21話 決意
ヴィオラがアルバラード辺境伯邸で過ごすようになって、三か月が経とうとしていた。
春の訪れを告げるように、庭先では小鳥たちが囀っている。
レアンドロの執務室は、ひどく静かだった。
時折、紙を捲る音と、グシャリと紙を握り潰す音が静寂を破っている。
数十枚に及ぶ報告書を提出したロレンツォは、レアンドロが報告書を読み終えるのを待っていた。
「ロナルド・フォン・ヴァルデン……想像以上の屑だな」
(今、クズって言った……?)
レアンドロの執務机には、ぐしゃぐしゃに丸まった紙が幾つも転がっている。
握り潰される報告書が増える度に、レアンドロの眉間に刻まれた皺は深くなっていく。
それを、ロレンツォは心臓が縮む思いで見守っていた。
「泉に……? ……このリリアーヌという女、ヴィオラさんを犯人に仕立て上げるとは……」
ロレンツォは、レアンドロの指示でヴェルス王国に行き、ヴァルデン侯爵家に関する情報を集めに集めた。
主な収集先は、ヴァルデン侯爵家の騎士と侯爵家を辞めさせられたという使用人たちだ。
侯爵家には庭師見習いを装って潜入し、辞めさせられた使用人の居所は、侯爵家の老執事から教えてもらった。
そうして、ロナルドがヴィオレッタと結婚する約半年前――つまり、婚約中から通じていたという愛人リリアーヌとの関係をはじめ、邸内で起きたあらゆることまでを聞き出したロレンツォは、ひたすらに記録したのだ。
「ロレンツォ……このアルノーという男は?」
「ええと……リリアーヌの父親がいるガードナー子爵家の使用人をしていた男です。ろくに働きもせず、ふらふらしているようです」
「成る程な……愛人の、愛人というわけか」
(そこはわかるんだ……)
報告書をじっと見つめるレアンドロに、ロレンツォは頭を垂れる。
「アルノーに関しては、記載が足りませんでした。申し訳ありません」
「いや、構わない。……実によく出来た報告書だ」
「ありがとうございま――」
グシャッ。
(あっ……)
またひとつ、報告書が握り潰された。
「この……川への転落事故は……」
「目撃者は、侯爵と愛人の二人だけだそうで……ただ、侯爵家の騎士たちは、侯爵夫人がそんなことをするはずがないと言っていました……」
ロレンツォは、それきり口籠った。
ヴィオラが行方不明になり、そのまま亡くなったとされた川への転落事故――その真相は、侯爵の子を身籠った愛人を嫉妬に狂った侯爵夫人が川に突き落として殺そうとしたのだと、侯爵邸の使用人たちの間で密かに囁かれていたのだ。
「ヴィオラさんが……そんなことをするはずがないだろう……!」
報告書を握り締めるレアンドロの手は、怒りに震えていた。
(俺も、そう思います)
殺気を放ちながら報告書を握り潰したレアンドロに、ロレンツォは胸の内で相槌を打った。
「可哀想に……こんな環境で、彼女は……」
苦しげに呟いたレアンドロを、ロレンツォは静かに見つめた。
そうして、険しい顔ですべてを読み終えたレアンドロは、眉間に手を添えて深いため息を吐いた。
「これで全てだな……ロレンツォ、本当にご苦労だった。特別手当を弾むから、少し待っていてくれ」
「はっ。ありがとうございます」
執務机から立ち上がったレアンドロは、執務机に転がるぐしゃぐしゃに丸まった紙を抱き抱えるように集めた。
「閣下……?」
レアンドロは立ち上がると、抱えた報告書を暖炉の火へ焚べ始める。
赤く燃えていく努力の結晶に、ロレンツォは呆然と立ち尽くした。
「折角作ってくれたのに悪いが……ひとつも残しておきたくないんだ」
「許してほしい」と頭を下げたレアンドロに、唇を結んだロレンツォはぶんぶんと首を大きく振った。
「ロレンツォ、お前が精一杯働いてくれた証は、きちんとここに入っている」
自分のこめかみをトントンと指で小突いて笑ったレアンドロに、ロレンツォは翡翠色の瞳を僅かに見開いた。
(こういうとこ、卑怯だよなぁ……)
ロレンツォは、微笑むレアンドロを見て眩しそうに目を細めた。
「でも……まさか私が、密偵の真似事をさせられるとは思いませんでしたよ」
「ああ……信頼できるからお前に任せたんだ」
「閣下……」
翡翠色の瞳をうるうるとさせたロレンツォに、レアンドロは白い歯を覗かせて笑う。
「お前は、顔にすぐ出るだろう? 分かりやすくて良い。その見た目も、警戒心を解くにはうってつけだ」
レアンドロは、固まったロレンツォを見て微笑んだ。少し跳ねた柔らかな栗毛に、幼さの残る若々しい顔立ち。レアンドロは常々、彼のことを子犬のようだと思っていた。
(これ、褒められてないよなぁ……)
ロレンツォは、柔らかく微笑んだレアンドロをじっと見つめた。
だが、レアンドロの視線はふいにズレていく。
彼は微笑みを浮かべたままで、凝視するロレンツォを素通りして、あらぬ方向を見つめ始めた。
(……これは、ヴィオラ様のことを考えている顔だな)
普段、そう笑うことのないレアンドロがどこかを見て柔らかく微笑むときは、大抵女性のことを考えているのだと、副官たちの間で密かな話題になっていた。
――『ヴィオラさんは、とても可愛らしい女性なんだ。純粋で、心優しくて……よく変わる表情から目が離せなくてな』
そう言って愛しげに笑みを零したレアンドロの姿が、ロレンツォの脳裏に浮かんだ。
(じゃあ……もしかして、俺も愛されてるってこと……?)
少しだけ高鳴った胸に、ロレンツォはレアンドロの端正な顔を見つめる。
「辺境伯閣下。……その、明日は申請していた通り、休暇をいただいて良いんですよね?」
「ん? ……ああ、すまないが――明日は朝イチで草むしりをして、追肥までする予定なんだ。マルコとアドルフォも来るぞ」
「……私も、参加するってことですね?」
「よろしく頼む」
小さくため息を吐きながらも、ロレンツォは楽しげに微笑んだ。
「敬愛する辺境伯閣下のためならば、このロレンツォ・ロッシ、身を粉にして手伝わせていただきますよ」
「頼りにしている」と笑ったレアンドロに、ロレンツォは微笑み返した。
――その後、ロレンツォが帰ってから、レアンドロは暖炉の火を見つめていた。
(ロレンツォは、傷付いただろうな……)
レアンドロは、先程帰ったばかりのロレンツォの姿を思い出した。
隣国まで出向かせて作らせた報告書を燃やしたのだ。良い気持ちはしなかったはずだ。
けれど、ヴィオラを守る上で、あの報告書を残しておくわけにはいかなかった。
(落ち着いたら、皆を夕食に招こう……好きなものを今度聞かないとな)
レアンドロは、日々支えてくれる副官たちの姿を思い浮かべた。
素直でわかりやすいロレンツォ。
生真面目で毒舌家のマルコ。
寡黙で仕事が早いアドルフォ。
自分を支えてくれる有能な若き副官たちを、レアンドロは大切に思っていた。
(今度、ヴィオラさんのことを改めて紹介しないとな……)
そのとき、静かなノックの音が響いた。
「ペドロか……どうした」
入ってきたのは、老齢の執事だった。
彼の手には、書簡と大きな封書が抱えられている。
「辺境伯閣下、大公殿下より書簡が届いております」
「お祖父様から……?」
封書の中身は釣書きだった。優雅な微笑みを浮かべた、豊かな黄金の髪の美しい令嬢の姿が描かれている。
添えられた書簡に、レアンドロは眉を顰めた。
「すぐに返事を書く。少し待っていてくれ」
(私が妻に迎えたいのは、ヴィオラさんだけだ……)
「これも一緒に、すぐに送り返してくれ」
閉じられた釣書きとレアンドロのしたためた書簡を手に、ペドロは静かに執務室を後にした。
その姿を見送ったレアンドロは、重いため息を吐いた。
◇
――そうして、夕刻になった。
この日の執務を片付けたレアンドロは、執務机の引き出しを開けた。
「これも、燃やさないとな……」
レアンドロは、引き出しの奥に押し込んだままだった報告書を見つめ、ため息を吐いた。
『ヴィオレッタ・フォン・ヴァルデン』――報告書に記された名に、レアンドロは目を細めた。
「ヴィオラ……」
以前、レアンドロが初めてその名を呼んだとき、ヴィオラは静かに涙を流した。
『ヴィオラ』はヴィオレッタの愛称だ。
もしかすると、『何も思い出せない』と言いながらも、覚えていたのかもしれない――レアンドロはそう思うようになっていた。
だが、レアンドロはどちらでも構わなかった。
ヴィオラの過去を考えた時に浮かぶのは、彼女の泣き顔だった。
もう二度と、彼女を泣かせたくはない。絶対に――
「泣くほどに辛い過去など――全て、消してしまえば良い……」
レアンドロは、彼女のかつての名が刻まれた報告書を暖炉へと投げ込んだ。
◇
その日の晩。
広間では、レアンドロとヴィオラが夕食を取っていた。
広い食卓には、蒸し野菜に白身魚のスープ、鶏肉の香草焼き。そして、山盛りの新鮮な苺などがずらりと並んでいる。どれもヴィオラの好きなメニューだった。
「ヴィオラさん、たくさん食べてくださいね」
「ありがとうございます。……どれも美味しそうで困ってしまいますわ」
幸せそうにはにかんだヴィオラに、レアンドロは満足げに口元を緩めた。
「ヴィオラさん、今日の教室はいかがでしたか?」
「皆、少しずつですが、上手になってきていますの。大きな子はやはり成長も早くて……これからが楽しみですわ」
生き生きと語るヴィオラを、レアンドロは愛しげに見つめた。
「来週は、私も一緒に行きます」
「まあ……楽しみにしていますわ」
食卓には、二人の楽しげな声と小さな笑い声が響いた。
ヴィオラの幸せそうな笑顔を、ずっと見ていたい。この笑顔を守ってみせる――レアンドロはそう強く思った。




