16話 決別
夜が明けた。
昨夜の大雨が嘘だったかのように、別荘地には澄み渡る青空が広がっていた。
「ロナルド様、今日は散歩に行きたいです」
「……だが、ゆうべの雨で足元が濡れている。滑ると危ないだろう?」
「でも……出来るだけ歩くようにと、お医者様から言われていますもの」
「ロナルド様は、この子に早く会いたくないんですか?」と小さく頬を膨らませたリリアーヌに、ロナルドは「仕方ないな」と笑ってため息を零した。
「そうだ! ヴィオレッタ様もお誘いしたいです!」
唐突なリリアーヌの言葉に、ロナルドは顔をしかめた。
「……私たちだけで行こう。その方がゆっくり出来る」
「でも……この子が生まれる前に、ヴィオレッタ様と仲直りしたいんです……」
「こんな気持ちじゃ、安心してこの子を産めませんわ」と潤んだ瞳に見上げられて、ロナルドはそれ以上強くは言えなかった。
リリアーヌを連れたロナルドは、部屋に籠るヴィオレッタに声を掛けると強引に外に連れ出した。
◇
南東の比較的温暖な地域とはいえ、冬を迎えた川辺は肌寒かった。
上機嫌に歩くリリアーヌは、淡いピンク色のドレスに白いファーコートを羽織っていた。
その傍らには、茶色のロングコートを羽織ったロナルドが張り付くように寄り添っている。
「リリアーヌ、足元に気を付けるんだぞ」
「わかっていますわ……もう、ロナルド様は心配性なんだから……」
ラベンダー色のドレスを纏ったヴィオレッタは、冬物の薄灰のケープに首を埋めるように俯いた。
(どうして、わたくしまで……)
ヴィオレッタは、泣き腫らした目を隠すように俯いてロナルドとリリアーヌの後ろを歩いた。
ロナルドの子を身籠っていることを、まだ彼には伝えられていなかった。
――『お前を妻に迎えたのは、私の人生で一番の間違いだったよ』
夫が昨日放ったその言葉が、耳の奥にこびり付いたように離れなかった。
メイドたちからも“泥棒”、“悪妻”だと囁かれ、とても子が出来たと言い出せる雰囲気ではなかった。
それに、“ロナルドの子を妊娠している”と口にしたところで、嘘つき呼ばわりされる可能性だってある――ヴィオレッタは、まだ目立たない腹部をそっと包むように手を添えた。
「美しい川の流れを見て、癒やされたいのです……この子もきっと喜びますわ」
「リリアーヌさん、危険よ。昨日の雨で足元も滑りやすいでしょう? 何かあったら大変ですもの」
そう口にしたヴィオレッタを、ロナルドは険しい顔で一瞥した。
「リリアーヌ、川はやめておこう」
「嫌です! 絶対に川辺を歩きたいと思っていたんです」
「ロナルド様、どうしても駄目ですか?」と悲しそうに見上げたリリアーヌに、ロナルドは渋々川に行くことを受け入れた。
「リリアーヌ、疲れたらすぐに言うんだぞ」
「ロナルド様……わたくしは少し体調が悪くて、部屋に戻らせていただきたいのですが」
「そんな……ヴィオレッタ様も一緒に行きましょうよ」
(どういうおつもりなのかしら……)
無邪気に袖を引くリリアーヌに、ヴィオレッタは困惑した。
愛人が正妻と散歩したがるものだろうか――
だが、リリアーヌの大きな青い瞳は青空のように澄んでいる。
腐った林檎の差し入れは、彼女を慕うメイドの独断だったのかもしれない――ヴィオレッタはそう思った。
「でも……わたくしがいない方がゆっくり過ごせるのでは……」
そうおずおずと返したヴィオレッタに、ロナルドは鋭く目を細めた。
「リリアーヌが望んでるんだ。少しくらいなら良いだろう」
ロナルドの鋭い視線は、まるでヴィオレッタに「見張っているぞ」と言わんばかりだった。
『リリアーヌに手を出すことは許さない』――浮かんだのは、彼のその言葉だった。
◇
別荘地を流れる川の水は、予想通り昨夜の雨で増水していた。
大きな川で流れはそれほど速くは見えないが、水が音を立てて流れている。
騎士たちは、臨月を過ぎた身重の体でふらふらと歩き回るリリアーヌから目が離せなかった。
「リリアーヌ様、あまり川に近付くのはおやめください。危険ですから」
騎士たちの厳しい視線に、リリアーヌはロナルドに隠れるように体を寄せた。
「ロナルド様……騎士の方がいたら、落ち着きませんわ」
「穏やかな気持ちになりたくて来たのに……これじゃあ気も休まりません」と困り顔のリリアーヌに縋られ、ロナルドは騎士たちを離れた場所に下がらせることにした。
「お前たちは、あの辺りで待っていろ」
「ですが、もし何かあれば――」
「なに、リリアーヌの一人くらい私が守れるさ」
ロナルドの言葉に、ヴィオレッタの胸は押し潰されるようだった。
そんなヴィオレッタに、騎士たちは気遣うような視線を向けた。
「侯爵様……川は昨夜の雨で増水しています。もし奥様に何かあれば――」
「気にしなくて良い。こう見えて、殺しても死なないような図太い女だ」
ロナルドが軽く口にしたその言葉に、騎士たちは顔を険しくし、リリアーヌの青い瞳はゆるく弧を描いた。
俯いたヴィオレッタの瞳には、もう何も映ってはいなかった。
「奥様、くれぐれもお気を付けください。あちらに控えておりますので」
「ええ……ありがとう」
どこか虚ろな瞳のヴィオレッタに、騎士たちは心配そうに振り返りながら離れていった。
こうして、ロナルドの命により騎士たちは離れた場所に待機させられた。
(……リリアーヌさんの願いなら、何だって聞くのね)
仲睦まじく寄り添う二人から離れるように、ヴィオレッタは川辺へと一人で足を進めた。
今はもう、何も考えたくはなかった。
「リリアーヌ、私からあまり離れるな」
「大丈夫ですわ。……もし何かあっても、ロナルド様が助けてくださるのでしょう?」
「それは、そうだが……」
「わたし、この子を生む前にヴィオレッタ様と仲直りしたいんです……わかってくださいますよね?」
僅かに眉を寄せながらも何も返さないロナルドに、リリアーヌは満足げに微笑んだ。
「ふぅ……歩いたら、少し暑くなっちゃいました」
リリアーヌは、脱いだファーコートをロナルドにそっと押し付けるように渡した。
「リリアーヌ、体を冷やすといけない」
「汗ばんでしまって……少しだけ風に当たってきます」
リリアーヌはふんわりとした淡いピンク色の裾を揺らしながら、川辺に一人佇むヴィオレッタにゆっくりと近付いた。
「……ヴィオレッタ様、ご機嫌いかがですか?」
小首を傾げて覗き込んできたリリアーヌに、ヴィオレッタは小さく拳を握った。
(一人になりたいのに……)
リリアーヌの長い金の髪が、冷たい風にさらさらと揺れている。
ヴィオレッタには、笑顔で近付くリリアーヌの気持ちが理解できなかった。
憎んでいるわけではない。
けれど、ロナルドに心から愛され、大切にされている彼女を見るのが辛くて仕方なかった。
許されるのなら、すぐにでもこの場から離れたかった。
「……リリアーヌさん、ロナルド様が心配そうに見ているわ。ここは危ないし、戻った方が良いわよ」
俯いたままで、そう小さく口にしたヴィオレッタに、リリアーヌは「ふふっ」と小さく笑った。
(リリアーヌさん……?)
いつもと違うリリアーヌの雰囲気に、ヴィオレッタは顔を向けた。
リリアーヌの細められた青い瞳は、弧を描いてヴィオレッタを見つめている。
「ねぇ、ヴィオレッタ様……わたしたちが川に落ちたら、ロナルド様はどうすると思いますか?」
無邪気に囁かれた甘い声に、ヴィオレッタは静かに息を呑んだ。
その顔を見て、リリアーヌの花びらのような唇が弧を描いた。
それは美しい――悪魔のような微笑みだった。
「リリアーヌさん、何を――」
「きゃあっ!! ヴィオレッタ様!!」
リリアーヌはそう甲高く叫ぶと、ヴィオレッタの両手首を掴んで川へと倒れ込んだ。
大きな水飛沫が上がり、ヴィオレッタとリリアーヌは轟々と流れる水面に沈んだ。
「リリアーヌ!!」
ロナルドはコートと上着を脱ぐと、すぐさま川に飛び込んだ。流されていくヴィオレッタには目もくれず、リリアーヌに向かって真っ直ぐに泳ぐ。
「ロナルド様、助けて! ロナルド様ぁ!!」
「リリアーヌ、すぐに行くからな!」
バシャバシャと激しくもがくリリアーヌに、ロナルドは手を伸ばした。
リリアーヌの叫ぶ声に、弱々しいヴィオレッタの声はかき消された。
「リリアーヌ!」
「ロナルド様ぁ……!」
リリアーヌの腕を掴み抱き寄せると、ロナルドは必死に泳いで川辺へと這い上がった。
「リリアーヌ、大丈夫か……?」
肩で息をするロナルドの胸に、リリアーヌは「ロナルド様、怖かった……」と震えながら縋り付いた。
「ロナルド様、助けて……!」
遠くから聞こえた叫び声に、ロナルドは顔を向けた。
そこには、もがきながら流されていくヴィオレッタの姿があった。
水面から必死に顔を出し、ロナルドを見つめている。
「ロナルド様……わたくしにも、ロナルド様の、赤ちゃんが……!」
川の流れる音で、ヴィオレッタの声は途切れ途切れにしか届かなかった。
(赤ちゃん……? 嫉妬で気でも触れたのか……)
秋には泉に――今日は、ロナルドの目の前で濁流にリリアーヌを落としたのだ。
泣きじゃくるリリアーヌを抱き締めながら、ロナルドは俯いた。
(ヴィオレッタは、リリアーヌとお腹の子を殺そうとした……きっとまた――)
震えるリリアーヌを抱き締めるロナルドに、ヴィオレッタの叫びはもう届かなかった。
「ロナルド様……!」
最後に、ヴィオレッタは夫の名を叫んだ。
だが、彼から一瞬だけ向けられたのは、川の水よりも冷たい眼差しだった。
(ロナルド様……)
叫ぶ気力もなくしたヴィオレッタは、まるで木の葉のように川の流れに飲み込まれていった。
騎士たちが川辺に駆けてきたときには、もうその姿は欠片も見えなかった。




