8話 濡れ衣
そして、ヴァルデン侯爵邸の庭はすっかり秋の色に染まった――
臨月を迎えたリリアーヌから、「お世話になったお礼がしたい」とヴィオレッタは庭園に呼び出された。
赤や黄色の木の葉が舞い落ちる中を、二人は静かに歩いた。
「リリアーヌさん、もう臨月だそうね。お腹が大きいと大変でしょう? しっかり休んで、無理はしないようにね」
「ヴィオレッタ様、いつもお気遣いありがとうございます」
可憐な微笑みを浮かべたリリアーヌに、ヴィオレッタは優しげに目を細めた。
「そのネックレスは……」
リリアーヌの青い瞳が、ヴィオレッタの胸元を捉えた。
揺れるルビーのネックレスに、微笑んだヴィオレッタは指を伸ばす。
「これは、ロナルド様からいただいたの」
宝石に触れて、そう嬉しそうに微笑んだヴィオレッタに、「そうなのですね」とリリアーヌは目を細めて笑った。
そのとき、冷たい風が吹いてリリアーヌの淡い金の髪を揺らした。
(少し、冷えてきたわね……)
ヴィオレッタは、傍らを歩くリリアーヌに視線を向けた。
もう秋も深まったというのに、リリアーヌの装いはやけに薄着だった。春先に着るような象牙色の薄手のドレスだけを纏っている。
身重のリリアーヌの体が冷えてはいけない――ヴィオレッタは、相変わらず彼女のことを気遣っていた。
「リリアーヌさん、ここは少し冷えるからお部屋に……」
ヴィオレッタがそう言いかけたときだった。
あたりに視線を巡らせたリリアーヌが、突然叫んだのだ。
「――きゃあっ!!」
「リリアーヌさん!?」
叫び声と共に、フラリと泉に向かって倒れ込んだリリアーヌ。
『バシャン!!』と大きな水しぶきが上がった。
(いけない! 赤ちゃんが!)
泉に落ちたリリアーヌに、ヴィオレッタはひどく慌てた。
「ヴィオレッタ、様……!」
見た目より深い泉に、もがくリリアーヌは沈んでいく――
「リリアーヌさん! さぁ、手を伸ばして!!」
ヴィオレッタが必死に手を差し伸べた瞬間、邸から全力で駆けてきたロナルドが泉に飛び込んだ。
その飛沫を浴びたヴィオレッタはずぶ濡れになった。
「リリアーヌ! 大丈夫か?!」
ロナルドは、リリアーヌを抱いて泉から上がった。
「ロナルド様……ヴィオレッタ様が……」
震える手で胸元にしがみつくリリアーヌに、彼はヴィオレッタを睨み付けた。
「お前がやったのか!!」
「わたくしは、何もしていませんわ」
ヴィオレッタは髪から雫を落としながら、首を大きく振った。
けれど、彼女が何度説明しても、ロナルドは聞く耳を持たなかった。
(リリアーヌさん、どうして何も言ってくれないの……?)
ヴィオレッタは、ロナルドの腕の中で震えるリリアーヌを見つめた。
だが、リリアーヌは何も語らなかった。
(赤ちゃんは大丈夫かしら……)
「リリアーヌ、これを着るんだ」
ロナルドは脱いだ上着でリリアーヌを包んだ。
「すぐに湯を沸かしてくれ!! リリアーヌに着替えを――」
「医師もすぐに呼べ!」と執事に叫んだロナルドは、リリアーヌを抱いたまま邸へと入っていった。
(ロナルド様……)
冷たい風の吹く秋の庭で、ヴィオレッタは一人立ち尽くした。
濡れてしまったドレスが、ひどく冷たく感じた。
冬はもう少し先だと言うのに、彼女は体の芯から凍えるような心地だった。
「赤ちゃんは――リリアーヌさんは大丈夫だったの?」
部屋へ来たメイドから話を聞いたヴィオレッタは胸を撫で下ろした。
幸い、リリアーヌの体調に異常はなく、妊娠の経過も順調とのことだった。
しかし、ロナルドは「私の子を身籠り、愛されているリリアーヌが妬ましくてやったのだろう」と、ヴィオレッタがリリアーヌを泉に突き落としたのだと決めつけた。
「そんな……わたくしは決してそのようなことは――」
「リリアーヌ、ヴィオレッタがやったんだろう?」
「心配は要らない。私が守るから」と肩に触れるロナルドに、リリアーヌは小さく首を振った。
「わたしが悪いんです……わたしが、この邸に来たから……」と消えそうな声で口にしたリリアーヌに、ロナルドはヴィオレッタを睨み付けた。
「よくも私の子とリリアーヌを……」
低く発された声音も眼差しも、もはや妻に向けるものではなかった。
「ヴィオレッタ……私に不満があるのはわかるが、リリアーヌを傷付けることだけは許さない」
「ロナルド様、わたくしは――」
「もし次にリリアーヌや私の子に何かあれば――私は君を、絶対に許さないからな」
それから、ロナルドはヴィオレッタと顔を合わせるたびに仇を見るような目付きで彼女を見るようになった。
『ロナルド様は、わたくしが何を言っても信じてはくださらない。リリアーヌさんのお腹に赤ちゃんがいても、そうでなくても……わたくしは、決して泉に突き落としたりなんてしないのに……。リリアーヌさんと赤ちゃんが無事で良かったと、心から思っているのだから――』
毎夜のように涙に濡れるヴィオレッタは、自身の無実を日記に綴ることしか出来なかった。
「奥様がそのようなことをなさるはずがありません。どうか奥様をきちんと見て差し上げてください」
そう忠言した執事は雑用係へと回され、「リリアーヌ様がご自分で泉に落ちたのです」と証言したメイドは解雇された。
ヴィオレッタがそのメイドを戻すようロナルドに頼み込んだが、彼は一切聞かなかった。
「メリーが辞めさせられたわ」
「あの方、まるでこの邸のお姫様ね」
「お可哀想なヴィオレッタ様……」
メイドたちは皆、リリアーヌを毛嫌いしていた。
そのため、彼女への視線も態度も冷たいものだった。
「ロナルド様……実は、メイドの皆さんが怖くて……」
「伯爵家のお嬢様だったヴィオレッタ様とは違うから、見下されているのかしら……」と涙を浮かべながら口にしたリリアーヌのために、ロナルドはメイドのほとんどを入れ替えてしまった。
自分を慕ってくれたメイドたちが他家で働けるようにと、紹介状をしたためようとしたヴィオレッタを、ロナルドは許さなかった。
「ヴィオレッタ様、どうかお元気で……」
「何もしてあげられなくて、ごめんなさいね」
ヴィオレッタと、邸を去るメイドたちは両手を握りあって別れを惜しんだ。
「へぇ……あれが噂の――」
ロナルドが雇ったメイドたちは、皆がリリアーヌの味方だった。
「子供の出来ない正妻なんて、悲惨よね……」
「リリアーヌ様に嫉妬して、泉に突き落としたんですってよ」
新しいメイドたちは、ヴィオレッタを見ては薄く笑ったり、冷ややかな視線を向けた。
聞こえる声で囁かれる陰口に、ヴィオレッタは心をすり減らしていった。
まるで、すべてがリリアーヌのために在る――侯爵邸は、そんな空気に染まっていった。




