15話 悪妻
リリアーヌは、部屋を訪れたアレクシアの姿に嬉しそうに微笑んで一礼をした。
「お義母さま、ご機嫌よう。来てくださったのですね」
「リリアーヌさん、御機嫌よう……体調はいかがかしら?」
「はい。おかげさまで順調ですわ」
「ヴァルデン家の跡継ぎを楽しみにしてるわ」と笑うアレクシアに、リリアーヌはふわりと目を細めた。
「お義母さま……それは、どうされたのですか?」
リリアーヌの少しだけ細められた青い瞳が、アレクシアの握る金の鎖を捉えた。
「ああ……これはね、さっきヴィオレッタさんから取り返したのよ」とアレクシアは手のひらの赤い宝石を見せた。
「ロナルドから誕生日祝いにもらったルビーよ。ヴィオレッタさんに盗まれていたの」
「まあ! ……そんなことが?」
口元に小さな手を当て、リリアーヌは目を丸く見開いた。
その様子は、まるで心底驚いているかのように見えた。
「こんな話、胎教に悪いわね……侯爵家としても恥でしかないわ。忘れてちょうだい」
微かに笑みを浮かべるリリアーヌは、小さく首を振った。
そして、傍らに控えるメイドにちらりと視線を送った。
◇
夕刻になってから、ヴィオレッタの部屋の扉が叩かれた――
「……お義母様」
扉の外に立つアレクシアの姿に、ヴィオレッタはおずおずと顔を上げた。
ヴィオレッタの菫色の瞳に見つめられたアレクシアは、どこかばつが悪そうに手を差し出した。
「……これを返すわ。息子があなたにも同じネックレスを贈ってたなんて、私は知らなかったのよ」
アレクシアの手のひらにあるルビーのネックレスは、鎖が千切れたままだった。
ヴィオレッタは、彼女の宝石箱から同じルビーのネックレスが出てきたことを聞かされた。
(良かった……)
ヴィオレッタは、これで“義母の宝石を盗んだ”という汚名が晴れたと胸を撫で下ろした。
けれど、アレクシアは悪びれもせず、ヴィオレッタに鎖の千切れたルビーのネックレスを押し付けた。
「安心しましたわ。わたくしは、盗んでなんて――」
「このことは、ロナルドには言わないでちょうだいね」
ヴィオレッタの言葉も聞かずに、アレクシアは背中を向け去って行った。
◇
日が沈む頃、侯爵家の別荘地には雨が降り始めた。
少し薄暗い窓辺のソファで、リリアーヌはロナルドにもたれかかっていた。
「リリアーヌ、もう体調は大丈夫なのか」
「ええ……ロナルド様がお傍にいてくださると、リリアーヌは元気になるんです」
無邪気に微笑んだリリアーヌに、ロナルドは笑いかける。
そして、彼女の大きく膨らんだ腹部にそっと手を伸ばした。
「エーリヒ、早く元気に生まれて来い。父様はお前に会えるのが待ち遠しいぞ」
「まあ……名前を考えてくださったのですか?」
青い瞳を輝かせたリリアーヌに、ロナルドははにかんだ。
「もし娘なら、アデリナ……どうだろうか」
「とっても素敵! ……女の子でも、喜んでくださるのですか?」
「当たり前だろう。私とお前の子だぞ」
柔らかな榛色の瞳がリリアーヌの顔を映し出した。
幸せそうに笑みを浮かべた彼女は、ロナルドの胸に頬を寄せる。
「嬉しい……愛しいロナルド様、リリアーヌは本当に幸せですわ」
「私もだ……愛するお前も私たちの子も、もっと幸せにする」
「父様が守るからな」とリリアーヌを抱き寄せたロナルドは、彼女の髪に口づけを落とすと、膨らんだ腹部を大切そうに撫でた。
◇
別荘地は夜に包まれた。
父親のベルトルトに呼び出されたロナルドは、静かに書斎の扉を叩いた。
「入れ」
書斎の空気は、どこか張り詰めていた。
僅かに顔を強張らせているベルトルトに、ロナルドは様子を窺うような視線を向けた。
「父上、どうされましたか?」
「……妻くらい、きちんと躾けておけ」
厳格な、低い声が落ちた。
ベルトルトはロナルドを一瞥すると、読んでいた書に視線を戻した。
「それは……一体どういった意味でしょうか」
怪訝そうな顔のロナルドに、ベルトルトは片方の眉を僅かに上げた。
「知らないのか? ……まぁ良い、次にまた問題を起こせば、ヴィオレッタには伯爵家に帰ってもらう。我が侯爵家には相応しくないからな」
(問題……? ヴィオレッタが何かしたのか?)
書斎を出てリリアーヌの部屋へ戻る途中、廊下を歩いていたロナルドは囁き声に足を止めた。
「聞いた? ヴィオレッタ様、大奥様の宝石を盗んだらしいわよ」
「そんな……だって、伯爵家のお嬢様だったんでしょう? 泥棒だなんて……」
「淑やかな顔をして、とんだ悪妻ね」と囁き合うメイドたちに、ロナルドは呆然と立ち尽くした。
(ヴィオレッタ……そんなことまでしていたのか)
『悪妻』――先程耳にしたその言葉が、彼の耳から離れなかった。
◇
その日の夜更け。
ヴィオレッタは泣きながら日記を綴っていた。
『涙が止まらない。ロナルド様には、お腹の赤ちゃんのことをまた伝えられなかった。そして、厨房のメイドたちが、わたくしのことを『泥棒』だと言った。わたくしは盗んだりしていない。すべては、お義母様の誤解だったのに……。別荘でも、食事はもらえない。わたくしは、この子を守れるのかしら……』
窓辺に立ったヴィオレッタは、雨に濡れる夜の庭園を眺めた。
彼女のやつれた頬を、涙が止めどなくつたっている。
「弱い母様でごめんね……」
ヴィオレッタの囁くような声が落ちた。
下腹部をそっと撫でる彼女の青白い手は、ひどく細くなっていた。
美しく整えられた庭園の向こうには、大きな川が流れている。
夜空から降り注ぐ雨は、まるで彼女の心の内を現しているかのようだった。
――同じ頃、リリアーヌも同じように窓の外を眺めていた。
「エーリヒ、見える? あそこに大きな川があるのよ……」
リリアーヌは、白く華奢な手で大きく膨らんだ腹部をゆっくりと撫でた。
彼女の大きな青い瞳は、暗く翳っている。
「大丈夫よ……ヴァルデン家の子は、エーリヒだけだから」
呟かれた声は、誰にも聞こえなかった。
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