3話 忘れられた約束
「ロナルド様、一泊だけでも構いませんの。南東の侯爵家の別荘地なら、そう遠くはありませんでしょう?」
「仕事が忙しいと言っているだろう……それに、あの暑苦しい別荘地には飽き飽きしているんだ」
「君がこんなに聞き分けの悪い妻だとは思わなかったよ」と鬱陶しげな視線を向けるロナルドに、ヴィオレッタは唇を小さく結んだ。
(ロナルド様も、楽しみにしていると仰っていたのに……)
「まだ何か――言いたいことがあるのかい?」
「いえ……何でもありませんわ」
こうして、ヴィオレッタが楽しみにしていた新婚旅行は取り止めとなった。
(ロナルド様はお忙しいから、仕方ないのよ……妻であるわたくしがしっかりしなくては)
ヴィオレッタは文句の一つも言わず、不満げな顔すら彼には見せなかった。
忙しい夫に、負担を掛けたくはなかったのだ。
こうして、二人の結婚生活は幕を開けた。
(ロナルド様は、今もお仕事をなさっているのかしら……)
「仕事が忙しい」ことを理由に、ロナルドは邸にほとんど寄り付かなかった。
ヴィオレッタは、寝室のバルコニーから夜空を見上げた。
どこまでも広がる紺碧の夜空には、銀色の星が瞬いている。
「ロナルド様……」
隣に夫がいて、寄り添って星空を眺めることが出来たら、どんなに素敵で幸せな気持ちになれるだろうか――
(お仕事が落ち着いたら、きっと前のように笑ってくださるはずよ)
ヴィオレッタは沈んだ顔で微かに微笑むと、寝室へと戻った。
そして、一人では広すぎる寝台で眠りに就いたのだった。
小さく丸まって眠る彼女の頬を、一筋の雫が煌めいた。
◇
「ロナルド様、わたくしに何かお手伝いできることはありませんか?」
「何もないさ。君は邸で好きなように過ごしてくれて構わないよ」
「お仕事のお手伝いは――」
「必要ない。私の仕事のことに口出ししないでくれ」
ヴィオレッタが仕事の話をすると、いつも決まって彼は不機嫌になった。
彼女が仕事の内容を聞いても、「領地と侯爵家を守るために、やることはたくさんあるんだ。君は知らなくて良い」と冷ややかに返されるだけだった。
「せっかく我が家に帰ってきたんだ。仕事の話は聞きたくないな」
「それでは、他のお話を……」
ヴィオレッタの言葉に、ロナルドは口籠った。
「今は疲れていて……話したい気分じゃないんだ」
ヴィオレッタは仕事の話を聞くことはなくなり、続かない二人の会話は少なくなっていった。
「奥様、今日は旦那様がお戻りになられるそうですね」
「ええ、そうなの。わたくしは部屋に飾るお花を摘んでくるわ」
「奥様、そのようなことは私たちが――」
嬉しそうに庭に向かったヴィオレッタの姿に、メイドたちは微笑ましげに笑い合った。
寝室には瑞々しい白百合の花が飾られたが、ロナルドが目に止めることはなかった。
その日の夜更けのこと――
寝台に仰向けに横たわったまま、ロナルドは静かに口を開いた。
「……次に帰ってくるのは、来月になる」
「何日にお戻りになりますか?」
「ああ……満月の日から二日間だ」
ロナルドが口にしたのは、“子を授かりやすい”と医師に勧められた日程だった。彼は、跡継ぎを設けるためだけに邸へ戻ってきていたのだ。
そのことを、ヴィオレッタは知らなかった。
「他の日は――」
「仕事で帰れないんだ。最近はあちこち飛び回っていてね」
「そう、ですか……どうかお体にお気を付けて」
ヴィオレッタは寂しさを押し殺して、いつも微笑んで夫の帰りを待った。
泣き言も不満も零さず、騎士たちを労い、使用人たちにも笑顔で声を掛けた。
心優しく分け隔てないヴィオレッタは、皆から慕われるようになっていった。
そうして、月は三度巡った――
『お忙しいロナルド様のために、何かできることはないかしら』
この頃には、使用人たちは皆知っていた。
屋敷の外に、ロナルドが愛する女をそれは大切に囲っていることを。
何も知らないのは、ヴィオレッタだけだった。
彼女は毎日のように、部屋に飾った結婚式の肖像画を幸せそうに眺めた。
(この日は、先に眠ってしまわれるほどにお疲れだったのよね……)
もう少し時が経てば、出会った頃のように彼が微笑んでくれるはずだと彼女は信じていた。
このときのヴィオレッタは、疑うことすら知らなかったのだ――




