9話 待ち望んだ命
「そういえば、今月も来ていないわ……」
泉の事故から数日が経った頃、ヴィオレッタは月のものがしばらく来ていないことに気が付いた。
夫との最後の夜伽は、リリアーヌが来る数カ月前――確か、初夏の頃だったはずだ。
(まさか、わたくしに子が――?!)
ヴィオレッタは思わず下腹部に手をやった。
そこは、少しだけ膨らんでいた。
「でも……太ってしまっただけかもしれないわ」
ヴィオレッタは、少し膨らんだ部分をそっと撫でた。
きっと思い違いだろう――そう思いつつも、彼女は医師に診てもらうことにした。
ヴィオレッタはまず、信頼のおける老執事に声を掛けた。
「奥様、いかがなさいましたか」
「部屋まで呼び付けてしまってごめんなさいね」
申し訳なさそうに微笑んだヴィオレッタに、表情を和らげた老執事は静かに首を振った。
「その――婦人病が少し心配で……こっそりお医者様を呼んでもらえないかしら」
「心配をかけたくないから、どうか内密にしてちょうだい」と付け加えたヴィオレッタに、老執事は「お任せください」と恭しく腰を折った。
老執事は、ヴィオレッタに言われた通り内密に医師を呼び、彼女の部屋に案内しようとした――
「その者は誰だ。この邸に何の用だ」
老執事に伴われてヴィオレッタの部屋へと向かう青年の姿に、ロナルドは眉を寄せた。
「私は医師のギオーネと申します。奥様のご気分が優れないとのことで、往診に参りました」
「そうか……」
「しかし、随分と若い医師だな」と目を細めたロナルドに、医師は静かに頭を下げた。
「旦那様、リリアーヌ様がお待ちなのでは……」
「……ああ、そうだった」
老執事の言葉に、ロナルドは背を向けて歩き出した。
小さく安堵の息を漏らした老執事は、医師をヴィオレッタの部屋へと案内した。
「本日はお世話になります。ヴィオレッタ・フォン・ヴァルデンですわ」
「お初にお目にかかります。医師のギオーネと申します」
「本日は、いかがなさいましたか?」と問うた医師に、ヴィオレッタは囁くような声音で告げた。
「実は――月のものが、初夏のあたりから来ていないのです」
「そうですか……それでは、診させていただきます」
そうして、診察が無事に済み、ヴィオレッタは緊張した面持ちで医師の言葉を待った。
真剣なヴィオレッタの表情に、医師は小さく笑った。
「奥様。ご懐妊おめでとうございます。おそらくは、春頃にお生まれになるかと存じます」
「まあ……本当に?!」
ヴィオレッタは両手で口元を押さえて涙ぐんだ。
彼女が心から待ち望んでいた、夫のロナルドとの子だった。
「順調にいけば、冬になる頃には安定期に入るかと存じます。体を冷やさないようにして、くれぐれもご無理をなさらぬように」
医師の言葉に、ヴィオレッタはそっと腹部に触れて頷いた。
「ええ……ずっと、ずっと大切にしますわ」
ヴィオレッタは、涙を滲ませて医師を見送った。
『やっとわたくしのお腹にも赤ちゃんが来てくれた! 花の咲く季節に産まれる、わたくしたちの可愛い子。大切に、大切に育てたい……でも、ロナルド様は喜んでくださるかしら……』
そう日記を綴り、ヴィオレッタは考え込んだ。
ロナルドはリリアーヌを宝物のように大切にしている。そんな中で、妻であるヴィオレッタの妊娠を知ったらどんな反応をするだろうかと――
(きっと、喜んでくださるはずよ……)
ヴィオレッタは、彼から贈られた紙の切れ端の束を手にした。
(“私たちの、可愛い子が出来るように――”)
ヴィオレッタは、そのメッセージを大切そうに指でなぞった。
彼は結婚してすぐの頃から、ヴィオレッタとの間に子が出来ることを望んでいた。
夫婦の間に子が出来れば、また以前のように笑い合える日が来るかもしれない――ヴィオレッタは、そう信じたかった。
「でも……いつご報告しようかしら……」
ヴィオレッタは、まだ安定期に入っていない。
もし報告した後に何かあれば、がっかりさせたり、悲しませることになるかもしれない――
(もう少ししてからが良いわよね……)
そう考えたヴィオレッタは、愛おしげに腹部を撫でた。
「可愛い赤ちゃん、母様のところに来てくれてありがとう。これから、どうぞよろしくね」
妊娠がわかってからというもの、毎日浮かない顔だったヴィオレッタは見違えて明るくなった。
メイドたちから嘲笑の視線を向けられても、陰口を囁かれても平気だった。
もう、自分は一人ではない。お腹には、彼との間に出来た大切な命が宿っている――その気持ちが、彼女を強くしたのだ。
そうして、数日が経った――
ヴィオレッタが厚手のドレスを着て庭園を散歩している時、彼女の背後から落ち葉を踏む二つの足音が響いた。
振り返ったヴィオレッタに、ロナルドは榛色の瞳を見開いた。
「なんだ……この間のは、仮病だったのか?」
ヴィオレッタの血色の良い顔を見て、彼は忌々しげに眉を寄せた。
「あら? ヴィオレッタ様は装いを変えられたのですね」
下腹部に手を添えて微かに微笑んだヴィオレッタに、リリアーヌは目をすっと細めた。
ヴィオレッタは以前よりも更に食事に気を配るようになり、体が冷えぬようにいつでもショールを纏い、ヒールのある靴を履くのをやめていた。
けれど、ロナルドは気にも留めなかった。
そして、その日の夕刻のこと――
珍しいことに、ロナルドがヴィオレッタの部屋へとやって来た。
(良い機会かもしれないわ……)
安定期はもう少し先だが、“ヴィオレッタには子が出来ない”と彼は思っている。懐妊の報告をすることで、彼の態度は大きく変わるかもしれない――
ヴィオレッタは、腹部を慈しむようにそっと触れた。
同じ邸に暮らしているというのに、夫であるロナルドと話せる機会など滅多になかった。
ショールを胸元で手繰り寄せたヴィオレッタは、ロナルドを見つめ背筋を伸ばした。
「ロナルド様……大切なお話があるのです」
けれど、彼女が勇気を出して紡いだ言葉は、まるで聞こえなかったかのように遮られた。




