信用すると思うのか? 雪代家の者を神域へ入れるつもりはない」
「私もあなたを信じてはいません。ですが、この子を放置することはできません。それに……」
「なんだ?」
「あなたが神殿を出られないのなら、私が行くしかないでしょう」
ハクはしばらく桜来を見つめていた。無謀だと退けるのか、裏切りを疑っているのか、その表情からは読み取れない。
「……我も行く。限られた時間であれば、神殿の外へ出られる」
ハクはムクの身体を抱き上げると、決心したように立ち上がった。
「そうなのですか?」
「ああ、残された神力を使えば、森までは動ける」
「無理をなされば、あなたの身体にも負担があるのではありませんか?」
「ムクを人間に任せるつもりはない」
黒い呪紋は、先ほどより濃く浮かんでいる。平然としていても、神殿の外へ出ることが容易ではないのは明らかだった。
自ら傷つく可能性があっても、神域の民を見捨てようとはしない。その姿は、桜来が教えられてきた邪神のものとは重ならなかった。
「分かりました」
「待て」
桜来が薬入れを整えて立ち上がると、背後からハクの声がかかった。
「どうされました?」
「雪花の森でなにを見ても、雪代家の娘として判断するな」
桜来は眉を寄せた。真実を確かめることと、一族を捨てることは別の話だった。
「それは雪代家の娘であることを捨てろということですか?」
「違う。そうではない。我の言葉を信じる必要はない。ただそなた自身の目で見て判断するのだ」
互いを信用しているわけではない。それでも二人は今、同じ真実を見るために神殿の外へ向かおうとしていた。
それは桜来とハクが初めて、敵でも生贄でもない立場で並ぶ瞬間だった。




