30話 絶望
――『……あんな、馬鹿みたいに人の良い女が、わたしを突き落としたと本当に信じていたの?』
リリアーヌの残した言葉が、ロナルドの耳の奥で響いた。
(ヴィオレッタは――彼女は……)
ロナルドが悪妻だと信じていたヴィオレッタは、リリアーヌに何もしてはいなかった。
ヴィオレッタの言葉が――使用人たちの言った言葉こそが、正しかったのだ。
ロナルドはヴィオレッタの部屋の前まで来ると、力なく扉を開けた。
窓を覆う厚手のカーテン。
どこか黴臭い空気に、彼は軽く咳き込んだ。
三年前から時を止めた彼女の部屋は、埃を被っていた。
(誰も、掃除をしていないのか……)
ヴィオレッタのいた頃のメイドはすべて入れ替えられ、彼女を知るメイドはいなくなっていた。
メイドたちは皆、ヴィオレッタは“リリアーヌをいじめ殺そうとした悪妻”だと信じていた。
「これは、私たちの……」
ロナルドの榛色の瞳に、ヴィオレッタと結婚したときに描かれた肖像画が映し出された。落ちて破損したのか、金の額は一部欠け、壁に立て掛けられている。
描かれているのは、表情のないロナルドと美しい花嫁姿で幸せそうに微笑むヴィオレッタだった。
それを見たとき、ひどく胸を締め付けられた彼はゆっくりと膝をついた。
傍らには、白いチェストが置かれていた。
ロナルドは、吸い寄せられるように引き出しの取っ手へと手を伸ばした。
(これは何だ……?)
引き出しの中には、薄茶色の小さな包みが入っていた。覗くと、中にはまだ茶葉が残っていた。
(異国製だな……ヴィオレッタが、飲んでいたお茶か……)
ロナルドは、その包みをそっと懐に入れた。
「ヴィオレッタを、探してやらないと……」
そう呟いたロナルドは、侯爵家の馬車で南東部にある別荘地へと向かった。
――そうして、ロナルドが別荘に着く頃には、すっかり日が暮れていた。
「侯爵様、どうなさったのですか?」
「ヴィオレッタが使っていた部屋が見たい」
「えっ? あの部屋は……」
戸惑いと焦燥が入り混じったような表情を浮かべたメイドたちを置いて、ロナルドは三年前にヴィオレッタが使っていた部屋へと入った。
(ヴィオレッタ……)
この部屋も、ろくに掃除がされていない様子だった。
ヴィオレッタを「悪妻」や「泥棒」だと罵ったメイドたちは、彼女が川で行方不明になってから、『ヴィオレッタ奥様に呪われる』と恐れてこの部屋には近寄らなかったのだ。
「ヴィオレッタ……何故、言ってくれなかった」
ロナルドは寝台に腰を下ろすと、ぽつりと呟いた。
そのとき、サイドチェストの引き出しから何かがはみ出しているのが目に入った。
それは、榛色のリボンだった。
「何だ……?」
引き出しの中には、一冊の美しい日記帳。そして、榛色のリボンで束ねられた紙の切れ端が入っていた。
訝しげな顔で紙の切れ端に目をやった彼は、手にした日記帳をそっと開いた。
『ロナルド様の妻になれるだなんて、わたくしは何て幸せなのでしょう』
婚約して間もない頃に始まったヴィオレッタの日記には、彼女の想いや、その日に起きたことなどが綺麗な字で綴られていた。
榛色の瞳を揺らしたロナルドは、震える指で日記帳を捲った。
『今日はロナルド様から白百合の花束をいただいた。わたくしは世界一幸せだわ! あの方との結婚式の日が待ち遠しい』
(ヴィオレッタ……)
言いようのない罪悪感で、ロナルドは押し潰されそうだった。愚かな彼は、この日、初めてそれに向き合うことになったのだ。
そしてヴィオレッタは、「跡継ぎを早く作るように」とロナルドの母親から急かされていた。
当時の彼はそれを薄々感じながらも、妻であったヴィオレッタを気に掛けることすらしなかった。
『お忙しくても、ロナルド様はわたくしを気遣ってくださる。お優しいあの方のためにも、早くわたくしたちの子どもが欲しいわ……』
(……ブレンドティー?)
そのページには、ロナルドがヴィオレッタのために“子宝に恵まれるお茶”を贈るようになったことが書かれていた。
けれど、彼には一切身に覚えがなかった。
「どういうことだ……」
ふと、先ほど目にした紙の切れ端を思い出す。
(これは、私の瞳の色によく似ているな……)
ロナルドが榛色のリボンを解くと、紙の切れ端がひらひらと絨毯の上に散らばった。
――『私たちの可愛い子ができるように』
――『愛しいお前のことを、いつも想っている』
――『私が愛しているのはお前だけだ』
それは、間違いなくロナルドの字だった。
(リリアーヌ……!!)
ロナルドは、紙の切れ端をぐしゃりと握り潰した。それらは、彼がかつてリリアーヌに送った恋文の切れ端だった。
(リリアーヌ、何故こんな真似を……)
「そうだ……」
ロナルドは思い出したかのように、懐に入れていた薄茶色の包みを取り出した。
(ブレンドティーとは……まさか、これのことか? 何故、リリアーヌはこんなものをヴィオレッタに……)
ロナルドは、その包みをじっと見つめ――目を見開いた。
『妊娠の妨げになる』――注意書きには、異国の言葉でそう書かれていたのだ。
(ヴィオレッタは、このお茶のせいで子が出来なかったのか……)
以前、まだ妊娠する前のリリアーヌが「もし、奥様に子供ができたらどうするの?」と不安げに言っていたことをロナルドは思い出した。
ロナルドは「彼女とは政略結婚だ。ヴィオレッタに子ができても、お前への想いは変わることはない」と笑って抱き寄せたが、リリアーヌはそれを良しとしなかったらしい。
(まさか――リリアーヌが、そんなことをしていたなんて……)
ロナルドは、「子供も産めないお前のために、彼女がヴァルデン家の跡継ぎを産むんだ! 正妻だからと偉そうに振る舞うな!」とヴィオレッタをひどく罵ったことを思い出した。
(仕方ない……私は、知らなかったんだ……)
そう胸の内で繰り返しながらも、ページを捲る度に、ロナルドの顔は一層翳りを帯びていった。
そうして、新たにページを捲った彼の瞳は大きく見開かれた。
――『やっとわたくしのお腹にも赤ちゃんが来てくれた! 花の咲く季節に産まれる、わたくしたちの可愛い子。大切に、大切に育てたい……でも、ロナルド様は喜んでくださるかしら……』
(嘘だ……まさか、そんな――)
ロナルドの震える手から、バサリと音を立てて日記帳が落ちた。
いつのことだったか――彼は「大切なお話があるのです」とヴィオレッタから言われていたことを思い出した。
「ヴィオレッタ……」
――『丁度良かった……お伝えしたい、大切なことがあるのです』
あの日、この部屋でそう言って笑った彼女の姿が浮かんだ。
あの後、自分は彼女に何と言った――?
『ヴィオレッタ……お前を妻に迎えたのは、私の人生で一番の間違いだったよ』
見開かれた菫色の瞳。
あのとき、彼女は唇を震わせて彼を見上げた。
『泣き真似でもするつもりか? 必要ないぞ。私はもう騙されない』
あの時の彼は、彼女の涙を滑稽だとすら思っていた。
『部屋で水でも飲んでいれば良い。しばらく私に顔を見せるな』
自分は、なんと酷いことを言ってしまったのか――
何故、彼女の話を聞かなかったのか――
遅すぎる後悔が、ロナルドの胸を何度も深く突き刺した。
日記帳のページを、彼の涙が濡らしていく。
「あのとき……ヴィオレッタは、私に……言おうとしていたのに……」
ロナルドは、日記帳を見つめたままボロボロと涙を零した。
そうして、新たに捲ったページを、思わず彼は握り締めた。
『涙が止まらない。ロナルド様には、お腹の赤ちゃんのことをまた伝えられなかった。そして、厨房のメイドたちが、わたくしのことを『泥棒』だと言った。わたくしは盗んだりしていない。すべては、お義母様の誤解だったのに……。別荘でも、食事はもらえない。わたくしは、この子を守れるのかしら……』
「ヴィオレッタ……!! すまない、ヴィオレッタ、すまなかった……私は、知らなかったんだ……!」
ロナルドはまさか、侯爵夫人だったヴィオレッタがそこまでの扱いをされているとは考えてもみなかった。
『盗まれた』という、母親の宝石の話もそうだ。彼は、彼女に確認することすらしなかった。
ロナルドは泣きながら、亡き妻の名を何度も叫んだ。
――『ロナルド様……わたくしにも、ロナルド様の、赤ちゃんが……!』
ロナルドが最後にヴィオレッタを見たとき、川の中で彼女はそう叫んでいた。
あのときは、ロナルドはリリアーヌとお腹の子を守ることしか考えず、ヴィオレッタの言葉などろくに聞いていなかった。
――『ロナルド様……!』
遠く、冷たい濁流に飲まれながら必死に手を伸ばしていたヴィオレッタの姿が浮かんだ。彼女は、最後まで夫の名を叫んでいた。
そして、そのお腹には、ロナルドの子がいたのだ――
「私は……ヴィオレッタとお腹の――私たちの子を……うわあああっ!!」
ロナルドは、ヴィオレッタの日記帳を抱き締めて泣き叫んだ。
『ロナルド様の妻になれて、わたくしは幸せですわ』
二人の結婚式の日、ヴィオレッタは幸せそうに微笑んだ。
彼女は、どれほどロナルドから蔑ろにされても、穏やかに微笑んで夫を待ち、愛人にまで情けをかける健気で善良な妻だったというのに――
「ヴィオレッタには、私の子がいたんだ! ヴィオレッタのお腹には、私たちの子が……!!」
「私が二人を殺してしまった!!」と狂ったように泣き喚くロナルドに、集まった使用人たちはただ呆然としていた。
「旦那様は、どうなさったのかしら……」
その囁き声に、ロナルドは顔を向けた。
(あのメイドが……ヴィオレッタを……)
様子を窺うメイドたちの姿に、ロナルドはゆらりと立ち上がった。
「お前が……お前たちが、私のヴィオレッタと子供に食事を出さなかったのか? お前が私の妻を『泥棒』と罵ったのか?!」
「侯爵様、どうか落ち着いてください!」
執事や使用人の男たちが、半狂乱で暴れ始めたロナルドを押さえた。
「お前たちのせいで、私のヴィオレッタが……!! よくも私の子に……!!」
血眼で飛び掛かろうとするロナルドの姿に、『殺される』と恐れ慄いたメイドたちは邸を飛び出していった。
「本邸のメイドたちも許さない!! お前たちだって同罪だ! 皆出て行け!!」
感情のままに使用人たちに喚き散らしたロナルドは、肩で息をしながら彼らの背中を見送った。
「ヴィオレッタ……」
浮かんだのは、肖像画の中で美しく微笑むヴィオレッタの花嫁姿だった。
ロナルドは彼女の日記帳を抱いて、埃を被った寝台に静かに横たわった。閉じられた瞼からは、涙が止め処なく流れ続けた。
彼は一睡もできないまま、夜を明かした。
そうして翌朝、泣き腫らした顔のロナルドは川へと一人で向かった。
あの日と同じ冷たい風が、彼の金の髪を揺らした。
(ヴィオレッタ……君を失った私は、どうしたら良いんだ……)
川沿いの道を進むロナルドの向かいから、家族連れが歩いて来た。まだ若い両親と、足元のおぼつかない幼子だ。
その様子はまるで、二年前の――ロナルドが一番幸せだった頃を思い起こさせた。
偽りだった、あの幸せな日々を――
「あっ……」
転んだ幼子の姿に、ロナルドは思わず声を上げた。
大声で泣き出した幼子を、父親が優しく抱き上げる。
そうして、父親と母親があやすように笑いかけると、泣いていた幼子が声を立てて笑い出した。
温かな、家族の日常――
その光景に、ロナルドの胸にはまるで杭を打ち付けられ、切り裂かれるかのような痛みが走った。
(ヴィオレッタが生きていれば……私もあのように私の子を抱いて、一緒に歩いていたのか……)
ロナルドの目の前に、ヴィオレッタと二人の間に生まれた子供と、三人で並んで歩く光景が浮かび上がった。
ヴィオレッタは、柔らかに微笑んで彼と子供を見つめている。
その光景の中で、幸せそうな笑みを浮かべた彼は子供の小さな手を握って歩いていた。
「ヴィオレッタ……」
ロナルドは、思わず手を伸ばしていた――
だが、手を伸ばしたその瞬間――その幻は塵のように掻き消えた。
そこに在るのは、見知らぬ家族連れの幸せそうな笑顔だった。
「私が……ヴィオレッタと、私の子を殺したんだ……」
虚ろな瞳でそう呟いたロナルドの耳に、声が聞こえた。
――『ロナルド様、助けて……!』
川面に浮かんだヴィオレッタの幻影に、彼は叫んだ。
「ヴィオレッタ……今助けてやるからな!」
ロナルドはコートを着たまま走り出すと、冬の川へと飛び込んだ。
水飛沫と女性の悲鳴が上がる。
その瞬間、幼子の父親が駆け出して川へと飛び込んだ。
「侯爵様! 何をなさっておいでなのですか?!」
「……私を……知っているのか……?」
「……侯爵家で騎士としてお世話になっていた、ベネデット・ボガードです」
(ベネデット……?)
幼子の父親は、三年ほど前まで侯爵家に仕えていた若い騎士だった。
彼に川から助け出されたロナルドは、かつてヴィオレッタを手助けした騎士のことを、思い出しもしなかった。
「ヴィオレッタ奥様が亡くなられて、もう三年ですね……奥様を探すために、川へ入られたのですか?」
「……そうだ……ヴィオレッタを、探してやらないと……」
ずぶ濡れのロナルドは、思い出したかのようにそう呟くと、ふらりと立ち上がった。
そして、騎士たちに命じて、ヴィオレッタの亡骸の捜索を始めた。
ヴィオレッタが消えてから、三年の月日が流れていた――




