第6話
「これより、生贄の証を祭壇へ捧げます」
「生贄の証?」
「はい。生贄を神へ捧げる前に、血を供えるしきたりがございます」
神官が差し出した刃を、玄斎が灯りへかざして確認する。
「血を捧げることも、儀式に含まれているのですか?」
「左様にございます。左手をこちらへ」
「この銀の器に私の血を?」
「わずかな傷から少量の血を取るだけにございます。恐れることはありません」
「……分かりました」
玄斎が桜来の左手を取り、手首の内側を上へ向ける。
「すぐに済みます。腕を動かされませぬよう」
桜来は腕を引かず、刃先が皮膚へ触れるのを見つめる。
「はい」
玄斎は刃を当てるだけにとどめ、血が滲む程度の浅い傷を桜来の腕に刻んだ。刃先が触れた瞬間、冷え切った皮膚にわずかな痛みが走った。
「そのまま器を動かすな」
滲んだ血が手首を伝い、銀の器に一滴落ちる。
血が落ちた瞬間、玄斎の目がわずかに細められた。
玄斎は厳しい口調で神官に指示した。
「はっ!」
神官は緊張の面持ちで器を固定する。
別の神官のひとりが布を持って控えるが、玄斎はそれを制して反応を待つ。
「しばらく待ち、封印の紋を確認せよ」
玄斎は器の中よりも、祭壇や周囲の呪紋を注視していた。玄斎の表情からは慈悲深さが消え、観察する者の鋭さが現れている。
「……玄斎殿、なにも変化はございません。扉の呪紋にも、祭壇にも反応はなく、楔の紋章は変わっておりません」
銀の器に落ちた血は、なにも応えず、ただ赤い雫として底に溜まっている。
「……やはり、なんの力も持たぬということか」
玄斎の顔には、失望だけが浮かんでいた。
神官たちは互いに視線を交わすが、誰も言葉を発しない。
「玄斎、あなたはなにを確かめているのですか?」
「桜来様が気になさることではございません」
「ですが、変化がないのは良くない状況なのではないのでしょうか?」
「ご心配なく。生贄としてのお役目に変わりはございません」
「……そうでございますか」
「はい、儀式は滞りなく終わりました。間もなく白狼神が現れます」
神官が桜来の手首の傷に布を巻き、結び目を固く引き締める。
「私はこの祭壇の前で、なにをすればよいのですか?」
玄斎は銀の器を神官へ預け、すでに出口へ向けて身体を翻していた。桜来が問いかけても、玄斎は足を止めない。
「なにもなさらず、ここでお待ちください。間もなく、白狼神があなたの気配に気づくでしょう」
「……承知いたしました。私ひとりの命で国が救われることを願います」
「あなたの献身を、神々もご覧になっておられるでしょう。あなたの犠牲は、雪代家と雪の国において、永遠に記憶されることでしょう」
神官たちは儀式の道具を回収していく。
雪代家の娘として扱われていた丁寧さは、役目を終えた瞬間に消える。
最後の神官が扉の外へ出ると、重い扉がゆっくり閉じていく。
桜来は閉ざされる隙間から、神官たちの灯りが遠ざかるのを見送る。巻かれた布の上から、自身の不安を誤魔化すかのように手首を押さえていた。
国のために捧げられたはずの桜来を、国の者たちは誰も見送ろうとはしなかった。
***
桜来は祭壇の前へ膝をつき、両手を膝の上に重ねる。乱れた呼吸を整え、暗闇の奥へ顔を向ける。
心臓の音が、神殿全体に聞こえるのではないかと思うほど大きい。指を組むと、自分の手がひどく冷えていることに気づく。
待っているのは白狼神なのか、それとも自分の死なのか、桜来には区別がつかなかった。
その刹那、神殿の奥から音が聞こえ、桜来は顔を上げる。
桜来は逃げる代わりに背筋を伸ばし、暗闇の奥を視線で据える。
黒い影が柱の間を進み、灯りの残る場所へと姿を現す。その姿は黒い影が変化し、やがて人の青年の姿を現した。
青年の手首から伸びる鎖。
彼の肌を覆う呪紋。
銀白色の長い髪が、暗闇の中でわずかな光を拾っている。
淡い青の瞳は冷え切り、人間への敵意を隠そうともしていない。
白い神衣はところどころ傷み、黒い呪紋が手首から袖の奥へ続いている。
首筋に浮かぶ呪紋は、生き物のようにゆっくりと脈打っていた。
鍛えられた大柄な身体には、封じられてなお近づいてはならない獣を前にしたような威圧感があった。
明らかに弱っている。しかし、その眼差しから神としての気高さは失われていない。
「……また人間か」
ハクは桜来へ近づきすぎずに様子を窺っている。
桜来は想像していた巨大な白狼ではなく、人の姿をした青年が現れたことに戸惑いが隠せない。しかしその戸惑いを邪神に悟られてはいけない。そう考えて冷静さを装っていた。
「私は雪代家より、贄としてここに参りました」
答えた後に桜来は『白狼神の言葉に答えてはいけない』という、玄斎の言葉を思い出した。
「贄だと? 人間は、まだそのような真似を続けているのか」
彼の視線は白装束、手首の傷、胸元へと順に向けられる。
「それはどういう意味でございますか?」
「我に近づくな」
「……っ!」
鋭い声に身体が強張る。桜来は息を呑み、その場で動きを止めた。人を食らう邪神であるならば、なぜ自ら近づくことを拒むのか。疑問が浮かんだものの、今は問いかけられる雰囲気ではなかった。
「お前はなにを命じられてここに来た?」
「私が贄となれば、雪の国の結界が建て直されると聞いております」
『生贄』という言葉そのものを嫌悪するように、白狼神の口元が歪んだ。
「くだらん! それをそなたに吹き込んだのは……玄斎か?」
「それに答えれば、私の問いにも答えてくださいますか?」
「ほお、交換条件か? お前はこれまでの贄とは少々異なるようだな。おもしろい。よかろう、そなたの問いにも応えようぞ」
桜来は青年の真意を探るように、その淡い青の瞳を見つめた。敵意は消えていない。それでも、問いに答えるという言葉に偽りはないように感じられた。
「私をこの神殿に送る決断を下したのは、雪代家ご当主にございます」
「それはそなたの父が決定を下したと言うことか?」
「はい、左様にございます」
「そうか。人間というのはいつまで経っても変わらない生き物らしい。まあ、いい。そなたの聞きたいこととはなんだ?」
確かめたいことは幾つもあった。しかし、まず知らなければならないのは、目の前の青年が本当に自分を食らうと教えられてきた白狼神なのかということだった。
「……あなたが白狼神でございますか?」
「我が『そうだ』と応えれば、お前はどうする?」
「……覚悟をするだけです」
「覚悟?」
「はい、あなたに食われる覚悟をいたします。少なくとも、見苦しく命乞いなどはいたしません」
「そうか。それはご立派な心掛けだな。だが、くだらない」
「……くだらない?」
「ああ、くだらない。我は白狼神ハクである。だが我は人間が差し出した生贄など食わない」
ハクは桜来の前を通り過ぎ、重い鎖を引きずりながら暗闇の奥へ戻っていく。
桜来はその背中を見つめることしかできなかった。
殺されるためにこの神殿に来た桜来は、白狼神から死ぬことを拒まれたのだ。




