26話 王宮の夜会
初夏の晩。
ヴェルス王国の王宮は綺羅びやかな灯りで満たされていた。
開かれているのは、ヴェルス王国の建国を祝う夜会だった。
「今宵は、ルークス王国から辺境伯閣下がいらっしゃるそうね」
「聞いておりますわ。春に、とても立派な式を挙げられたとか……」
「それでしたら、辺境伯夫人もご一緒なのかしら」
令嬢や貴婦人たちの囁き声に、リリアーヌは淡い微笑みを浮かべた。
(辺境伯? 辺境だなんて、どうせ粗野な田舎貴族でしょう? その夫人だって、たかが知れているわ……侯爵夫人のわたしの方が上よ)
小さく、誰にも気付かれぬように鼻で笑ったリリアーヌは、この夜会のために誂えた薔薇色のドレスの裾をそっと直した。華奢な鎖骨の下には、ドレスに合わせて揃えた宝石が輝いている。
「リリアーヌ、挨拶の作法は覚えているな」
ロナルドに耳打ちされ、リリアーヌの眉がぴくりと動いた。
「ええ……勿論覚えていますわ」
「今日は他国からの来賓も多い。失礼のないように頼むぞ」
(うるさい男ね……折角の良い気分が台無しだわ)
リリアーヌは胸の中でそう毒づくと、ロナルドからぷいと顔を背け、胸元の大きな宝石にそっと触れた。
一方その頃――
大広間の外の扉の前には、レアンドロとヴィオラの姿があった。
「――続いて、エルディア王国の第三王子ローラン殿下とご婚約者のケリー公爵令嬢、お進みくださいませ」
案内されて大広間へと入場していく他国の王族の背中に、ヴィオラの手は微かに震えた。
「ヴィオラ……本当に大丈夫ですか?」
「……ええ」
レアンドロとヴィオラは、入場の順番を待っているところだった。
ヴェルス王国とルークス王国との間には、古くから友好条約が結ばれており、平和的な関係が築かれている。
故に、王家の血を引き、ヴェルス王国に隣接している辺境を治めるレアンドロは、来賓として度々ヴェルスを訪れていた。
ひと月前に、ヴェルス王家からルークス王家に建国記念日の夜会の招待状が届き、レアンドロが出席することになったのだった。
(――大丈夫。ヴィオレッタはもう死んでいるんですもの……誰もわたくしだとは思わないはずよ)
ヴィオラはそう胸の内で言い聞かせて、微かに震える手を握り締めた。
怖くないわけではない。けれど、レアンドロの隣に堂々と立って生きるのだと、あの結婚式の日に誓ったのだ。
そして、この夜会に同席するかを悩んだとき、ヴィオラはまるで過去から逃げ続けているような気持ちになった。彼女はもう、過去への恐怖から逃げたくはなかった。
何より、愛するレアンドロと離れたくはなかったのだ――
「ご案内致します。アルバラード辺境伯閣下と夫人はお進みください」
ヴィオラは、レアンドロに合わせて一礼すると、ゆっくりと足を進めた。
「――ルークス王国より、アルバラード辺境伯閣下とヴィオラ夫人」
響いた侍従官の声に、ヴィオラは背筋を伸ばし顎を引いた。
(大丈夫。わたくしは、ヴィオラ・デ・アルバラード。レオ様の妻なんですもの……)
レアンドロのエスコートに合わせて、ヴィオラはゆっくりと歩き始めた。
「あれが、アルバラード辺境伯閣下なの? とても素敵な御方じゃない」
「前にお見かけしたときは、もっと怖い――近寄り難いご様子でしたのよ」
「それにしても……お美しいご夫人ね」
開かれた大扉から入場したレアンドロとヴィオラは、会場中の視線を集めた。
ヴィオラの美しい黒髪は結い上げられ、飾られた白金のティアラには水色の宝石が輝いている。
無駄な装飾のない淡い水色の絹のドレスは、シャンデリアの灯りを弾いて美しく煌めいていた。
アルバラード辺境伯夫人と、二年前に亡くなったヴィオレッタを重ねる者は誰もいなかった。
(何よ、ティアラなんか付けて……それにしても……誰かに似てるわね……)
ヴィオラの姿に、リリアーヌは遠くを見るように目を細めた。
「リリアーヌ、どうかしたのか?」
「いえ……王族でもないのに、ティアラを付けている方がそこに……」
リリアーヌの言葉に、ロナルドは顔を向けた。
そこには、レアンドロとヴィオラの後ろ姿があった。
「王宮の夜会でティアラを付けているなら、王族の方に間違いない。不敬になるから黙っていてくれ」
「そんな……だって、さっき辺境伯夫人だと……!」
そのとき、貴婦人たちの小さな笑い声が落ちた。
リリアーヌは眉を僅かに寄せて、笑い声の方に顔を向けた。
「ヴァルデン侯爵夫人はご存じないようですから、教えて差し上げますわ……アルバラード辺境伯夫人は、ルークス王国の大公家の姫君。辺境伯閣下も王家の血を引く御方。それに、辺境伯は侯爵家より格が上でしてよ」
「ヴァルデン侯爵。不慣れな奥様に、貴族社会のことをきちんと教えて差し上げた方が宜しいかと……」
「っ……」
扇を仰ぎながら目を細めた貴婦人たちに、真っ赤になったリリアーヌもロナルドも返す言葉がなかった。
「わ、わたしは……知らなくて……」
「リリアーヌ、頼むから静かにしていてくれ」
ロナルドは、そう囁いてリリアーヌに鋭い眼差しを向けた。
僅かに目を見開いたリリアーヌは、ぎゅっと拳を握った。
(何よ! そんなの知るわけないでしょ! 馬鹿にして……)
そのとき、静かな衣擦れの音と聞き覚えのある声が、リリアーヌの耳元に落ちた。
『……あなたの子は、生きているの?』
「っ……?!」
「リリアーヌ、どうした?」
振り返ったリリアーヌの目に映ったのは、談笑する見知らぬ男女だった。
血の気をなくした顔で、彼女は辺りを見回す。
(ヴィオレッタ……? まさか……あの女は、川で死んだのよ……)
「リリアーヌ、一体どうしたんだ?」
「少し、気分が悪くなってしまって……早く帰りたいですわ」
「……でも、来たばかりなんだぞ。挨拶もまだ終わってない……困ったな」
――『……あなたの子は、生きているの?』
幻聴に決まっている。――けれど、ヴィオレッタの低い囁き声が、リリアーヌの耳の奥にこびり付いたように離れなかった。
「ロナルド様……具合が悪くて、ここにはいたくないんです」
「リリアーヌ、聞き分けてくれ。挨拶が終わるまでは帰れない」
青い顔のリリアーヌは、ロナルドの傍らで俯いた。その細い肩は小刻みに震えていた。
◇
「ヴィオラ、どうしたんですか?」
「何でもありませんわ……少し、緊張してしまって……」
「早めに帰りましょうか」
「ありがとうございます。……でも、平気ですわ」
(リリアーヌ……)
ヴィオラは、リリアーヌの後ろ姿をじっと見つめた。
もう、ヴィオラはすべてを捨てたつもりだった。
けれど、あの日に川で失った我が子を、忘れることなど出来はしなかったのだ――
(あなたたちのせいで……)
レアンドロの傍で過ごすようになり、穏やかな海のように凪いでいたはずのヴィオラの心。
だが、リリアーヌとロナルドの姿を見かけた瞬間、胸の奥底で眠るように沈んでいた怒りが一瞬で沸き上がったのだ。
「ヴィオラ……」
そっと、彼女の震える手を包んだのは、温かく大きな手だった。
「レオ様……」
「ヴィオラ、疲れたでしょう。少し休憩しましょう」
「ええ……そうしますわ」
(許すことなど、出来ないわ――でも、もう全てを忘れましょう……わたくしは、ヴィオラですもの……)
レアンドロにそっと抱き寄せられたヴィオラは、彼を見上げ笑みを浮かべた。それは、とても美しい微笑みだった。
「ヴィオレッタ……?」
その瞬間、ロナルドはそう口にしていた。
一瞬だけ見えた、ティアラを付けた貴婦人の顔――その微笑みに、どこか見覚えがあった。
(まさか……人違いだ――)
その黒髪の貴婦人は、傍らの金の髪の男の腕に抱かれて背を向けた。
(ヴィオレッタは死んだんだ……それに、あんなに美しくはなかった――)
――美しくない。
はたして、本当にそうだっただろうか。
ロナルドは思い出した。
婚約したばかりの頃、彼女はとても美しかった。
微笑んだ姿は、まるで白百合のようだった。
一体、いつから彼女を『美しい』と思わなくなったのだろうか――
「……っ!」
ぼんやりとヴィオラの後ろ姿を見つめていたロナルドは、レアンドロに見られていることに気付いた。
レアンドロはヴィオラを抱き寄せると、まるで『自分のものだ』と見せ付けるかのようにその髪に口付けた。
「まあ……アルバラード辺境伯閣下よ! 大層な愛妻家という噂は本当でしたのね」
「素敵ですわね。お二方とも王族の血筋だけあって、気品や佇まいが別格ですわ」
(辺境伯だと……?)
再びロナルドが視線を向けると、レアンドロは去り際に鋭い眼差しで彼を一瞥した。
(なんだ、あの男は……王族だからと偉そうに……)
自分はただ、亡き妻を思い出していただけなのに――ロナルドはそう思い、とても不愉快な気持ちになった。
「リリアーヌ、帰ろう。私も気分が悪い」
不機嫌なロナルドと、青褪めた顔のリリアーヌは、早々に王宮を後にした。
◇
王宮のバルコニーには、ほんの少しだけ湿った夜風が吹いていた。
広がる庭園には、柔らかな月明かりが降り注いでいる。
「ヴィオラ、大丈夫ですか……」
レアンドロは、ヴィオラをこの夜会に連れてくるべきではなかったと後悔していた。彼女の様子がいつもと違うのは、明らかだったからだ。
「レオ様……連れてきてくださって、ありがとうございます」
そう、淡く微笑んだヴィオラを、レアンドロはそっと抱き締めた。
「レオ様……?」
「少し、不安になったのです……ヴィオラが、どこか遠くへ行ってしまうようで……」
レアンドロの掠れた声に、ヴィオラは彼の頬をそっと包むように触れた。
「わたくしは、どこへも行きませんわ……ここへだって、レオ様と離れたくなくて、ついてきたんですもの……」
恥じらうような――少し囁くようなヴィオラの声音に、レアンドロはそっと額を合わせた。
少し伏せられた水色の瞳は、熱を帯びている。
「ヴィオラ……あまり、可愛いことを言われると困ります……」
「……どう、お困りになるのです?」
ヴィオラの眼差しも声音も、どこまでも無垢だった。
彼女の愛らしく罪な問い掛けに、レアンドロは瞳を閉じてしまった。
「……レオ様?」
「今は、我慢します」
小さく呟かれたレアンドロの声は、ヴィオラには聞こえなかった。




