第7話
「お待ちください」
桜来は暗闇へ戻ろうとするハクの背へ声をかけた。
「……なんだ?」
「私を食わないとは、どういうことですか?」
「言葉どおりだ。そなたたちが決めた生贄など、我には関係のないことだ」
死を免れた安堵より、役目を果たせない戸惑いのほうが大きかった。
「私が生贄にならなければ、雪の国の結界は戻りません」
一度は死を覚悟した命を桜来は、今さらどう扱えばよいのか分からなかった。
生贄として拒絶されれば、桜来を待つ者も帰る場所もない
「お前の役目など、我の知ったことではない。そもそも、そなたに役目を与えたのは我ではない。そなたの父——人間であろう。我を巻き込むな」
白狼神に繋がる鎖が石床を擦る音だけが広い神殿に響く。
「あなたの言葉は正論です。ですが、私はもう屋敷へ戻ることはできないのでございます」
「お前がどこで生き、どこで死のうと、我には関係ない」
「……そんな……」
「そなたの存在など我にはどうでもいい事柄なのだ」
「……あなたはずいぶんと身勝手なのですね」
「……なんだと? もう一度言ってみろ」
「いいえ、あなたの指示には従いません。私の存在などあなたにとってはどうでもいいことなのでしょう?」
「……勝手にしろ」
桜来は命を返されたのではなく、死ぬ理由だけを取り上げられたように感じていた。
白狼神が腕を動かした瞬間、袖の下から胸元へと伸びる紋様が見えた。
神殿を封じる紋様が、ハク自身の身体にも刻まれているのだ。
桜来はそれに気づいた瞬間、疑問を抱いた。
「……あの」
「なんだ?」
「扉に刻まれていた紋様が、なぜあなたの身体にも彫られているのですか?」
「今更、なにを言っている?これを我に彫ったのは、お前たち人間であろう」
「私たちが?」
桜来はハクの手首から首筋へ続く黒い呪紋を目で追う。
近くで見れば、それが単なる刺青ではないことは明らかだった。皮膚の奥へ食い込むように刻まれた線は、脈打つたびに黒い光を滲ませている。
「なるほど。そなたは雪代家の者でありながらなにも知らされていないらしいな」
反射的に否定したものの、その声には自分でも分かるほど力がなかった。
「そのようなことはございません」
ハクは呪紋を隠そうとしないが、桜来の視線を不快そうに受けとめていた。
「ほう、ならばそなたは、なにを知っているのだ?」
淡い青の瞳が、桜来を試すように細められる。神殿の空気がわずかに張り詰めた。問いかけは静かだったが、答えを誤れば斬り捨てられそうな鋭さがあった。
「あなたが人間を裏切り、国に災いをもたらしたため、五本の楔で封じられたと教えられております」
「なるほど、それで?」
「あなたの祟りによって神域が穢れ、結界が弱まっていると……」
桜来は返答を急がず、玄斎から聞いた話を慎重に頭の中で辿っていた。
話を聞くほど、ハクの口元には冷ややかな笑みが浮かんでいく。その表情に怒りよりも深いものを感じ、桜来は言葉を止めた。
黒い呪紋がかすかに明滅する。押し殺された感情に呼応しているようにも見えた。
「それはよくできた作り話だな」
ハクは吐き捨てるように息を漏らした。その顔には、何度も同じ嘘を聞かされてきた者の諦めが滲んでいた。
「……作り話?」
「人間を裏切ったのは、我ではない」
真偽は分からない。だが、ハクの声には長い間押し込めてきた事実を語るような重さがあった。
「それはどういうことですか?」
「雪の国を守る力を奪っておきながら、その罪まで我に着せたか」
「お待ちください。玄斎殿の話と、あなたの話は正反対です」
「だからなんだ?」
ハクの威圧に退かず、桜来は声を整えた。
相反する主張を前にして、感情だけで答えを選ぶわけにはいかなかった。
桜来はハクの表情を観察しながら、事実を確かめるための問いを選ぶ。
「あなたが事実を語っているという証はありますか?」
「証?」
「そうでございます。証がないとあなたの言葉を信じることは……」
「信じる必要はない。人間に信じてもらおうとは思わん」
「ですが……」
「いいか、雪代の娘。真実を知りたければ、自分の目で神域を見ろ。そなたが邪神と呼ぶ我がどのような神なのか。そなた達人間が我になにをしたのか。真実はひとつしかない。それをそなたの目で見極めろ」
その言葉だけは、桜来を欺こうとするものには聞こえなかった。信じろと迫るのではなく、自分で判断しろと告げている。
しかし、なんの手がかりも与えずに見極めろというのは、あまりに身勝手だった。
「そうおっしゃるのなら、必要な情報くらいは教えてください」
「なんだと? 必要な情報?」
「そうでございます。あなたの言う通り、真実はひとつであり、私の目で見極めろというあなたの言葉は正しいと思います。ですが、あなたの身に起こった歴史を少しくらい教えてくれてもいいのではないですか?」
「……そなたは……」
ハクはわずかに目を見開いた。生贄として送られた娘から反論されるとは思っていなかったらしい。
だがこの瞬間、先ほどまで桜来を「雪代の娘」としか見ていなかった瞳が、初めて彼女自身を見定めるように向けられていた。
「なんでございますか?」
「妙に物事をはっきりと申す娘だな」
「いけませんか?」
「……いや、よい。怯えて泣き続ける娘よりは扱いやすい」
「そうでございますか。それで教えていただけるのでしょうか?」
「よかろう。話してやろうぞ。我はかつて、雪の国と神域を守っていた」
邪神の口から出たとは思えない言葉に、桜来は息を呑んだ。
ハクの声からは、先ほどまでの嘲りが消えていた。淡々とした口調だからこそ、その言葉は重く神殿に響いた。
「……え?」
「雪代家と祭司一族は、我の神力を欲していた。奴らは五つの神域へ楔を打ち込み、我の力を奪った。そして、奪った神力で国を支配し、我をこの神殿へ閉じ込めたのだ」
神殿の扉と、ハクの身体に刻まれた同じ呪紋。二つの事実が、桜来の中でひとつにつながった。
だが、雪代家が結界を守っているのではなく、守護神から奪った力を利用しているのだとすれば。桜来が信じてきた国の成り立ちは、根底から覆る。
もちろん、この話を荒唐無稽な話だと切り捨てることは簡単だった。
しかし目の前の呪紋は、ハクの言葉を否定することを許さなかった。
「もしそれが真実ならば、結界の力が弱っているのは……」
「境界が崩れているのは、我の祟りではない。守護神の力を奪った結果だ。神域が穢れているのは、我の守る力を封じているからである」
「では、あなたは雪代家が守護神の力を奪ったとおっしゃるのですね」
「その通りだ」
「それならば、なぜ民にはあなたの祟りだと伝えられているのですか」
「人間は自らの罪を認めぬ生き物である。守護神を裏切ったと知れれば、雪代家の正当性は失われる。我を邪神に仕立てれば、奴らは国を救う一族でいられる」
「民に真実を知らせれば、雪代家は力を保つことができないということですか?」
「ああ、その通りだ。だが、この話をお前は信じないのであろう?」
「はい。今は、あなたの話だけを信じることはできません。私は雪代家で育ちました。これまで信じてきたものを、すぐに捨てることはできません」
「だろうな」
「ですが、玄斎殿の話だけを信じ続けることもできなくなりました」
「ほう……では、どうするのだ?」
ハクの瞳から、わずかに険しさが薄れた。代わりに、桜来の答えを待つような色が浮かぶ。
その刹那、人間と邪神として向き合っていた二人の間に、初めて同じ真実を見ようとする余地が生まれた。
「どちらの話が正しいか、私自身で確かめます。万が一、あなたの言葉が真実なら、それを示すものが神域に残っているはずです」
「ああ、それがいちばん手っ取り早い」




