18話 菫の花
ヴィオラがレアンドロに助けられて、二つの月が巡る頃――
その日の晩。眠りに就いたヴィオラに毛布を掛け、レアンドロは彼女の寝顔を見つめていた。
ヴィオラは高熱が落ち着いてからも、毎晩のようにうなされ続けていた。
レアンドロはそれが心配で、彼女の様子を夜も気にかけていたのだ。
(ヴィオラさんは……どこから来たのだろう)
領内の尋ね人の一覧に、彼女と思われる人物は見当たらなかった。
ヴィオラは、「何も思い出せない」と言っていた。
けれど、『ヴィオラ』の名を初めて彼が呼んだ日に、彼女は涙を流した。
もしかすると、何か過去を思い出したからなのではないか――レアンドロは、ずっとそう考えていた。
けれど、レアンドロはヴィオラに尋ねることなど出来なかった。
冷たい冬風に消えてしまいそうなほど、彼女が弱々しく見えたからだ。
「……ロナルド様、助けて……赤ちゃんが……」
(ロナルド……?)
うなされるヴィオラの口から、言葉をはっきりと聞いたのはこの日が初めてだった。
ヴィオラの閉じられた瞼から、涙が零れる。
「助けて……」
眠りながらすすり泣きを始めたヴィオラに、レアンドロの胸は強く締め付けられた。
(一体、どれほど悲しい夢を……)
レアンドロは、彼女の細い肩を包むようにそっと毛布をかけ直した。
あの日、彼女は何故川辺に倒れていたのか。
一体、彼女の身に何があったのか――
再び零れた涙をそっと指で拭うと、レアンドロは苦しげに俯いた。
レアンドロは、夜が明けてもヴィオラに何も聞かなかった。
そして、あの日に彼女に起きた悲しいことも、彼女が毎晩うなされていることも、一切口にしないままで過ごした。
彼は、何も知らないふりをした。
泣くほどに悲しいことを、ヴィオラに思い出させたくはなかったからだ。
(だが……何も知らないままでは、彼女を守れない……)
レアンドロは、ヴィオラのことを密かに調べ続けた。
「辺境伯閣下。ルークス内の全域を調べましたが、見つけられませんでした」
「そうか……では、川の上流の――ヴェルス王国まで範囲を広げてくれ」
毎夜のようにうなされ、涙を流したヴィオラのことが心配でたまらなかった。
そして、彼女が泣きながら口にした男の名が、頭から離れなかった。
◇
窓から差し込む朝の柔らかな日差しが、上質な煉瓦色の絨毯を照らしている。
ヴィオラに用意された部屋は広く、いつも暖かかった。
この邸で過ごす穏やかな時間は、傷だらけだったヴィオラの心を少しずつ癒していた。
ヴィオラにとって、アルバラード邸の朝はとても心地よい時間だった。
朝食を終えた彼女が窓辺から庭を覗くと、まだ冷たい風が吹く窓の外では、葉を落とした枝が寒そうに揺れている。そこでは、小鳥たちが身を寄せ合っていた。
ヴィオラが窓をそっと開けると、小鳥たちは一瞬で窓辺に集まってきた。
「おはよう、良い朝ね」
つぶらな瞳で見上げてくる小鳥たちに、ヴィオラは口元を綻ばせた。
「仲良く食べるのよ」
ヴィオラは、窓辺で愛らしい小鳥たちが餌をついばむのを静かに眺めた。この細かく砕かれた穀物は、レアンドロが用意してくれたものだった。
この時間は、彼女を癒す大切な日課になっていた。
(春は、まだもう少し先ね……)
ヴィオラは、白い息をそっと吐いた。
「暖かくなるまでは安静に過ごしましょう」とレアンドロから言われたヴィオラは、大人しく部屋で過ごしていた。
小鳥たちの餌の時間が終わり、ヴィオラは暖炉の傍のソファに腰掛けた。
(レアンドロ様は、喜んでくださるかしら……)
白い無地のハンカチを手に、ヴィオラはレアンドロを思った。
素性のわからないヴィオラを助け、何の見返りも求めずに世話をしてくれている彼にお礼がしたかった。
(何の刺繍にしましょう……迷ってしまうわ)
ヴィオラは色とりどりの刺繍糸を眺めた。
刺繍はヴィオラの唯一の特技だった。ロナルドと結婚する前は、暇さえあれば刺繍に勤しんでいたのだ。
そのとき、柔らかなノックの音が響いた。
「ヴィオラ様、お茶はいかがですか」
「ありがとうございます。エッダさん」
銀のトレーを手に部屋に入ってきたのは、年配のメイドだった。白髪交じりの赤毛を後頭部でふんわりとまとめている。
「お砂糖は二杯でしたね」
ふにゃりと笑った目尻には、皺が刻まれている。
エッダがカップに砂糖を入れるのを、ヴィオラは穏やかな気持ちで眺めた。
「ヴィオラ様、さぁ、どうぞ」
「ありがとうございます」
「熱いので、気を付けてくださいね」
少しだけしゃがれた温かみのある声に、ゆっくりとした柔らかな口調。
ヴィオラは、もしエッダのような優しい祖母がいたなら、どんなにか幸せだろう――と密かに思っていた。
「今日は刺繍をなさるのですね」
「ええ……レアンドロ様に、ハンカチをと思って……」
「ささやかですが――お礼の気持ちですの」と小さく付け加えたヴィオラに、エッダは嬉しそうに口元を綻ばせた。
「エッダさん……レアンドロ様の好みはご存知ですか?」
「それならば、レアンドロ様に直接お尋ねを……きっと、喜ばれますよ」
思いもしなかった返答に、ヴィオラは少しだけ目を丸くした。
(そうだわ。直接聞けば良いんだわ……)
ヴィオラは、小さくはにかんだ。
レアンドロはほとんど毎日邸にいて、よくヴィオラの様子を見に来るのだ。
けれど――
「レアンドロ様は、今朝もお出かけなのですか?」
「ああ……そういえば、まだお戻りではありませんね」
ここ最近、レアンドロは早朝から出かけているようだった。
いつも朝のうちには邸に帰ってくるが、時間はまちまちだ。
(ここしばらくは、毎朝お出かけだわ……まさか、女性がいらっしゃるのかしら……)
ヴィオラは白いハンカチをきゅっと握った。
レアンドロは背が高く、冷たい美貌の青年だ。一見近寄りがたいが心優しく、笑顔はどこか少年のような雰囲気さえある。
そんな彼を女性が放っておくわけがない――急に不安に襲われたヴィオラはしゅんと項垂れた。
表情をコロコロと変えるヴィオラに、エッダは小さく笑った。
「レアンドロ様は、お一人でお出かけですよ」
「えっ? そ、そうなのですね……」
ほんの少しだけ顔を赤くしたヴィオラに、エッダはふにゃりと目を細めた。
だが、それでもヴィオラの不安は消えなかった。
「あの……レアンドロ様の、婚約者の方は……」
おずおずと口にしたヴィオラに、エッダは静かに首を振った。
「レアンドロ様は、まだご婚約されていませんよ」
「……そうなのですね」
胸を撫で下ろしたヴィオレッタに、エッダは「ヴィオラ様、お茶が冷めてしまいますよ」と笑んだ。
「あっ……すぐにいただきますわ」
慌ててカップを口にしたヴィオラに、エッダが楽しげに笑う。
(どうして、こんなに気になるのかしら……)
安堵したかと思えば、ざわめく胸。
ヴィオラにとって、初めての感情だった。
そのとき、部屋に軽快なノックの音が響いた。
「ヴィオラさん、おはようございます」
「おはようございます、レアンドロ様」
レアンドロの姿に、ヴィオラは嬉しそうに立ち上がった。
淡い紫色のドレスの裾がさらりと揺れる。このドレスは、レアンドロが仕立てさせたものだった。
「ヴィオラさん、何をされているのですか」
「今日は、刺繍をしようと思って……」
近付いてきたレアンドロの金の髪に、何か小さなものが付いていることにヴィオラは気が付いた。
「レアンドロ様、何か付いていますわ……これは、葉っぱかしら――」
「これは失礼を……」
レアンドロは、ヴィオラが指で摘んだ小さな枯れ草を、少し恥ずかしそうに受け取った。
「お散歩にお出かけだったのですか?」
「ええ……まぁ、そんなところです」
不思議そうに微笑んだヴィオラに、レアンドロは白い歯を覗かせて笑った。
「それは、刺繍の道具ですね」
「ええ、先日レアンドロ様がご用意くださったものですわ」と生地や刺繍糸を嬉しそうに見せるヴィオラに、レアンドロは口元を緩ませた。
「何を刺繍されるのですか」
その質問に、ヴィオラは戸惑うように瞼を伏せた。
「ヴィオラ様」
エッダの柔らかな声に小さく微笑み返すと、ヴィオラはおずおずと口を開く。
「その……レアンドロ様にハンカチを――と思って……何の刺繍が良いでしょうか?」
「ささやかですが、お世話になっているお礼に」とヴィオラに見上げられたレアンドロは頬をさっと染めた。
「ヴィオラさんが、私に刺繍を……?」
「はい」
小さく頷いたヴィオラに、レアンドロは満面の笑顔を見せた。
「嬉しいな……私は幸せ者です」
「そんな、大げさですわ……刺繍は何が良いでしょうか?」
少しだけ思案したレアンドロは、静かに口を開いた。
「それでは……菫の花が良いです」
「菫の、お花……?」
不思議そうに目を丸くしたヴィオラに、レアンドロははにかんだように小さく笑いかけた。




