10話 孤立
「私とリリアーヌの子がもうじき産まれる。南東にある別荘で休ませてやりたい」
ロナルドの放った言葉に、ヴィオレッタは報告しようとしていた気持ちをくじかれてしまった。
南東にある別荘――そこは、二人が式を挙げてすぐの頃、ヴィオレッタが「新婚旅行に行きたい」と希望したはずの土地だった。
「それは……行ってらっしゃいませ」
静かに声を落としたヴィオレッタに、ロナルドは忌々しげに目を細めた。
「君にも来てもらう。リリアーヌの希望だ」
ヴィオレッタは、一瞬何を言われたのかわからなかった。
何故、愛人と夫の静養に正妻が付き添わないといけないのだろうか――
黙り込んだ彼女に、ロナルドは言葉を続けた。
「……リリアーヌの優しさに免じて、この間の――泉でのことは許してやる」
「だが……前にも言ったが、次はないからな。リリアーヌと私の子に手を出すことは許さない」と冷たく告げたロナルドに、ヴィオレッタはドレスの裾を握り締めて俯いた。
彼は未だに、ヴィオレッタがやったのだと決めつけているのだ。
(もし、この子が望まれなかったら……)
ヴィオレッタは、腹部を守るかのようにそっと手をやった。
お腹に宿った小さな命は、ヴィオレッタにとって何より大切な宝物だった。
「ヴィオレッタ……リリアーヌが憎いのはわかるが、理解してほしい。ヴァルデン侯爵家には、跡継ぎが必要なんだ」
「ええ……わかっておりますわ」
「それに、わたくしはリリアーヌさんを憎いなどと思ったことはありませんわ」と静かに返したヴィオレッタに、ロナルドは僅かに眉を寄せた。
それはまるで、『嘘を付くな』と責めるかのような顔だった。
夫に告げようとしていた言葉を、ヴィオレッタは口に出来なかった。
そうして、翌日になった――
(何だか、気分が悪いわ……これがつわりなのかしら)
急に寝込むようになったヴィオレッタを、ロナルドが見舞うことは当然のようになかった。
「ヴィオレッタ様、お食事です」
ヴィオレッタが部屋で取るようになった食事は、いつも決まって時間よりも遅れて運ばれた。
静かな部屋に、トレーをテーブルに置く無機質な音が響く。
優しさの欠片もない所作で差し出されるのは、冷めきった食事だった。
お皿の上に並ぶのは、濃いソースのかかった肉料理に、萎びた葉のサラダ。野菜スープに具はほとんど入っていない。
(これは……)
肉料理に添えられているのはセージだった。妊娠中は避けたほうが良いとされるハーブだ。
サラダのドレッシングとスープからも何かのハーブの香りがした。
「どうぞ、お召し上がりください」
「…………」
ヴィオレッタは、震える指先を握った。
手の付けられない料理と不安げな顔のヴィオレッタを、メイドは冷たい眼差しで見下ろす。
「お召し上がりにならないのですか?」
「ごめんなさい。せっかく持ってきてもらったけれど、気分が悪くて食べられないの……何か――酸っぱい果物はないかしら」
そう弱々しく口にしたヴィオレッタに、メイドは冷ややかに笑った。
「果物は全て、旦那様がリリアーヌ様のためにご用意されたものですから」
「…………」
「それと……そんなことをなさっても、旦那様はここにはおいでにはなりませんよ」
嘲笑を滲ませた声音に、ヴィオレッタは思わず顔を上げた。
口を噤んだままのヴィオレッタに、彼女を見下ろすメイドの唇は微かに弧を描いた。
(わたくしは、仮病だと思われているのね……)
ビスケットの一欠片程度と少量の水しか口にできないヴィオレッタは、数日でやつれてしまった。
吐いてしまうことはなかったが、ヴィオレッタは昼夜続く倦怠感と吐き気に一人耐え続けた。
『お腹に赤ちゃんがいるのは、すごく大変なことだとよくわかったわ……今は水しか飲めないけれど、つわりが落ち着いたら、たくさん栄養のあるものを食べるわ。だからどうか……可愛い赤ちゃん、元気にすくすくと育ってね』
ヴィオレッタは祈るように日記を綴り、まだ小さな腹部を大切そうに撫でた。
翌日、メイドたちは彼女の部屋を訪れなかった。
(喉が渇いたわ……早くお水が飲みたい)
ヴィオレッタは、ふらつきながら廊下を進んでいた。
彼女が最後に水を口にしたのは、ゆうべ寝る前だった。
朝食も運ばれず、喉が渇いてメイドを呼んでも、誰も来てはくれなかったのだ。
(ロナルド様……きっと、聞いてはくださらないわよね)
侯爵である夫に相談すべきかとも思ったが、どうせリリアーヌとそのメイドたちを庇うに決まっている――ヴィオレッタはそう思った。
(こんなとき、皆がいてくれたら……)
ヴィオレッタは、滲んだ目元をグリーンのドレスの袖で押さえた。ロナルドに辞めさせられたメイドたちを思い出したのだ。
彼女たちは、ヴィオレッタを敬い、心から慕ってくれていた。今も彼女たちがいれば、ヴィオレッタは安心して過ごすことが出来ていたはずだ――
「大丈夫。わたくしには、この子がいるもの……」
腹部に触れてそう自分を奮い立たせても、ヴィオレッタの胸には不安が巣食っていた。
今や、この邸のメイドたちはすべて、リリアーヌの支配下にあるようなものだった。
ヴィオレッタは、“名ばかりの侯爵夫人”だと彼女たちから嘲笑われていたのだ。
(もうすぐよ……頑張るのよ。ヴィオレッタ)
厨房は一階の北側にある。
医師から“つわりのときも水分は欠かさず摂るように”と言われていた彼女は、必死に階段へと向かっていた。
階段にたどり着いたとき――どこからかふわりと香った甘ったるい香水の匂いに、ヴィオレッタは口元を押さえた。
(気を付けて降りないと……)
ヴィオレッタはまだ小さな腹部を守るように手を添え、もう片方の手で手すりをしっかりと掴んだ。
彼女は手すりを握り締め、一階へと続く階段をゆっくりと降り始める。
そうして、もうすぐ降り終えようとするとき――
「ああっ!!」
階段を踏み外したヴィオレッタの体は、階段の下へ向かって倒れ込んだ――




