20話 ヴィオラの刺繍
風の冷たさが少し和らいできた頃――
ヴィオラとレアンドロはアルバラード家の馬車に揺られていた。
『わたくしに、何かお手伝いできることはありませんか』とレアンドロに願い出たヴィオラは、辺境伯領にある孤児院を訪れることになったのだ。
「ヴィオラさん、今日はありがとうございます」
「いいえ……わたくしに、何かできることがあれば良いのですが」
控えめに笑って瞼を伏せたヴィオラに、「一緒に来ていただけるだけで、十分ですよ」とレアンドロは微笑んだ。
「……三年前に孤児院を建てたのですが、私は子供たちに怖がられてしまって……ヴィオラさんなら、きっと子供たちも笑顔を見せてくれるはずだ」
ヴィオラは微笑むと、窓の外へと視線を向けた。
「……何もないところでしょう」
「いいえ……とても素敵ですわ」
窓の外を流れるのは、グレーの煉瓦の街並み。華やかはないが、その質実な佇まいをヴィオラは好ましく思った。
何より、街行く人が皆穏やかな様子だ。
(レアンドロ様は、きっと良い領主なのね……)
ヴィオラが傍らを向くと、微笑むレアンドロと目が合って、彼女はほんのりと頬を染めた。
「ヴィオラさん、座り心地はいかがですか」
「ええ、とても良いですわ」
椅子に張られた青いベルベットの生地をそっと撫でたヴィオラを見て、レアンドロは嬉しそうに目元を緩めた。この椅子は、ヴィオラのために密かに新調されたものだった。
(ずっと、座っていられそうだわ……)
滑らかな肌触りのふかふかの椅子は、腰が沈み過ぎず、とても座り心地が良かった。
そのとき、ヴィオラの瞳に、レアンドロの上着のポケットから覗く白いハンカチが目に入った。
「レアンドロ様、それは……」
「ヴィオラさんのハンカチです」
レアンドロはハンカチを大切そうに取り出した。
白地に、紫色の花びらと緑色のハート型の葉がよく映えている。先日、ヴィオラがレアンドロのために菫の花の刺繍を施したハンカチだった。
(確か――昨日も、お持ちだったわよね……)
少しだけ細められたヴィオラの眼差しに、レアンドロは慌てたようにハンカチを広げる。
「毎日きちんと洗濯していますよ」
「……毎日、お使いなのですか?」
「はい」
レアンドロの眩しい笑顔に、ヴィオラは小さく笑った。
「レアンドロ様のために、またハンカチに刺繍をしますわ。次は何の刺繍にしましょう?」
「同じものが良いです」
「ふふっ」とヴィオラは声を立てて笑った。
花が綻んだような彼女の笑顔を、レアンドロは眩しそうに見つめた。
◇
「辺境伯閣下。本日は、ようこそおいでくださいました」
「閣下は必要ありません。どうぞ楽になさってください」
到着した二人を出迎えたのは、孤児院の院長を務める中年の女性だった。
その後ろには、小さな子どもたちが並んでいる。
「こんにちは。皆元気にしていたかな?」
レアンドロは小さく屈み、微笑んだ。
けれど、「こんにちは」と小さく返した子どもたちは、前に出てこようとはしなかった。レアンドロに向けられるのは、どこか怯えた眼差しだった。
「すみません……皆、緊張しているようで……」
「大丈夫。気にしていませんから」
微笑んだレアンドロに安堵の色を滲ませた院長は、彼の少し後方に佇むヴィオラへと視線を向けた。
「辺境伯様、そちらの方は……」
小さく息を呑んだヴィオラは、レアンドロをそっと窺う。
(何と仰るのかしら……)
ヴィオラの素性をレアンドロは知らない。ここでは、ただの『ヴィオラ』だ。貴族としての肩書きどころか、姓すらない。
「ああ、ご紹介します。ヴィオラさんです」
(そのまま紹介されてしまったわ……)
心を決め、ヴィオラは淡い紫色のドレスの裾を軽く摘んで一礼した。
「……はじめまして、ヴィオラと申します」
彼女の優雅な所作に、院長も子供たちも目を見張った。
「わぁ!」
「おひめさまだ〜!」
目を輝かせた小さな少女たちに囲まれたヴィオラは、恥ずかしそうに笑った。
(わたくしは、お姫様なんかじゃ……)
「今度からは、お姫様を連れて来るからね」
子どもたちの歓声が上がり、ヴィオラと視線を交わしたレアンドロはふっと目を細めた。
戸惑いながらも、子どもたちの笑顔にヴィオラは小さく笑い返した。
孤児院には、乳幼児から十五歳までの子供たちが五十人程暮らしていた。
子供たちは、辺境伯領だけでなく、ルークス王国全域から集められたそうだ。レアンドロが他領まで出向いて、孤児を集めたのだという。
「十六になれば、この子たちは孤児院を出なくてはなりません……」
ヴィオラは、机に向かう少年や少女たちを見つめた。皆真剣な表情で本を読み、ペンを走らせている。
レアンドロが孤児院に教師を派遣していて、六歳以上の子供たちは読み書きや計算、礼儀作法などを教わるそうだ。授業の時間以外にも、子供たちは熱心に学んでいるらしい。
そうして、この孤児院を出る頃には、子供たち皆が教わったことを立派に習得する。
けれど――
「中々、良い働き口がないのです……」
悲しそうな顔で院長は言った。
子供たちの受け入れ先といえば、宿屋や食堂などの下働きが多く、収入の安定した商家などではまず受け入れてくれないのだという。
――『孤児? うちの金に手を付けられたら困りますからねぇ』
ある商家の主には、そう返されたそうだ。
怒ったレアンドロが抗議しに行こうとしたが、院長が止めたそうだ。無理に受け入れさせたとしても、子供はきっと肩身の狭い思いをするだろう――と。
(皆、あんなにも熱心に励んでいるのに……)
子供たちの一生懸命な横顔に、ヴィオラの胸はきつく締め付けられた。
「ヴィオラさん……」
涙が伝うヴィオラの頬に、レアンドロのハンカチがそっと押し付けられた。
「わたくし、ごめんなさい……こんな……」
静かに首を振ったレアンドロ。
ヴィオラは、彼から受け取ったハンカチで目元を押さえた。
院長は憂いに満ちた瞳で涙を零すヴィオラを見つめた。
「綺麗な菫の花……素晴らしい刺繍ですわね」
「これは、ヴィオラさんの刺繍なんですよ」
レアンドロの言葉に、院長は暫し黙り込んだ。
「院長? どうかしましたか」
「いえ、その……刺繍を、子供たちに教えていただけないかと思って……」
そう口にした院長に、ヴィオラは目を見開き、レアンドロは温かな笑みを浮かべた。
(わたくしが、子供たちに刺繍を……?)
「ヴィオラさん、どうですか? もし、あなたが良かったら……」
「でも、わたくしの刺繍なんて……」
ヴィオラは思い出した。
――『刺繍? どれも同じだろう』
結婚する前――当時、婚約者だった彼は榛色の瞳を細めてそう言ったのだ。
そして、彼女が渡したヴァルデン侯爵家の家紋入りのハンカチは、引き出しの奥へと仕舞われ、二度と見ることはなかった。
「ヴィオラさんの刺繍は、とても繊細で美しい……男の私でも、それはわかります」
「レアンドロ様……」
レアンドロの力強い言葉に、ヴィオラは静かに顔を上げた。
「もし、わたくしでお役に立てるのなら……」
「まあ! ありがとうございます。ぜひ、子供たちのためにも、よろしくお願いします」
こうして、ヴィオラは週に一度、孤児院で刺繍教室を開くことになった。
――帰りの馬車の中。
ヴィオラは、膝の上で小さく両手を握った。
「わたくしの刺繍は、子供たちのためになるのでしょうか……」
「ええ、きっと……私はそう思いますよ」
レアンドロの柔らかな眼差しに見つめられ、ヴィオラの胸は温かさに包まれるような心地だった。
「でも……菫の花の刺繍は、教えないでくださいね」
そう言って微笑んだレアンドロに、ヴィオラは少しだけ恥ずかしそうに、小さく頷いた。
「もう、こんな時間になったのですね……街がとても綺麗ですわ」
「帰ったら、夕食にしましょう」
微笑みあった二人は、夕日に染まる街並みを眺めた。




