27話 重なる想い
夏を迎えたアルバラード辺境伯邸。
夫婦の部屋のバルコニーでは、愛らしい小鳥たちが囀っている。
清々しい朝の風が、レースのカーテンを静かに揺らしていた。
ヴィオラは、象牙色の壁に飾られた結婚式の肖像画を眺めていた。絵の中では、白い正礼装を纏ったレアンドロと花嫁姿のヴィオラが、それは幸せそうに微笑んでいる。
その下にある白いチェストには、新婚旅行で訪れた海辺で、レアンドロと一緒に拾った美しい貝殻が並んでいた。
「ヴィオラ、また見ていたんですか」
「ええ……とても――本当に夢のような、素敵な時間だったんですもの……」
そう言って幸せそうに笑ったヴィオラを、レアンドロはそっと抱き寄せ、髪に口づけを落とした。
レアンドロがヴィオラを喜ばせるために密かに計画した新婚旅行は、貸し切りの美しい船で大陸の南にある島を七日かけて巡る旅だった。
どこまでも続くエメラルドグリーンの大海原。
甲板で口にした、蜜のように甘い果実酒。
白い砂浜に二人で座って眺めた、海に沈む夕陽。
そして、海辺に建つ白い石造りの城で過ごした、とびきり甘い二人だけの時間――
(本当に、夢のようだったわ……)
レアンドロと過ごしたどの瞬間も、ヴィオラにとってかけがえのない宝物になっていた。
「ヴィオラに気に入ってもらえて、本当に嬉しいです……きっと、また連れていきます」
「ええ……いつか――今度は、子供と一緒に行きたいですわ」
ヴィオラが笑ってそう口にした瞬間、微笑みを浮かべていたレアンドロの表情が少しだけ強張った。
(レオ様……?)
「ああ……いえ、そうですね。いつか、子供も一緒に……」
僅かに翳った水色の瞳。少しだけ逸らされたレアンドロの視線に、ヴィオラの胸はざわめいた。
けれど、微笑む彼に、何も口には出来なかった。
◇
静かな執務室に、レアンドロの重いため息がひとつ落ちた。
(もし、子が出来て……愛するヴィオラの身に何かあったら……)
レアンドロは、不安でたまらなかった。
レアンドロの母のエレオノーラは、彼を産んで間もなく、若くして旅立ってしまった。
誰も、エレオノーラが亡くなった理由を彼に語らなかった。
けれど、彼はまだ幼い頃に偶然知ってしまったのだ。自分を産んだことがきっかけで、母が亡くなってしまったのだと――
「辺境伯閣下、どうされたんですか?」
心配そうなロレンツォの声に、レアンドロは少しだけ視線を上げた。
「……何がだ」
「今日の閣下は元気がありません」
「……そんなことはない」
まるで顔を隠すように少しだけ俯いて報告書を捲るレアンドロに、副官たちは静かに顔を見合わせた。
(まさか……ヴィオラ様と何かあったんじゃ……)
そうとしか考えられない――ロレンツォはそう思った。
レアンドロは、元々感情をあまり表に出さない男だった。副官たちに笑いかけることも滅多になく、その冬空のような鋭い眼差しから、社交界では『氷の貴公子』と密かに呼ばれていた。
まるで鉄仮面のようだったレアンドロの表情が和らぎ始めたのは、ヴィオラが現れてからだった。
ヴィオラはレアンドロと出会ったばかりの頃、ルークス王国における彼の地位も血筋のことも何も知らず、ただ彼自身を見つめ、穏やかに接した。――それが、レアンドロにはとても心地良く、彼女のことを好ましく思うきっかけになったのだった。
「はぁ……」
レアンドロはまた一つ、重いため息を吐いた。
ヴィオラを妻に迎えてから毎日上機嫌に執務に励んでいたレアンドロは、まるで別人のように暗い表情で報告書を捲っている。
困ったように、ほんの僅かに眉を寄せたロレンツォは息が詰まる思いだった。
(ヴィオラ様と一体何があったんだ……? でも、さすがに聞けないしなぁ……)
ロレンツォがそう思ったときだった――
「辺境伯閣下、ヴィオラ様と何かあったんですか?」
そうさらりと口にしたマルコに、ロレンツォとアドルフォの二人は固まった。
(マルコ……よく聞けたなお前……)
臆さずにレアンドロを見つめるマルコに、ロレンツォとアドルフォは恐る恐るレアンドロの様子を窺った。
少しの沈黙の後に、レアンドロは静かに口を開いた。
「……愛する人に――何かあったらと思うと、死ぬほど恐ろしいよな」
(死ぬほど……いったい何があったんだ?)
副官たちは、すぐには言葉を返せず黙り込んだ。
(愛する人、か……)
ロレンツォは、架空の愛しい彼女を想像してみた。仮に、その彼女が悪の組織に誘拐されたとして――
「……ものすごく恐ろしいですっ!」
「わかってくれるか!」
手を握らんばかりに見つめ合うレアンドロとロレンツォ。
マルコは、生暖かい目で彼らを見守っている。
その隣で、静かに立っていたアドルフォが小さく口を開いた。
「……その何かが起きないように、最善を尽くす……俺なら、そうします」
アドルフォのその言葉に、レアンドロはガタリと立ち上がった。
「最善を尽くす……良い言葉だ。……私に出来得る、最善を尽くそう」
「ありがとう、皆」と清々しい顔で笑ったレアンドロに、副官たちは安堵の表情を浮かべた。
「――というわけで、私は今から出てくる」
「「……えっ?」」
「遅くても、夕刻までには戻る。後は任せたぞ」
爽やかに微笑んでマントを翻したレアンドロに、副官たちは立ち尽くした。
◇
昼下がりになり、ヴィオラは庭園の東屋で涼んでいた。近くの噴水では、小鳥たちが水遊びをしている。
(レオ様は、子供が欲しくないのかしら……)
孤児院の子供たちに向けられるレアンドロの眼差しは、いつだって優しかった。
彼もきっと子供を望んでいるはずだ――ヴィオラは今朝まで、当たり前のようにそう思っていたのだ。
「はぁ……」
ヴィオラは小さなため息を零した。
あの南の島から帰るとき、いつか家族でまた訪れることが出来たら――そう願ってしまったのだ。
ヴィオラは、愛しいレアンドロと、まだ見ぬ子供たちと一緒に砂浜を歩き、貝殻を探す光景まで思い浮かべてしまった。
(でも――レオ様が、そうお望みなら、仕方ないわ……わたくしたち二人でも、十分幸せですもの……)
浮かんだ光景を振り払うかのように、ヴィオラは瞳を閉じた。
「ヴィオラ、ここにいたんですね」
「レオ様……どうなさったのですか」
突然に現れたレアンドロの姿に、ヴィオラは立ち上がった。
この時間に彼が顔を出すのは珍しいことだった。
「ヴィオラ……今朝は――貴女を不安にさせてしまって、許してください」
「そんな……レオ様が謝られることは、何もありませんわ」
レアンドロはヴィオラの頬にそっと触れると、その腕で彼女を包みこんだ。
「ヴィオラ……いつか、私たちの子供を、あの南の島に連れて行きたい――私も、そう思っています」
「レオ様……」
菫色の瞳を見開いたヴィオラに、レアンドロは柔らかく微笑んだ。
「愛しいヴィオラ……いつか、私と貴女の子が出来たら、そのときは……私たちの手で、大切に育てましょう」
ゆっくりと、一つずつ紡がれた言葉に、ヴィオラの瞳にはじわりと涙が滲んだ。
「……子を産むことは、女性の体にとても負担がかかると聞きます……授かりものですから、ゆっくり行きましょう」
そう言って優しく微笑んだレアンドロを、ヴィオラは潤んだ菫色の瞳で見上げた。
「レオ様……わたくしはすぐに、レオ様の子が欲しいのですわ」
レアンドロは、小さく息を呑んだ。
愛する妻に見つめられ、彼は耳まで赤く染めたのだった――
【あとがき裏話】
ロレンツォ「俺も愛する彼女が欲しいなぁ……マルコは、そういうの興味なさそうだよな」
マルコ「生憎ですが、私はもういますので」
ロレンツォ「嘘だろ……オカッパ頭のくせに……」
マルコ「髪型は関係ないでしょう!?」
ロレンツォ(アドルフォは絶対いないよな。喋らないし)
アドルフォ「…………俺も、いる」
ロレンツォ(えっ? ……彼女いないの、俺だけ?)




