29話 偽り
あのヴェルス王宮での夜会の晩から、リリアーヌは悪夢に悩まされ続けていた。
その夢は、いつも同じだった。
リリアーヌが赤子のエーリヒを抱いて川辺に立っていると、暗い川の底から死んだはずのヴィオレッタがゆっくりと這い出てくる。
そして、いつもこう言うのだ――
『……あなたの子は、生きているの?』
「きゃあぁあああっ!!」
「リリアーヌ……またなのか」
暗い窓の外には、まだ月が昇っている。
叫びながら目覚めたリリアーヌに、ロナルドは迷惑そうな顔でため息を零した。
(もう、嫌……!!)
「ロナルド様、ヴィオレッタ様がまた夢に出てきて……わたしもエーリヒも、殺されるかもしれません!」
「何を馬鹿なことを言っているんだ……ただの夢だろう。ヴィオレッタはもう死んだんだ。何も出来やしないさ」
「怖いんです……ロナルド様ぁ」
涙を浮かべて縋り付くリリアーヌに、ロナルドはため息を零すだけだった。
「リリアーヌ……私は毎日働いているんだぞ。ゆっくり寝かせてくれよ」
ロナルドは「このままだと仕事に支障が出る」と言い始め、それまで寝室を共にしていた二人は、分かれて眠るようになった。
毎夜のように続く悪夢にリリアーヌは睡眠不足になり、やつれていった。そして、彼女は情緒不安定になり、度々癇癪を起こすようになっていった。
「わたしはヴァルデン侯爵夫人なのよ! こんな流行遅れのドレスが着られるわけないでしょう?!」
「わたしが私生児だからと、馬鹿にしているのね?!」とリリアーヌが乱暴に放り投げたドレスを、メイドは慌てて拾った。それは、ロナルドがリリアーヌに買い与えて間もない最高級のシルクのドレスだった。
「リリアーヌ様、お許しください!」
「リリアーヌ、そんなに怒る必要はないだろう。そのドレスは買ってやったばかりじゃないか」
「モスリンのドレスが流行り始めましたの。こんなドレス、もう古臭くて着られませんわ!」
リリアーヌの言葉に、ロナルドは眉を寄せた。
「ロナルド様、どうしてメイドなんかを庇うんですか? ……まさか、このメイドとロナルド様は――」
「馬鹿なことを言うんじゃない。私がメイドと何かあるわけがないだろう」
ロナルドの呆れ果てたような眼差しに、リリアーヌは若いメイドをキッと睨み付けた。
「この邸を追い出されたくなかったら、モスリンのドレスを持ってきなさい! 今すぐに!!」とリリアーヌはメイドに喚き散らした。
(リリアーヌは、いつからこうなってしまったんだ? 前は、あんなにも可愛かったのに……)
些細なことで怒鳴り散らすリリアーヌに、メイドたちは皆萎縮した。
ロナルドはもう、そんなリリアーヌのことを『可愛い』とは思えなくなっていった。
そうして、ヴィオレッタが消えてから、三年の月日が経った――
初雪が降ったばかりのヴァルデン侯爵邸には、招かれざる客の姿があった。
「もう、わたしには近付かないでって言ったでしょう?」
「リリー、つれないこと言うなよ。俺とお前の仲だろう? また用立ててくれよ。少しで良いからさ」
「……いい加減にして」
リリアーヌは、肩を抱こうとした男から逃れるように距離を取った。
少し残念そうに笑った男を、彼女は大きな瞳で睨み付けた。
「この間渡したでしょう? あれで最後だって言ったはずよ」
「ここには二度と来ないで」と低く告げたリリアーヌに、「おっかねぇな」と男は薄く笑った。
(リリアーヌ? 誰と話しているんだ……?)
リリアーヌもこの男も、扉の外でロナルドに聞かれていることなど知らなかった。
「あの子は……俺の子だろう?」
(今、何と言ったんだ……?)
「なぁ、リリー……侯爵様に知られても良いのか? お坊ちゃんが自分の子じゃないって――」
「変なこと言わないで!! あの子はね、このヴァルデン侯爵家の跡継ぎなのよ!」
「早くこの邸から出て行って! これをあげるから、二度と近付かないで!」とリリアーヌは身に付けていた大きな宝石の付いた指輪を男に押し付けた。
その瞬間、扉の外にいたロナルドが勢い良く扉を開けた。
「その男は誰だ?!」
「ロナルド様……!」
「リリアーヌ……どういうことだ?」
現れたロナルドに、リリアーヌは真っ青な顔で震え出し、彼女の傍らにいた男は慌てて窓から飛び出して行った。
「今の男とは、どういう関係だ」
「ロナルド様、違うのです!」
リリアーヌの叫びは、ロナルドの耳には届かなかった。
(エーリヒが、あの男の子供だと……?)
言われてみれば、三歳になった息子のエーリヒはロナルドに全く似ていなかった。
金髪の両親から生まれたというのに、エーリヒは黒髪だった。瞳の色も、緑がかった榛色の瞳を持つロナルドとは違って赤みがかった茶色だ。
以前、「この子は、わたしの祖父母に似ているのですわ」と笑ったリリアーヌを、当時のロナルドは疑わなかった。
エーリヒは、彼にとって何にも代え難いヴァルデン侯爵家の跡継ぎであり、愛息子だった。
だが――
「母しゃま〜」
「エーリヒ!」
部屋に現れた息子の姿に、リリアーヌが叫んだ。
「あっ! 父しゃまだ〜」と嬉しそうに足に抱きついてきたエーリヒを、ロナルドは冷めた眼差しで避けた。
床に転がって泣き出したエーリヒを守るように、リリアーヌは抱き締める。
「リリアーヌ、私を騙していたのか……?」
「この子は……エーリヒは、ロナルド様の子ですわ!」
「……神に誓えるか」
低く放たれた言葉に、リリアーヌは口を閉ざした。
神殿で鑑定を行えば、子どもの血統が露わになる。答えないということは、やましいことがあるのだろう――そう、ロナルドは判断した。
「ロナルド様、わたしにはずっとロナルド様だけですわ! 信じてください!」
「……エーリヒと共にここを出て行くか、神殿で鑑定を受けるか選べ」
「そんな……あんなにも、エーリヒを可愛がってくださっていたではありませんか!」
ロナルドに憎らしげに睨み付けられ、リリアーヌは震える唇を噛み締めた。
どちらの選択肢を選んでも、邸を追い出されることは決まっている。
「ロナルド様……」
甘えた声で縋るように名を呼ばれたロナルドは、眉を顰めた。彼が何より愛おしいと思っていたはずのリリアーヌは、もうどこにも存在しないように思えた。
ただ、目の前の女がひどく汚らわしいように感じたのだ。自分を謀り、どこの馬の骨とも知れぬ男と通じていたと知ったからだろうか。
そのとき、ロナルドの脳裏に微笑んだヴィオレッタの姿が浮かんだ。
記憶から消し去ったはずの――何より憎らしかったはずの、忌まわしい亡き妻の姿だった。
(ヴィオレッタ……)
――『奥様は、侯爵様をそれは大切に想われていました。たとえ愛人の子だとしても、侯爵様の血を継いだ子を手に掛けようとするなど、なさるはずがありません!』
涙を滲ませてそう言ったメイド長を、ロナルドは邸から叩き出した。「メイドの分際で、リリアーヌを愛人呼ばわりするな!」と激昂して。
「ヴィオレッタは……あの時、お前は――本当に彼女から突き落とされたのか?」
微かに震える声でそう問うたロナルドに、俯いていたリリアーヌは肩を震わせた。
「……リリアーヌ?」
「……あんな、馬鹿みたいに人の良い女が、わたしを突き落としたと本当に信じていたの?」
歪んだ笑みを浮かべた彼女に、ロナルドは言葉を失った。
「大嫌いだったのよ。……生まれながらのお嬢様で、わたしにまで善人面するあの女が……」
「っ……!」
見たこともない暗い瞳でロナルドを見つめたリリアーヌ。
「夫の子を身籠った愛人に、心からの施しをする妻がいる? ……あの女よ」
「毎夜毎夜、夢にまで出てきて……本当に憎らしいわ……」と低く呟いたリリアーヌは、エーリヒを抱いてゆらりと立ち上がった。
「リリアーヌ、貴様……!!」
「……言っておくけど、わたしは『あの女がやった』とは、ひと言も言っていないわ。……勝手に誤解して、あの女を疑って――あの日、見殺しにしたのは、あなたでしょう?」
目を見開いたロナルドは、息を詰まらせたように口籠った。
確かにリリアーヌは、泉でも川でも、『ヴィオレッタから突き落とされた』とはひと言も口にしていなかった。
「わたしじゃないわ……わたしは、あの女も、子供も、殺していない……」
そうブツブツと呟くように繰り返したリリアーヌは、エーリヒを抱き上げると、何も持たずに邸を出て行った。
(子供……? リリアーヌは、狂ってしまったのか……)
ロナルドは追うこともせず、ただ呆然と立ち尽くした。
そのとき、ロナルドの瞳に壁に飾った家族の肖像画が映し出された。そこには、可憐に微笑むリリアーヌとまだ小さな赤子だったエーリヒ、そして二人を守るように寄り添う彼の姿があった。
(私は何も知らず……他の男の子供を可愛がっていたのか……)
ロナルドは肖像画を憎らしげに睨み付けると、壁から乱暴に剥ぎ取った。
「クソっ! こんなもの……!!」
ロナルドは、肖像画を力任せに床へと叩き付けた。
ひび割れた額の中では、三年前の彼が幸せそうに笑っていた――
【あとがき裏話】
三年前、リリアーヌを侯爵夫人に迎えたばかりのヴァルデン侯爵邸――
騎士たち(ヴィオレッタ奥様、お可哀想に……)
ベネデット「俺はもう無理だ。こんな侯爵家の騎士は辞めて、辺境で警備隊に入る」
騎士A「俺も辞めて、僧侶を目指す」
騎士B「じゃあ、自分は鍛冶師に!」
騎士C「それなら、私はパン職人だ!!」
ひと月後――
ロナルド「おい……なんだか、騎士の数が減っていないか?」
老執事「はい。半数近くが退職致しました」
ロナルド「何故だ?!」
老執事(……私も辞めたい)




