22話 誓い
どこか甘やかな風が、邸の庭園を渡っていく。
アルバラード辺境伯領に、花の咲く季節がやって来た。
「今日は、お連れしたい場所があるのです」
少しだけはにかんで、そう口にしたレアンドロ。
ヴィオラは、彼に連れられてベルガントの街を歩いていた。辺境伯領で一番大きな街は、領民で賑わっていた。
グレーの石畳に、ヴィオラが歩く小さな靴音が響く。彼女が歩く度に、花の刺繍が施された薄紫色のドレスの裾が静かに揺れた。
「お美しい方……」
「どこのお嬢様かしら」
春風にふわりと揺れる流れるような黒髪。花びらのような唇に、白い頬は柔らかな日差しに輝いている。
レアンドロに助けられたばかりの頃は、まるで萎れた花のようだったヴィオラは、見違えるほどに美しく変わっていた。
彼女のその横顔を、レアンドロは眩しそうに見つめ微笑んだ。
「ヴィオラさん……そのドレス、とてもよくお似合いです」
「レアンドロ様、ありがとうございます」
ヴィオラは、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた。彼女が纏うドレスは、レアンドロに新しく贈られたものだった。
「とても素敵な刺繍ですわ」
ドレスの裾を少しだけ持ち上げて微笑んだヴィオラに、レアンドロは瞳を柔らかく細めた。
「ルークスでは、古くから刺繍入りのものを身につける文化があるんです」
「まあ……そうだったのですね」
ヴィオラは辺りをそっと見渡した。
確かに、街行く人の袖元や襟、裾などには刺繍が施されている。レアンドロの着ている服もそうだった。
(隣国なのに、知らなかったわ……)
ヴィオラの胸は弾んだ。
もしかしたら、刺繍を教えている孤児院の子供たちの、明るい未来に繋がるかもしれない――そう思った。
「レアンドロ様は、いつもと装いが違うのですね」
「今日は、ヴィオラさんの侍従なのです。ヴィオラさんはお姫様ですからね」
「まあ……」
「でも、レアンドロ様は侍従というよりは騎士のようですわ」と笑ったヴィオラに、レアンドロは照れたように笑った。
レアンドロは領主で、いつもの姿だと目立つ。ヴィオラに街を案内するための配慮だろう――そう思うと、ヴィオラは胸の奥がくすぐったくなった。
「――少し前に、ヴェルス王国の侯爵夫人が、あそこの川に流されて亡くなったんですって」
「まあ……」
「まだ子供もいない、お若いご夫人だったそうよ。お可哀想にね」
通り過ぎていく年配の女性たちの声に、ヴィオラは足を止めた。
(……わたくしは、死んだことにされたのね)
ヴィオラの胸の奥が、ほんの僅かに重くなった。
悲しいわけではない。
だが、胸の奥底に一つだけ、抜けない棘が刺さったかのようだった。
(丁度いいわ……もう、ヴィオレッタはどこにもいないんですもの)
ヴィオレッタという女は、あの日に川で死んだのだから――
「ヴィオラさん、行きましょう」
隣から聞こえた優しい声に、ヴィオラは顔を上げた。
「……ええ」
レアンドロの柔らかな眼差しは、どこか憂いを帯びていた。
◇
二人は、川沿いの小道をゆっくりと歩いていた。
「あの日は……増水した川の様子を見に来ていたんです」
「レアンドロ様……助けていただいて、何と感謝を申し上げたら良いのか……」
「礼など不要です。……あの日、貴女に会えて本当に良かった」
冬が始まったばかりのあの日、ヴィオラがレアンドロに助けられた場所の近くに差し掛かった。
今は、澄んだ水が静かな音を立てて流れている。
「レアンドロ様……川を見に行きたいのです」
そう静かに口にしたヴィオラに、レアンドロは黙って頷いた。
川原に着くと、ヴィオラはゆっくりと川へ近付いた。
(ここで、わたくしの子は……)
ヴィオラは、川原に咲いていた小さな青い花を一輪摘むと、そっと川に流した。
あの日、失われた小さな命への、せめてもの手向けの花だった。
(可愛いわたくしの子……次は、きっと――絶対に、幸せに生まれてくるのよ……)
跪いて瞼を閉じるヴィオラの頬を、幾つも涙が伝い落ちた。
ヴィオラが泣きながら祈っているとき、レアンドロも同じ青い花を摘んで、川にそっと流した。
彼女に気付かれることのないように――それは、静かな祈りだった。
(さようなら、ヴィオレッタ……)
ヴィオラは、静かに立ち上がった。
ヴィオレッタは、もういない。
彼女が振り返ると、そこにはレアンドロが静かに立っていた。
「ヴィオラさん……」
「レアンドロ様、ありがとうございます……もう行きましょう」
涙で濡れた瞳で微笑んだヴィオラは、とても美しかった。
ほんの僅かに目を細めたレアンドロは、手をそっと差し出し、ヴィオラはその温かな手を握った。
そうして、ヴィオラはレアンドロに寄り添うように、また川沿いの小道を歩き始めた。
二人とも何も口にせず、ただ静かに歩いた。
少し歩いてから、レアンドロがふいに立ち止まった。
「ヴィオラさん、ここで目を閉じてください」
「……どうされたのですか?」
「何も聞かず……今は目を閉じて、私についてきていただけませんか?」
(レアンドロ様は、急にどうされたのかしら……)
ヴィオラが目を閉じると、レアンドロはヴィオラの手を優しく引いて歩き出した。
「ヴィオラさん、ゆっくり行きましょう。……近くに石があります。足元に気を付けてくださいね」
レアンドロは、ヴィオラの足元を気遣いながら、ゆっくりと足を進めた。
そうして少し歩くと、ヴィオラの足音が、小石から草を踏む音へと変わった。
「ヴィオラさん、まだですよ。もう少しだけ、目を閉じていてくださいね」
「ええ……」
(一体、どこへ連れて行ってくださるのかしら……)
そのとき、ふわりと――ヴィオラの鼻を澄んだ甘い香りがくすぐった。
「レアンドロ様、ここは……?」
「……ヴィオラさん、目を開けてください」
ヴィオラは、ゆっくりと瞼を開いた。
「っ……!!」
目の前に広がる菫色の景色に、ヴィオラは同じ色の瞳を見開いた。
辺り一面に広がるのは、春風に揺れる菫の花畑だった。
「レアンドロ様、ここは……」
「この花畑を、大切なヴィオラさんに捧げます」
照れ臭そうに微笑んだレアンドロに、ヴィオラの瞳が滲んだ。
「どうして、わたくしのために……」
「貴女の美しい瞳と同じ色の花で、この場所を満たしたかったんです……ここが、幸せな場所になるように……」
「私にとって、この川辺は貴女と出会えた特別な場所ですから」と微笑んで瞼を伏せたレアンドロを見上げ、ヴィオラは涙ぐんだ。
(レアンドロ様がこのお花畑を……? こんなことをされたら、期待してしまうわ……)
瞳を揺らすヴィオラの前――
レアンドロは、意を決したように小さく息を呑んでから、静かに跪いた。
そして、彼はヴィオラの白い手を両手で握り、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「レアンドロ様……?」
「ヴィオラさん……どうか、私の妻になってくれませんか? 生涯、貴女を大切にし、守ると誓います」
柔らかな風が、菫の花を一斉に揺らした。
立ち昇る甘い香りに、ヴィオラの菫色の瞳から、涙が零れる。
(わたくしは、レアンドロ様に嘘をついている……すべて、覚えているのに――)
ヴィオラの心も体もズタズタに傷めつけた過去――ヴィオラがいくら忘れようとしても、それが消えるわけではないのだと彼女は分かっていた。
ヴィオラは苦しげに瞼を伏せて、涙を零した。
「ヴィオラさん……」
戸惑いの表情を浮かべたレアンドロに、ヴィオラは首を振る。
「レアンドロ様、違うのです……だって、わたくしは――」
「愛しています」
レアンドロの力強い声音と真っ直ぐな眼差しに、ヴィオラは呼吸を忘れたように彼を見つめた。
「ヴィオラさん。貴女が心配することは、何一つとしてありません……貴女を傷付ける全てから、私が守ってみせます」
「わたくしを……気の毒に思って……?」
ヴィオラの不安げな眼差しに、レアンドロは安心させるように小さく微笑んだ。
「貴女の涙を初めて見たとき、確かに助けたいと思いました……でも、今はそれだけではありません。これからは夫として、愛する貴女を支え、守りたいんです」
「レアンドロ様……」
「どうか、これからは、妻として私の傍にいてくれませんか」
「……わたくしで、良いのですか?」
消えそうに小さなヴィオラの声に、レアンドロは柔らかに微笑みかけた。
「ヴィオラさんでないと、駄目なんです。どうか、私の妻になってください」
レアンドロの真っ直ぐな水色の瞳がヴィオラを見つめる。
ヴィオラは微笑んでから、静かに頷いた。
安堵のため息を零したレアンドロは、潤んだ眼差しでゆっくりと立ち上がった。
「これからは、ヴィオラ……と呼んでも良いですか?」
「……ええ」
花が綻んだように笑ったヴィオラに、レアンドロは満面の笑顔を見せた。
突然に抱き上げられたヴィオラは、小さな悲鳴を上げてレアンドロの首元に抱きついた。
「愛しいヴィオラ……生涯、私の妻は貴女だけだ。これからは、どうか、レオと呼んでください」
「……レオ様」
恥じらうように呼ばれた名に、レアンドロは幸せそうに頬を染めて笑った。
柔らかな風と菫の花の甘い香りが、まるで祝福するかのように二人を包みこんだ。
この日、この菫の花畑は、二人にとって特別な場所になった――
【あとがき裏話】
ロレンツォ「絶景だ! 彼女を連れてきたら喜んでくれるだろうなぁ〜」
マルコ「彼女が出来たら良いですね」
アドルフォ「…………今日から、ここは立ち入り禁止になった」
ロレンツォ&マルコ「「えっ?」」(俺たち、あんなに頑張ったのに?!)




