19話 それぞれの過去
「閣下、ご報告申し上げます」
昼下がりのアルバラード辺境伯邸。
レアンドロの執務室には、二人の男の声と紙を捲る静かな音が響いていた。
「北のヴェルス王国のヴァルデン侯爵夫人が、二か月前に川の上流で行方不明になったと――年頃や容姿の特徴も一致しています」
筆頭副官であるロレンツォの報告に、レアンドロは大きく息を呑んだ。
暫し沈黙したレアンドロに、ロレンツォは一枚目の報告書をそっと差し出す。
「こちらをどうぞ」
「…………」
報告書を見たレアンドロの切れ長の瞳は、一瞬で翳りを帯びてしまった。
(侯爵夫人……やはり、ヴィオラさんには夫がいたのか……)
きつく締め付けられた胸の奥の痛みに、レアンドロは重いため息を吐く。
(ああ……私はどうしたら良いんだ)
レアンドロは勿論わかっていた。ヴィオラが失った子の父親が、この世界のどこかにいることを――
ただ、考えないようにしていただけだ。
(ヴァルデン侯爵……一体、どんな男なんだ)
きっと、行方知れずになった愛しい妻を必死に探し続けているはずだ――
胸の痛みに苛まれながらも、レアンドロはヴィオラの夫の気持ちを想像した。
(――私なら、耐えられなくて死んでしまいそうだ……!)
「あの〜、辺境伯閣下……報告の続きをさせていただいても宜しいでしょうか?」
窺うように覗き込むロレンツォの声に、物思いに耽っていたレアンドロはハッと顔を上げた。
「ああ……続きを頼む」
「ひと月前に、亡骸が見つからないままで侯爵夫人の葬儀が行われています。ヴァルデン家の嫡男が生まれてすぐのことです」
その報告に、レアンドロはきつく眉を寄せた。
(葬儀に、嫡男だと? ヴィオラさんは生きている……それに、彼女の子は、失われてしまったというのに――)
拳を強く握り締めたレアンドロの瞳が鋭くなり、口元を引き結んだロレンツォは居住まいを正した。
「嫡男を産んだのは誰だ」
「侯爵夫人です」
「……侯爵夫人は、既に行方不明だったはずだ」
「ああ、失礼を。……ええと、産んだのは二人目の侯爵夫人ですね」
レアンドロの切れ長の瞳が見開かれた。
「ヴァルデン侯爵は――妻の葬儀をしてすぐに、二人目の夫人を迎えたということか? 何故、そんなに早く子供が産まれるんだ」
レアンドロの真っ直ぐな瞳に、ロレンツォは困ったように眉を寄せた。
二枚目の報告書に目を落としたロレンツォは「仰せの通り……葬儀を終えて間もなく、新たな侯爵夫人を迎えたようです」と答えた。
「子供の出生までは調べていませんが、おそらく愛人か何かでしょう」
(愛人だと……?!)
レアンドロは、思わず手元にあった報告書をきつく握り締めてしまった。
皺だらけになった報告書を握る手は、小さく震えている。
一層鋭さを増したレアンドロの瞳に、ロレンツォは執務室の空気が冷えていくように感じた。
「……侯爵の名は」
「ロナルド・フォン・ヴァルデンです」
握られた報告書がグシャリと音を立てた。
『ロナルド』――その名を聞いた瞬間、レアンドロの水色の瞳はまるで凍り付いたような鋭い光を宿した。
――『ロナルド様、助けて……』
すすり泣きをしていたヴィオラの姿を思い出し、レアンドロは白くなるほどに拳を握り締めた。
(ヴィオラさんという妻がありながら、よくもふざけた真似を……)
「辺境伯閣下……まぁ、まだ愛人と決まったわけでは――」
「妻以外の女に子を産ませたのだろう?」
レアンドロは二枚目の報告書を受け取ると、まるで仇を見るような目付きで“ロナルド”の名を睨んだ。
(ロナルド・フォン・ヴァルデン……)
凄まじい殺気を放つレアンドロに、ロレンツォは小さく身震いをした。
少しして、顔を上げたレアンドロは低く告げる。
「ヴァルデン侯爵家について、詳しく調べてくれ」
「承知致しました。……ちなみに、詳しくとは……どの程度でしょうか」
「勿論、調べ得るすべてだ」
レアンドロの放った低い声には、有無を言わせない響きがあった。
「そして、分かっていると思うが……この件に関わる全ては一切口外しないように――」
レアンドロが切れ長の瞳を細めてそう口にした時、柔らかなノックの音が響いた。
「レアンドロ様、お茶をお持ちしました」
扉の向こうから響いたヴィオラの柔らかな声に、微笑んだレアンドロは皺だらけの報告書を引き出しの奥へと押し込んだ。
「ヴィオラさん、ありがとうございます。丁度喉が渇いていたんです」
扉を開けてヴィオラを招き入れたレアンドロの瞳は、まるで薄氷の溶けた春の湖のように穏やかに彼女を見つめた。
(この御方が、辺境伯閣下の……)
ふわりと漂う紅茶の温かな香りを吸い込んだロレンツォは、ヴィオラを見て嬉しそうに顔を綻ばせた。
穏やかな微笑みを浮かべるヴィオラは、ティーカップをテーブルへとそっと並べる。
冬風が吹き込んだかのように冷え切っていた執務室に、暖かな春の日差しが差し込んだかのようだった。
「お初にお目にかかります。辺境伯閣下の副官を務めております、ロレンツォ・ロッシと申します」
「はじめまして、ヴィオラですわ。外は寒かったでしょう。どうぞごゆっくりなさってくださいましね」
「私の分まで……恐縮です」
淡く微笑んだヴィオラに、ロレンツォは瞳を潤ませた。
「ヴィオラさんも、どうぞかけてください」
レアンドロに優しく促されたヴィオラは、微笑んだまま首を振った。
「レアンドロ様と、お客様の分をお持ちしましたの。わたくしはこれで失礼いたしますね」と下がろうとしたヴィオラを、レアンドロは引き止める。
「これは客ではありません」
「えっ?」
ロレンツォは、ぽかんと小さく口を開けたままレアンドロを仰ぎ見た。
「急ぎの仕事があるだろう。頼んだぞ」とレアンドロに肩を叩かれたロレンツォは、泣く泣く部屋を後にした。
(良かったのかしら……)と出て行ったロレンツォを気にするヴィオラを、レアンドロは優しくソファに座らせた。
「ヴィオラさんの淹れる紅茶は、いつも美味しいですね」
「そんな……きっと、良い茶葉のおかげですわ」
恥じらうように視線を落としたヴィオラを見て、レアンドロは愛しげに目を細めた。
「ヴィオラさん、体調は大丈夫ですか」
「おかげさまで……レアンドロ様は、少し過保護過ぎますわ」
「……貴女が心配なのです」
眉を下げて薄く笑ったレアンドロに、ヴィオラはほんの少しだけ首を傾げた。
少しの沈黙の後、レアンドロは迷いながらも口を開いた。
「実は……私の母は私が――その、小さな頃に病で亡くなっていて……弱っている女性を見ると、どうしても心配で……」
レアンドロが途切れ途切れに口にした言葉に、ヴィオラは小さく拳を握った。
「……そうでしたか……お辛い思いをなさったのでしょうね……」
柔らかな声でゆっくりとそう返したヴィオラに、レアンドロは微かに微笑んだ。
(それで、わたくしにこんなに親切にしてくださっているのかしら……)
ボロ切れのような姿で川辺に倒れ、何日も高熱にうなされていた自分の姿を思い出す――
心優しい彼は、そんな自分を気の毒に思い、憐れんでくれたのだ。
(当然よ……それ以外に、何もあるわけないわ)
ヴィオラは、淡い期待を打ち消すようにそう胸の内で言い聞かせた。
温かかったはずの胸には、まるで薄氷がかかったかのようだった。
だが、部屋に戻ったヴィオラは、エッダからレアンドロの生い立ちを聞かされた。
彼の母親が、彼を産んですぐに若くして亡くなってしまったこと――
そして、妻を心から愛していた父親の意向で後妻は娶られず、孤独な幼少期を過ごしたことを――
(レアンドロ様……わたくしに、何か出来ることはあるのかしら……)
その日の晩、ヴィオラは彼を思いながら眠りに就いたのだった――




