25話 つかの間の……
侯爵夫人ヴィオレッタが消えてから、一年半が過ぎた。
その頃、ヴェルス王国のヴァルデン侯爵邸では、ロナルドがため息をこぼしていた。
「リリアーヌ、またドレスを買ったのか? 宝石だって、この間揃えてやったばかりじゃないか」
「ロナルド様……わたしが『所詮は妾上がり』だと言われても良いのですか……?」
「何だと……誰にそんなことを言われたんだ?!」
途端に目を吊り上げたロナルドを、リリアーヌは潤んだ瞳でちらりと見た。
「わたしは良いのです……でも、エーリヒが……可哀想で……」
胸元で小さく拳を握り、俯きがちにそう言ったリリアーヌに、ロナルドは榛色の瞳を揺らした。
「ドレスも宝石も、必要なだけ買うと良い。お前はエーリヒの母親で、ヴァルデン侯爵夫人なんだからな」
「ロナルド様……ありがとうございます」
「良いんだ……お前は私の愛する妻だ。大切にすると約束しただろう」
ロナルドはリリアーヌをそっと抱き寄せると、愛おしげに彼女の淡い金の髪を撫でた。
(この男……本当に扱いやすいったらないわ)
ロナルドの胸元に顔を埋めて、リリアーヌはほくそ笑んだ。
二人の傍らの壁には、大きな絵が飾ってある。まだ生まれて間もない頃のエーリヒと、二人が描かれた家族の肖像画だった。
ヴィオレッタの葬儀が済んで間もなく、“嫡男”を産んだリリアーヌを侯爵夫人とするため、ヴァルデン侯爵家は動いた。
アレクシアの実家の侯爵家に無理を言ってリリアーヌを養女として受け入れてもらい、ロナルドの新たな夫人として迎え入れたのだ。
前妻が亡くなったばかりで――という意見を持つ者もいたが、『前妻のヴィオレッタは嫉妬に狂って愛人とお腹の子を手に掛けようとした』という噂がまことしやかに囁かれていたため、表立って侯爵家やリリアーヌを批判したり、侮辱するような者はいなかった。
「ロナルド様……今度、王宮で大きな夜会が開かれるのでしょう? 先週行ったサロンで話題になっていましたの。他国からも、王族の方がお見えになるとか……」
「わたし、楽しみにしているんです。そのために、新しいドレスや宝石が必要で……ロナルド様やエーリヒに恥ずかしい思いをさせたくないんですもの」とリリアーヌは瞼を伏せて淡い微笑みを浮かべた。
ヴェルス王国の王宮で開かれる夜会で、彼女は誰よりも目立つつもりでいたのだ。
『この間買ったばかりのドレスや宝石では駄目なのか』――そう言おうとしたが、ロナルドは口を噤んだ。
彼にとって、リリアーヌは不憫な生まれの心優しい娘のままだった。
(そういえば……ヴィオレッタは、新しいドレスも宝石も一度も欲しがったことはなかったな……)
ロナルドは、かつての妻を思い出した。
記憶の中の彼女は、いつも質素なグリーンのドレスを纏っていた。
(可憐で愛らしいリリアーヌに比べて、地味でつまらない女だったよな……)
ヴィオレッタとロナルドが結婚する少し前から、ロナルドは一人で社交の場に立つようになった。
リリアーヌが、ロナルドがヴィオレッタと並んで社交界に出ることを泣いて嫌がったからだ。
それは、ヴィオレッタが侯爵夫人になってからも変わらなかった。
周りから『夫人の同伴』について問われたロナルドは、「妻は体調を崩している」、「妻の遠縁に不幸があって……」などと適当な理由で凌いだ。
初めの頃は「連れて行ってほしい」と口にしていたヴィオレッタだったが、ロナルドは「必要ない」と取り合わなかった。
そして、次第にヴィオレッタは望まなくなっていった。
――『ロナルド様、お帰りなさいませ』
ロナルドが帰ると、いつもヴィオレッタは穏やかに微笑んで彼を迎えた。夫が愛人の邸に入り浸っていることも知らず、ほとんど邸に帰らない夫に不満を零すこともしなかった。
彼女はいつも『仕事で疲れているだろうから』とロナルドのことをいつも労ったのだ。
ヴィオレッタは何も望まなかった。ただ、彼が邸に戻るだけで、それは嬉しそうに微笑んだ。
「――ロナルド様……どうしたんですか?」
「……いや、何でもない。気にしないでくれ」
(これで、良かったんだ……)
ヴィオレッタは、リリアーヌとお腹の子を二度も手に掛けようとした。それに、いかにも貞淑な顔をしながら、リリアーヌの心遣いを打ち捨て、母の宝石を盗むような悪妻だった。
もしまだ彼女が生きていたなら、愛しいリリアーヌやエーリヒはこの世にいなかったかもしれないのだ。宝石の件だって、侯爵家の醜聞になっていたかもしれない。
私の選択は、決して間違いなんかじゃなかった。正しかったはずだ。――ロナルドは、胸の内でそう繰り返した。
「とーしゃ……!」
そのとき、愛らしい声が響いた。
部屋に入ってきたのは、メイドに抱かれたエーリヒだった。
言葉が出始めたエーリヒを、ロナルドは誰よりも溺愛していた。
「おお、可愛いエーリヒ! 父様だぞ。抱っこしてやろう」
小さな両腕を伸ばすエーリヒの姿に、強張っていたロナルドの表情は一瞬で緩んだ。
ロナルドはエーリヒを抱くと、その柔らかな頬に愛おしげに口付ける。
「エーリヒは本当に可愛いな。将来が楽しみだ」
「きっと、ロナルド様そっくりになりますわ」
「とーしゃ!」
「そうだ。お前の父様だぞ」
ロナルドの腕の中で、エーリヒが彼をじっと見つめた。茶色の、丸いつぶらな瞳で――
「……エーリヒは……髪の色が、少し濃くはないか?」
少しだけ顔を曇らせたロナルドは、エーリヒの頭をそっと撫でた。まだ地肌の透ける薄い頭髪は、金ではなく褐色に見える。
「前にも言ったでしょう? エーリヒはわたしの祖父母に似ているのですわ」
「でも、お顔はロナルド様に似ているでしょう?」と微笑んだリリアーヌに、ロナルドは嬉しそうに目を細めた。
「本当に、可愛い子ですわ」
リリアーヌは、ロナルドが抱くエーリヒを見つめ笑みを浮かべた。
(この子は、間違いなくロナルド様の子よ……そうに決まってる)
リリアーヌは家族の肖像画を見て、ドレスの裾を小さく握った。
(わたしはもう、侯爵夫人になったのよ……誰にも、私生児だなんて言わせない。わたしが産んだエーリヒが、ヴァルデン侯爵になるんだから……)
「リリアーヌ、今日は天気も良いから、エーリヒも連れて出かけよう。川辺を散歩しようか?」
「良いですわね」
「では、早速準備をしよう。……可愛いエーリヒ、父様と手を繋いで歩こうな」
この頃のロナルドは何も知らないまま、エーリヒを抱いて幸せそうに笑っていた。
【あとがき裏話】
ヴァルデン侯爵邸の庭園にて――
ロレンツォ(はぁ……一体いつまでこのクズ一家の監視をしなきゃいけないんだ……)
庭師のおっちゃん「おーい! ルー! 飯の時間だぞ〜!」
ロレンツォ「は~い! 今行きま〜す!」
庭師のおっちゃん「美味いか? 腹一杯食えよ」
ロレンツォ「ありがとうございます!」(もぐもぐ……このおじさん、やけに優しいよな。あれかな? 息子に似てるとかそういう――)
庭師のおっちゃん「お前、オレが子供の頃に飼ってたペピーにそっくりなんだよ」
ロレンツォ(…………犬?)




