17話 温もり
冷たい眼差しだけを残して背を向けたロナルドの残像に、ヴィオレッタの心は暗い川底に沈んだ。
もう、あの夏の日に笑いかけてくれた彼はどこにもいない――
彼女の想いは、粉々に砕け散った。
増水した川に飲み込まれたヴィオレッタは、必死にもがいた。
何とか水面に顔を出しても、水を吸ったドレスが何度も邪魔をする。
苦しくて、息が出来ない。
それでも――
(赤ちゃん……)
この小さな命を諦めたくはなかった。
ヴィオレッタは、必死に体を動かした。
もがいているうちに、いつしかケープは肩から外れ、濁流の中へと飲まれて消えた。
(この子を……助けなければ)
冷たい濁流に揉まれながら、流れてきた大きな枝に、ヴィオレッタは必死に手を伸ばした。
その枝に必死に掴まり、彼女は水面へと顔を出した。
そうして、どれほど流されたのか――
(わたくしは、助かったの……?)
気が付けば、ヴィオレッタはどこかの川辺に流れ着いていた。
水を吸ったドレスが全身を包み、凍り付いたように体が動かない。
(赤ちゃん……どうか……)
意識が朦朧とする中で、彼女は気を失った。
痩せた薬指から、いつの間にか結婚指輪は抜け落ち、なくなっていた。
◇
どこからか、穏やかな優しい声が聞こえた気がした。
「――大丈夫ですか?!」
ヴィオレッタの唇から水が零れ、彼女は激しく咳き込んだ。
(ここは……?)
目覚めると、彼女は小石が転がる川辺に横たわっていた。
いつの間にか、ずぶ濡れの彼女の体には上質な男性用のコートが掛けられていた。
「良かった……」
柔らかな、低い声が落ちる。
ぼやけたヴィオレッタの視界に、金色の髪が揺れた。
(ロナルド様? ……違う、この方は……)
ヴィオレッタの菫色の瞳に映ったのは、安堵に淡い微笑みを浮かべる、見知らぬ金の髪の青年だった。
一見冷たくも感じられる端正な容貌の青年は、ヴィオレッタを見て淡く微笑んだ。
「私はレオといいます。すぐに医師に診てもらいましょう」
「あ……」
ヴィオレッタの薄紫に染まった唇が微かに震えた。
声も出すことが出来ないヴィオレッタに、青年の水色の瞳は心配そうに揺れた。
「大丈夫です。すぐにお連れしますからね」
ヴィオレッタの縋るような眼差しに、青年は安心させるように微笑んだ。
ヴィオレッタの美しかった黒髪は濁流でもつれ、枯葉が幾つも絡まっていた。ラベンダー色のドレスはあちこちが破れ、その姿はまるで打ち捨てられた人形のようだ。
だが、青年は躊躇いもせずに自分のコートでヴィオレッタを包んで抱き上げた。
弱りきったヴィオレッタは、青年の顔を見上げることすらできなかった。
(赤ちゃん、きっともう大丈夫よ……)
冷え切ったドレス越しに、体温など感じるはずもないのに――
ヴィオレッタは、青年の腕の中が何故か温かく感じた。
◇
「レアンドロ様……そちらの方は――」
「エッダ! すぐに湯を沸かしてくれ!!」
自分の邸へとヴィオレッタを連れ帰ったレアンドロは、年配のメイドに彼女を預けると、すぐに医師を呼んだ。
素性もわからないというのに、ヴィオレッタの容体が気がかりだった彼は扉の外で立って待ち続けた。
けれど――
「レアンドロ様。残念ですが、お子様は……」
扉から出てきた医師の言葉に、レアンドロは息を詰まらせた。
少しだけ開かれたままの扉の向こうでは、青白い顔のヴィオレッタが横たわっている。
「彼女の、容体は……」
「川で溺れたと仰っていましたね……これから、高熱が出るかもしれません」
「大丈夫なのですか?」
「薬をお渡ししておきます。栄養をしっかり取って、しばらくはどうかご安静に……何かあれば、すぐにお呼びください」
医師はそう静かに告げると、帰っていった。
レアンドロは医師からもらった薬を手に、扉の隙間から眠るヴィオレッタを見つめた。
(――まさか、彼女が子を宿していたとは……)
ヴィオレッタがどこかの貴族令嬢だと思っていたレアンドロは、ヴィオレッタの傷ましい姿に胸を痛めた。
何故、身重の体で川辺に倒れていたのか――
身なりは整っているのに、彼女はひどくやつれていた。
何より、大切にされるべき身重の体で冬の川辺に倒れていたのだ。
子を失う悲しみは、一体どれほどだろうか――まだ子もいないレアンドロは、彼女の苦しみを思った。
(彼女が目覚めたら、何と声をかけよう……)
レアンドロは、名も知らぬヴィオレッタのために心を砕いた。
そして、高熱を出した彼女の身を案じ、医師を何度も呼び、必死に薬を飲ませた。
夜も、ぐったりと眠るヴィオレッタの様子を見にやってきては、彼女の氷枕を何度も変え、高熱に苦しむ彼女の額を冷やし続けた。
そうして、数日が経った――
高熱を乗り越えて、ヴィオレッタは目覚めた。
その菫色の瞳がレアンドロを映したとき――彼は、それは嬉しそうに笑った。
「――ですが、何故あんな冬の川に……」
心配そうに素性を尋ねてきたレアンドロに、ヴィオレッタは「何も思い出せないのです」とだけ静かに答えた。
リリアーヌから川に落とされ、ロナルドから見殺しにされたヴィオレッタは、とても名乗ることが出来なかった。
侯爵家に帰ったところで追い出されるだろう。
そうでなくとも、また濡れ衣を着せられ、危険な目に遭わされるに違いない――ヴィオレッタはリリアーヌが恐ろしかった。
身重の体で、まさか自ら泉や冬の川に飛び込むなど――お腹の子の命を犠牲にしかねないリリアーヌの行動は、ヴィオレッタには少しも理解できないものだった。
(わたくしは、どこへ行けば良いのかしら……)
結婚後、一度も帰っていない実家の伯爵家が浮かんだ。
けれど、彼らにとって、ヴィオレッタはいてもいなくても変わらない空気のような存在だった。
跡継ぎである弟の縁談が進んでいる今、侯爵家から追い出された出戻り娘など、厄介者以外の何者でもないだろう。
故に、ヴィオレッタは何も思い出せないふりを続けた――
「それでは……あなたのことは、ヴィオラさんと呼んでも良いですか?」
レアンドロは「菫色の瞳があまりに美しくて」とヴィオレッタに優しく微笑んだ。
この日から、ヴィオレッタは『ヴィオラ』になった。
(なんだか、お母様を思い出すわ……)
“ヴィオラ”という呼び名は、幼い頃――今は亡き彼女の母だけが呼んだ愛称だった。
遠い日の母の面影が浮かんで、ヴィオラの瞳には涙が滲んだ。
(お母様……わたくしは、赤ちゃんを……)
ヴィオラは、小さくなった腹部にそっと触れた。
守ることができなかった小さな命に、涙が幾つも零れた。
――『残念ですが、お子様は……』
あの日の医師の言葉を、ヴィオラは聞いてしまっていたのだ。
「ヴィオラさん……」
「何でもないのです……少しだけ、どこか懐かしい気持ちになって……」
レアンドロは何も言わず、ヴィオラの頬を伝う涙をそっとハンカチで拭った。
静かに泣き続けるヴィオラに、彼は何も聞かなかった。ただ、静かに――彼女の傍に寄り添うだけだった。
「ヴィオラさん、何も心配は要りません。私にできることがあれば、何でも言ってくださいね」
彼の名は、レアンドロ・デ・アルバラード。
ヴァルデン侯爵家の別荘地から南にある、隣国ルークス王国の若き辺境伯だった。
辺境にしてはやけに広大な邸には、彼の他には使用人たちしかいなかった。
「ヴィオラさん、元気になったら何が食べたいですか?」
柔らかな眼差しに見つめられ、ヴィオラは少しだけ視線を落とした。
「……果物が食べたいですわ」
「どんな果物が好きですか?」
「……苺が……一番好きですの」
どこか恥ずかしそうにそう答えたヴィオラに、レアンドロは嬉しそうに目を細めた。
「春になったら、ヴィオラさんのために苺をたくさん用意しましょう」
レアンドロの優しい眼差しと気遣いに、ヴィオラは戸惑いながらも微笑み返した。
レアンドロの優しさに触れる度に、ヴィオラの胸は温かく――けれど何故か、少しだけ締め付けられた。
彼女は、優しさに慣れていなかった。
「ヴィオラさん、暖かくなったら庭を散歩しましょう」
(どうして……ここまで親切にしてくださるの?)
素性の知れぬ女を当然のように受け入れ、世話をするレアンドロの本意が、ヴィオラには分からなかった。
けれど、彼女の名を優しく呼ぶ彼の瞳に、打算や下心などは欠片も感じられなかった。彼は、ヴィオラを手助けする以外では、指一本ですら触れようとはしなかったのだ。
(わたくしは、このままここにいて良いのかしら――)
すべてを失ったヴィオラは、まるで庭の片隅に咲く萎れかけた小さな花のようだった。
けれど、レアンドロがヴィオラの名を呼ぶ度に、彼女の強張った心も硬かった表情も、ほんの少しずつ――柔らかく、解れていった。
「ヴィオラさんは、どんな花がお好きですか?」
「お花はどれも好きですわ……白い花以外なら、何でも……」
レアンドロは、ヴィオラの好きなものをよく尋ねた。
ヴィオラが淡く微笑む度に、その水色の瞳は安堵の色を滲ませた。
レアンドロは、ほんの少しずつ――まるでゆっくり歩み寄るようにヴィオラに優しさを注いだ。
「ヴィオラさん、タルトはお好きですか」
ひと月ほどが経った頃。レアンドロがヴィオラに差し出したのは、艶々の真っ赤な苺が敷き詰められたカスタードのタルトだった。
「まあ! 美味しそうな苺……」
「北の国の苺です」
「レアンドロ様、ありがとうございます」
「ヴィオラさん、その……少し酸っぱいかもしれません」
少し照れ臭そうにそう口にしたレアンドロに、ヴィオラは声を立てて笑った。
(『春になったら』と仰っていたのに……)
レアンドロは、ヴィオラのためにわざわざ他国から苺を取り寄せ、料理長にタルトを作らせたのだった。
(ヴィオラさんが、笑ってくれた……)
僅かに目を見開いたレアンドロは、嬉しそうにはにかんだ。初めて見たヴィオラの笑顔を、彼はまるで花が咲いたようだと思った。
彼女を見つめる柔らかな眼差しは、まるで春の日差しに目を細めるかのようだった。
「ヴィオラさん! 苺のフレーバーティーを見つけましたよ」
「まあ……ありがとうございます」
レアンドロは、ヴィオラが微笑む度に嬉しそうに目を細めた。
彼の瞳は切れ長で、澄んだ水色の瞳はまるで凍てつく冬空を溶かしたような色だ。
けれど、ヴィオラはその瞳に温かさを感じた。
(こんなにも、優しい男性がいるなんて……)
一緒に過ごすうちに、レアンドロの柔らかな眼差しも低く優しい声音も、まるで春の陽だまりのように感じられるようになっていった。




