11話 差し伸べられた手
「――奥様、大丈夫ですか?!」
階段で足を踏み外したヴィオレッタを助けたのは、侯爵家に仕える若い騎士の一人だった。
「ベネデット卿、助かりましたわ」
「いえ、丁度通りがかって……奥様にお怪我がなくて良かったです」
「随分とお痩せになりましたね。……お加減は大丈夫なのですか?」と心配そうに見つめる騎士の瞳には、憐憫の色が揺れていた。
「少し食欲がなくて、あまり食べていないだけだから……」
「そうでしたか……奥様は、どちらへ向かわれるおつもりなのですか」
「……厨房へ」
ヴィオレッタの囁くような小さな声音に、騎士は微かに息を詰まらせた。
何かを察したかのように視線を落とすと、彼はヴィオレッタに手を差し出す。
「また転ばれてはいけませんから……私にご案内させてください」
ヴィオレッタは「ありがとう」と小さな声で返すと、おずおずと騎士の手を取った。
惨めさや恥ずかしさよりも、今は人の優しさが嬉しかった。まるで、弱り切った彼女の心を彼の優しさが包んでくれるかのように感じた。
「……この邸も、随分と変わってしまいましたね」
ぽつりと呟かれた騎士の言葉に、ヴィオレッタの唇はほんの少しだけ笑みを作った。
(リリアーヌさんが来てからだわ……)
ヴィオレッタは、彼女が現れた日のことを思い返した。
あのときヴィオレッタは、不憫だという彼女の助けになろうと思っていた。
けれど今では、この邸の女主人はまるでリリアーヌの方だ。
それに、ヴィオレッタが彼女から手を差し伸べられることはなかった――
「ベネデット卿、ありがとう」
「そのような……奥様、私で出来ることがあれば何なりと仰ってください」
ヴィオレッタの胸は、まるで小さな灯りが灯ったかのようだった。それは、久しぶりの感覚だった。
そうして、騎士の腕に支えられながら、ヴィオレッタが歩いていたときだった――
「ヴィオレッタ!」
冷たい靴音と共に現れたのは、ロナルドだった。
「ロナルド様……」
やつれたヴィオレッタの姿を目にして、ロナルドは微かに息を呑んだ。
「……こんなところで、何をしている」
「階段から落ちそうになって……ベネデット卿に、手を貸していただいていたのです」
「そうだったのか……怪我はないのか」
「ええ、ベネデット卿のおかげで無事でしたわ」
ヴィオレッタの傍らに寄り添うように立つ騎士を見て、ロナルドは腹立たしそうに眉を寄せた。
「そこの――ベネディクトと言ったか……さっさと仕事に戻れ。妻を支えるのは、夫の役目だ」
(ロナルド様……?)
予想もしなかった夫の言葉に、ヴィオレッタの菫色の瞳が見開かれた。
騎士に支えられる彼女の姿に、ロナルドは不機嫌そうに目を細めた。
「そういえば、体調が悪いそうじゃないか……何故こんなところをうろついていたんだ」
「それは――」
ロナルドが一歩進み出ようとしたとき――
再び甘い香水の香りが漂って、ヴィオレッタは口元を手で押さえた。
「ロナルド様……お腹が少し痛くて……」
ロナルドの背後から現れたのは、リリアーヌだった。
大きくなった腹部を押さえながら、よろけた彼女の体をロナルドが支える。
「リリアーヌ、大丈夫か?! すぐに医師を呼ぶからな」
彼女を抱き上げて去って行くロナルドの後ろ姿を、ヴィオレッタは静かな眼差しで見つめた。
そのとき、彼に抱かれたリリアーヌがヴィオレッタをちらりと見た。
その青い瞳は、鋭さを帯びていた。
ヴィオレッタがその眼差しに気付くことはなかった。
「奥様、参りましょう」
「ええ……」
厨房の匂いに座り込んでしまったヴィオレッタに、騎士は跪いて水を差し出した。
そして、ヴィオレッタは騎士の手を借りて庭をゆっくりと散歩した。
「風が気持ち良い……ベネデット卿、感謝しますわ」
微笑んだヴィオレッタに、騎士は嬉しそうに目を細めると一礼した。
彼がいなければ、ヴィオレッタはきっと水すら運ばれない部屋で寝込んでいたはずだ。
「少し風が冷たくなってきました……そろそろお部屋までお送り致します」
散歩を終えたヴィオレッタを待っていたのは、出てきたときのまま変わらない部屋だった。
(掃除もしてくれていないのね……)
ベッドカバーは朝のままで、テーブルには水差し一つ置かれていない。
ヴィオレッタは小さくため息を吐くと、日記帳を手にした。
『今日は、食事も運ばれては来なかった。メイドたちは、お水すら持ってきてはくれない。でも、傷んだ野菜や何が入っているかわからない食事なら、食べない方が良いもの……お腹にいる可愛いこの子はわたくしが守ってみせる』
ヴィオレッタは、日記帳をそっと閉じた。
その目には、静かな決意が宿っていた――




