第9話
白狼神の神殿を出た三人は、雪に閉ざされた道を進み、第一神域である雪花の森へ足を踏み入れた。
森へ入ると、白い雪を押しのけるように、黒い霜と枯れた蔓が地面を覆っていた。
葉を失った木々は黒ずみ、枝の先まで生気を失っている。
雪の中でも花と薬草が育つと伝えられていた森に、その面影は残されていなかった。
ハクは桜来とムクを背後に置き、森の奥を警戒しながら先頭を歩いている。
神殿から遠ざかるにつれ、ハクの首筋に浮かぶ呪紋は先ほどより濃くなっていた。
「ハク様、呪紋が広がっています」
「見れば分かる」
ハクは歩みを緩めず、桜来へ振り返ろうともしなかった。
黒い線は手首から腕へ伸び、衣の下へ潜り込むように続いている。
「でしたら、神殿へお戻りください。このまま進めば、さらに悪化します」
桜来は足を速め、ハクとの距離を少し縮める。
見えている異変を放置することは、桜来にはできなかった。
「戻らない」
「しかし――」
「我が戻れば、お前たちだけで森を進むことになる。案内役はいかがするつもりなのだ?」
「ぼく、道を探せるよ。たぶん……」
「その〝たぶん〟を信用しろというのか?」
「……できないかも」
「私たちを案内するために、無理をする必要はありません」
「案内だけの問題ではない。この森でなにが出現するのか、我にも分からない」
案内役を名乗りながら、ハクは一度も二人を自分より前へは出していない。
ハクの視線は桜来ではなく、黒い木々の隙間へ向けられている。
「ですが、あなたが倒れてしまえば元も子もありません」
「自分のことは自分がいちばん理解している。我は倒れる前に戻る。だから今は進めるだけ進むのだ」
三人は再び森の奥へ向かって歩き始めた。ハクを先頭に、桜来とムクは黒い蔓を避けながら森を進んでいく。
木々の根元には黒い霜がこびりつき、雪の下から枯れた草がのぞいていた。
枝の間に巣らしきものが残っていても、そこに生き物の姿はない。
森が深くなるほど木々は密集していたが、生命の気配は薄れている。
聞こえるのは三人が雪を踏み締める音と、時折鳴る枯れ枝の音だけだった。
ムクは立ち止まるたびに鼻先を上げ、別の方角へ顔を向けた。
「おかしいな……さっきは、こっちから匂いがしたのに」
「それは仲間の匂いですか?」
「うん。でも、今は森じゅうから変な匂いがする。仲間の匂いとその変な匂いが混ざって、分かりにくい」
「思った以上に穢れが広がりすぎている」
「みんな、この中にいるのかな?」
ムクの耳が力なく伏せられた。
桜来はムクのすぐ隣へ立ち、彼が見ている方向へ視線を向けた。それから桜来は、ムクと目線を合わせるように腰を落とした。
「まだ分かりませんね。足跡や残されたものも探しましょう」
「見つかる?」
「私たちはそれらを見つけるために来たのです。諦めるのは、調べてからにいたしましょう」
「うん、まだあきらめない」
「ムク、我から離れるなよ」
「わかった」
桜来は雪の間からのぞく枯れた葉を見つけ、その場に膝をついた。
黒い霜を指先で慎重に払い、薬草の根元を掘り出す。
掘り返した土は湿っていたが、本来あるはずの土の匂いが弱かった。
根を傷つけないよう周囲の土を除き、一本ずつ状態を確かめていく。
根は指先で触れただけでも崩れ、生気を失っていた。
黒い変色は葉の表面よりも、地中にある根のほうが濃い。
「なにか分かるか?」
「表面が黒く変色していますが、これは寒さの影響で枯れたものではありません」
「ならば枯れた原因は病か?」
「おそらく、それも違うと思います。病なら、葉や茎に先に変化が出ることが多いのですが、これは根から弱っています」
桜来は掘り出した根をムクにも見える高さへ持ち上げた。ムクは桜来の手元をのぞき込み、鼻を近づける。
「根っこが病気なの?」
「病気というより……土の中から、生命力を吸い取られているように見えます。地中に原因がある可能性が高いと思います」
「地中に原因があると?」
「断定はできません。ただ、森全体で同じ状態が起きているのなら、個々の植物の病では説明がつきません」
「祟りだとは考えないのか?」
「原因不明な状況を祟りという言葉だけで片づけるつもりはありません」
祟りという言葉を口にした途端、幼い頃に父から告げられた言葉が蘇った。
指先についた黒い土を見つめたまま、桜来は記憶を辿る。
やがて視線を上げた桜来は、黒く枯れた森を改めて見渡した。
「幼い頃、この森へ薬草を採りに行きたいと父に願い出たことがありました」
「その口調だと、そなたの願いは許されなかったのか?」
「はい、その通りにございます。白狼神の祟りがある危険な土地だから、決して近づくなと言われました」
「それは人間にとって都合のよい話だな」
「そう、おっしゃるということは、あなたはこの森がこうなる以前をご存知なのですね?」
「雪代家が森を閉ざす以前は、人間もここへ入っていた」
「人間がこの森に入っていたのですか?」
「人間は薬草や木の実を採り、あやかしは森を荒らさぬよう見守っていた。人間とあやかしは、必要な分だけをお互いに分け合っていたのだ」
かつて恵みを分け合った場所だとは思えないほど、森は静まり返っている。
人間が歩いた道も、薬草を採った跡も、今は黒い蔓の下に失われていた。
人間とあやかしが共に森へ入っていたという話は、桜来にとって初めて聞くものだった。
「ぼくも聞いたことがあるよ。昔は人間の薬師が、あやかしの傷も治してくれたって」
「均衡が保たれ恵みの源だった森を雪代家は祟りの地として封鎖した……」
「そなたにとって信じられないなら、それでも構わない」
桜来は立ち上がり、ハクとまっすぐ向き合った。ハクは答えを急かさず、桜来の言葉を待っていた。
「いいえ。あなたの話だけを信じるとも、雪代家の話が正しいとも、今は決めません」
「ならば、なにを信じる」
「今はこの森に残っているものを調べます。少なくとも、植物が枯れた理由は祟りという言葉だけでは説明できませんから」




