第8話 託された最後の証
人は、自分の最期に、何を遺すのか。
その問いの答えを、私は、いちばん見たくない形で、知ることになった。
書庫の床に、オーレリアは、倒れていた。
「オーレリアさま!」
抱き起こす。彼女の上着は、暗く、濡れていた。ひと目で、もう、手の施しようがないと、わかった。
それでも、私は、認めたくなかった。
「待ってください。今、人を――」
「ロザリン……嬢」
オーレリアの手が、私の手を、弱く、握った。
「証は……渡しました」
「え?」
「あなたに……もう、渡して、あるの」
意味が、わからなかった。私は、まだ、何も、受け取っていない。
「いつ……いつ、ですか」
オーレリアは、かすかに、微笑んだ。あの、やわらかな微笑みで。
「あなたは……賢い。だから……自分で、気づきなさい。本物の色は……あなたの、いちばん、近くに……ある」
「オーレリアさま、しっかり!」
「王妃さまの……願いを……どうか……」
彼女の手から、力が、抜けていった。
私は、彼女を抱いたまま、動けなかった。涙は、こぼれなかった。こぼす資格が、ない気がした。
師を喪い、いま、味方を、喪った。私を信じてくれた人が、また、ひとり、消えた。
胸の奥で、何かが、静かに、けれど確かに、燃え上がった。
悲しみは、いつのまにか、形を、変えていた。胸に残ったのは、ただ、ひとつの、決意だった。
「君のせいじゃない」
駆けつけたセドリックは、何度も、そう言った。
「彼女は、自分で、選んだんだ。命をかけて、君に、道を残した。それを、無駄にするな」
「ええ。わかっています」
わかっていた。だからこそ、立ち止まれなかった。
書庫は、ひどく、荒らされていた。棚は倒され、古い記録が、床一面に、散らばっている。何者かが、何かを、血眼で、探した跡だった。
(王妃さまの証を、探したのね)
けれど、棚のどこにも、布の見本らしきものは、なかった。彼らは、目当てのものを、見つけられないまま、ただ、すべてを、めちゃくちゃにして、去ったのだ。
(そこまでして、欲しいもの。それほど、恐れているもの)
私は、散らばった記録を、ひとつ、ひとつ、拾い集めた。その中に――彼らが見落とした、一枚が、あった。
オーレリアが、私に渡そうとしていた、シエナの出生の記録。倒れた棚の、いちばん奥に、滑り込んでいた。震える手で、それを、懐に、納める。
たとえ、目当ての証が、彼らの手で、消されても。残された、小さな証言の、ひとつひとつが、いつか、力に、なる。
そう信じて、手を、動かした。指先は、震えていた。それでも、止めなかった。
拾いながら、私は、オーレリアという人のことを、考えていた。
氷のようだと、皆に思わせて。疑われ役を、たったひとりで、引き受けて。誰にも、打ち明けられぬまま、亡き王妃の願いだけを、胸に、抱え続けて。どれほど、長く、ひとりきりで、凍えていたことだろう。
私は、彼女の孤独に、最後の最後まで、気づけなかった。敵だと、思い込んでいた。わかりやすい敵を、欲しがっていたのは、私のほうだったのだ。
(せめて、もっと早く、あなたの手を、取れていたら)
けれど、悔やんでいる時間は、なかった。彼女が命がけで残した道を、ここで止めれば、その死が、無駄になる。
では、彼女の言う「証」とは、何なのか。
私は、オーレリアの、最後の言葉を、何度も、頭の中で、繰り返した。
――本物の色は、あなたの、いちばん、近くに、ある。
私は、自分の持ち物を、ひとつひとつ、確かめた。手紙。糸。布。
そして、ふと、手が、止まった。
◇
オーレリアが、いつか、私に贈ってくれた、一枚の手巾。
地味な、深い紫の手巾。あのときは、ただの贈り物だと、思っていた。「あなたに、似合うから」と、彼女は、それだけ言って、押しつけるように、渡してきた。
(……まさか)
私は、その手巾を、窓辺の光に、かざした。
青と赤に、分かれない。色は、ひとつに、深く、溶けている。
陽に当てても、痩せない。指で、強く擦っても、移らない。
本物の――貝紫だった。
王妃さまが遺された、本物の貝紫。それを、彼女は、ただの手巾に仕立てて、ずっと前から、私に持たせていたのだ。誰にも、気づかれないように。彼らが、書庫を、どれほど荒らそうと、見つかるはずが、なかった。
いちばん安全な、敵が決して探さない場所。それは、追われ、疑われ、何もかも奪われた、私自身の、ふところの中だった。
「セドリック」と私は、声を、震わせた。「これが……証よ。オーレリアさまは、最初から、すべてを、見通していた」
「……命をかけて、これを、守り抜いたんだな」
私は、手巾を、そっと、胸に抱いた。あなたの想いは、無駄には、しません。決して。
手巾の、深い紫を、指で、なぞる。
針目の、ひとつひとつに、オーレリアの、覚悟が、縫い込まれていた。気づかれれば、奪われる。奪われれば、終わる。だから彼女は、それを、ただの贈り物として、私の手に、滑り込ませた。
「あなたに、似合うから」――あのときの、ぶっきらぼうな声が、よみがえる。
あれは、照れ隠しでは、なかった。あれが、彼女の、精一杯の、信頼の、言葉だったのだ。
(私は、何も、気づかなかった)
喉が、詰まる。けれど、今度も、私は、泣かなかった。今は、泣くときでは、ない。すべてを、見届けてから。それが、ニコの、教えだった。オーレリアも、きっと、同じ思いで、いてくれる。
「セドリック」と私は、顔を、上げた。「私、決めたわ。公の場で、すべてを、明らかにする。隠れてではなく、皆の、目の前で」
「正面から、か」と彼は言った。「いちばん、危ない道だ」
「ええ。でも、いちばん、確かな道。色は、光の下でこそ、本当の姿を、見せる。私たちの、証も、同じ」
セドリックは、しばらく、私を、見つめた。それから、ふっと、表情を、ゆるめた。
「……わかった。なら、私は、君が、最後まで、立っていられるように、する。それだけは、約束する」
「うん」
短い、ひと言だった。けれど、その「うん」は、私が、長いあいだ、誰にも、言えなかった言葉だった。誰かに、寄りかかることを、許す言葉。
私は、手巾を、胸に当てたまま、ほんの少しだけ、彼の、肩に、頭を、預けた。
彼は、動かなかった。ただ、私の重みを、静かに、受け止めて、そこに、いてくれた。
私は、宮廷に、正式な裁定の場を、求めた。
たかが、追われた令嬢の、願いだ。普通なら、握りつぶされる。
けれど、染料商バルトの控え、私が集めた偽物の数々、ナタリーの仕込んだ目印、オーレリアが命がけで遺した出生の記録、そして――この、本物の手巾。
それらを束ねた書状を、私は、女官の手を借りて、国王陛下に、直に、届けた。
数日後、返答が、来た。
「公の場にて、これを検める」
裁定の日が、決まった。
ガラン公爵は、余裕の笑みを、崩さなかった。シエナは、勝ち誇ったように、また紫のドレスを、身につけているという。婚約者だった殿下は、ひと言も、私を、弁護しなかった。
味方は、もう、ほとんど、いない。
けれど、私のふところには、本物の紫が、あった。ニコの遺した、火と水の糸が、あった。バルトの、ふるえる手で差し出された控えが、あった。物言わぬものたちが、声を持たないまま、私の側に、並んでいた。
人は、裏切る。噂に流され、利に転び、保身に走る。けれど、色は、流されない。手をかけた色は、何年経っても、光の下で、同じ深さを、返してくる。私は、人ではなく、色を、証人に、選んだのだ。
それでも、私は、立つと、決めた。
師のために。オーレリアのために。そして、踏みつぶされた、名もなき職人たちのために。
たとえ、たった、ひとりでも。
色だけは、私を、裏切らない。私は、その色を、信じる。




