13話 罠
冬が訪れたばかりの、ヴェルス王国の南東部。比較的温暖な土地とはいえ、吹く風は冷たい。
朝に侯爵邸を発った一行は、昼前には辺境にあるヴァルデン侯爵家の別荘地に着いた。
少し遅れて、ロナルドの両親も到着するそうだ。息子とリリアーヌの子が生まれるのを見るためだろうと、ヴィオレッタは思った。
(気分が悪いわ……赤ちゃんは大丈夫かしら)
ヴィオレッタは膨らみ始めた腹部を労るようにそっと手で触れた。
侯爵邸からそう遠い距離ではないとはいえ、身重の体で馬車に揺られたヴィオレッタはひどくぐったりとしていた。
「ヴィオレッタ……随分具合が悪そうだな」
そのとき、ヴィオレッタに近付こうとしたロナルドを遮るように、リリアーヌが進み出た。
「馬車に酔われたのですか? もう休んだほうが良いのでは……」
ヴィオレッタに気遣うような眼差しを向けたリリアーヌに、ロナルドは愛しげに口元を緩めた。
「リリアーヌは本当に優しいな……」
「リリアーヌ様は、メイドの私たちにもお優しくて……本当に素晴らしい御方ですわ」
ロナルドとメイドたちから褒められたリリアーヌは「そんな……」と恥じらうように笑った。
「あっ! ……ロナルド様、いま赤ちゃんが蹴りました! きっとお腹を空かせているんだわ」
「そうか……すぐに食事の準備をさせよう」
ヴィオレッタの菫色の瞳に、「たくさん食べて元気に生まれてくるんだぞ」とリリアーヌの腹部を大切そうに撫でるロナルドの姿が映った。
(わたくしの赤ちゃんにも、同じように話しかけてくださるのかしら……)
そう思い浮かべようとしたとき、リリアーヌがヴィオレッタの方を向いた。
「……ヴィオレッタ様も、よかったらご一緒にいかがですか?」
「いや……馬車で酔ったのなら、やめておいたほうが良い」
「部屋でゆっくり休んでいると良い。あとでメイドに果物でも運ばせる」と口にしたロナルドに、ヴィオレッタは嬉しそうに目を細めた。
「ロナルド様、ありがとうございます。わたくしは、先に休ませていただきますわ」
ロナルドに気遣われたのは、随分久しぶりのことだった。
(別荘にいる間に、ロナルド様にお話しましょう……)
今のロナルドなら話を聞いてくれるかもしれない――
ヴィオレッタは、穏やかな気持ちで別荘の部屋へと向かった。
◇
「ヴィオレッタ様、リリアーヌ様からの差し入れです」
(リリアーヌさんから……?)
ヴィオレッタが扉を開けると、そこには冷たい瞳のメイドが立っていた。邸でヴィオレッタに食事を運んでいたメイドだった。
「これは……」
トレーの上のガラスの器には、カットされた林檎が乗っていた。
けれど、それはどう見てもひどく傷んでいた。
(こんな林檎、食べられないわ……)
「ごめんなさい。今、食欲がなくて……」
「水しか口にされていませんよね? 少しでも召し上がった方が良いですよ」
ずいと、ヴィオレッタの口元までお皿を差し出したメイド。
ふわりと臭う腐臭に、ヴィオレッタは思わずメイドの手を払い除けてしまった。
――ガシャン、と割れる音が響いて、腐った林檎が床に転がった。
「ごめんなさい、こんなつもりじゃなかったのよ……せっかくだけど、それはいただけないわ」
「傷んでいるみたいだから」と小さく付け加えたヴィオレッタに、メイドは目をすっと細めた。
彼女は、割れた器の破片と林檎をトレーに乗せて静かに去っていった。
その後――
「リリアーヌ……どうした?! 何故泣いているんだ」
「うっ……ロナルド様……ヴィオレッタ様が……」
泣きじゃくるリリアーヌを気遣うように、メイドたちが進み出た。
「ヴィオレッタ様が、リリアーヌ様が差し入れた林檎を――」
メイドから“ヴィオレッタが『そんなものは食べられない』と器ごと打ち捨てた”と聞かされたロナルドは、瞳を見開いた。
「ヴィオレッタが……彼女が、そんなことを……」
信じられないといった表情でメイドたちを見つめるロナルド。
彼を見上げたリリアーヌは、ポロポロと涙を零しながら訴えた。
「わたし、せっかくヴィオレッタ様と仲良くしたいと思ったのに……うぅっ……お腹が、痛い……」
「リリアーヌ! 大丈夫か?! すぐに医師を呼べ!」
リリアーヌの下腹部痛は、精神的な負担から起きたお腹の張りによるものだろうと診断された。
安静にすれば落ち着くはずだと医師に言われたロナルドは、ひとまず胸を撫で下ろした。
「旦那様、これですわ。……ヴィオレッタ様がなさったんですよ」
診察を終えた医師を見送ってから、メイドが割れたガラスの器をロナルドに差し出した。
「これを、ヴィオレッタが……」
見開かれた榛色の瞳は揺れている。
ロナルドの様子を見て、寝台に横たわるリリアーヌの青い瞳はほんの微かに弧を描いた。
「リリアーヌ、私は少し出てくる……ゆっくり休んでいてくれ」
「ロナルド様……」
「大丈夫だ、何も心配は要らない……お前も――お腹の子も、私が守る」
そう低く告げ、静かに部屋を出ていったロナルド。
遠ざかる靴音に、リリアーヌはゆっくりと体を起こした。
「林檎をちょうだい」
響いた愛らしい声に、メイドが林檎を手にする。
「リリアーヌ様、お切りいたします」
「そのままで良いわ」
艶のある真っ赤な林檎に、リリアーヌは小さく齧りついて微笑んだ。




