第7話 公爵の牙
賢い敵は、決して、自分の手を汚さない。汚れ役を、他人に着せて、その背後で、静かに微笑んでいる。
ガラン公爵は、まさに、そういう男だった。
召喚の場で、公爵は、穏やかに微笑んでいた。
ふくよかな手。仕立ての良い上着。声は低く、よく通る。誰もが、彼を信じたくなる声だった。
「ロザリン嬢。残念だよ」と公爵は言った。「婚約を解消された腹いせに、これほどのことをするとは。師を手にかけ、偽物まで作るとは、ね」
「公爵さま。私は、何も――」
「証拠なら、ある」
公爵が手を上げると、従者が、染めの道具と、偽の紫の布を運んできた。
「これらは、君の隠れ家から見つかった。君が、偽物を作っていた、動かぬ証だ」
仕込まれたのだ。私の動きを読んで、先回りして。
私は、息を、整えた。ここで取り乱せば、向こうの思うつぼだ。膝の上で、両手を、そっと重ねる。
「公爵さま。ひとつ、伺っても?」
「なんなりと」
「その布の、紫。皆さまの前で、光に透かしても、よろしいですか」
公爵の眉が、わずかに、動いた。けれど、断れば、かえって怪しまれる。彼は、鷹揚に、うなずいた。
私は、窓辺に、布をかざした。集まった廷臣たちにも、見えるように。
「ご覧ください。青と赤が、二層に分かれて、透けています。これは、安い染めを重ねて似せた、偽の紫。本物の貝紫なら、色はひとつに溶けて、決して、分かれません」
ざわめきが、起こる。
「つまり、これは、本物の工房では、決して作らない品。私が作ったというなら――私は、自分の工房の名を汚す偽物を、わざわざ、自分の隠れ家で作っていたことになります。理屈に、合いません」
公爵の微笑みは、崩れなかった。さすが、と思うほどに。
「面白い。だが、布が偽物だからといって、君が無実とは、限らんよ。職人なら、自分を陥れるために、わざと粗末な品を残すことも、できる」
「ええ。ですから、これは、ただの“ほころび”です。糸は、これから、私が、たぐります」
私は、礼をして、その場を、辞した。背中に、公爵の視線が、突き刺さっていた。
◇
その夜、私とセドリックは、ひそかに、染料商バルトと、落ち合った。
バルトは、太った、小心そうな男だった。けれど、目だけは、抜け目なかった。
「俺は、ただの商人だ」とバルトは言った。「売れと言われた物を、売るだけさ。だが、最近は、寝覚めが悪くてね」
「南の倉のことを、教えて」とセドリックが言った。
「……公爵さまの倉だ。表向きは、ただの商いの倉。だが、夜ごと、安い染料が、山ほど運び込まれて、別の荷になって、出ていく。中で、何が作られてるかは、わかるだろう」
「偽の高級織物」と私は言った。
「ああ。安く作って、本物の値で売る。本物の職人を、潰して、市場を、丸ごと、ひとり占めにする魂胆さ。あの方は、利のためなら、何でもする。ニコの爺さんのことも――たぶん、邪魔だったんだろうよ」
私は、拳を、握った。利のために、人の暮らしを、潰す。誇りも、命さえも、邪魔なら、消す。
「セドリック」と私は、声を、ひそめた。「公爵は、なぜ、ここまでするの。あの方は、すでに、十分すぎる富と、力を、お持ちでしょう」
「足りる、ということを、知らない人間がいる」と彼は答えた。「持てば持つほど、失うのが、怖くなる。だから、もっと、もっと、と。市場を、丸ごと、握れば、もう、誰にも、脅かされない。そう、思っているんだろう」
「でも、その足元で、何人もの職人が、潰れている」
「あの方には、見えていないのさ。糸を紡ぐ手も、染める手も。利益という、ひとつの色しか、見ていない」
私は、王立染織工房に、初めて立った日のことを、思い出した。
ニコが、私に言った。「この工房はな、王家のためだけにあるんじゃない。ここで育てた色も、技も、いずれ、町の染師に、村の織り手に、伝わっていく。みんなのものになる。だから、ごまかしは、許されんのだ」と。
色は、誰かが独り占めするためのものではない。手から手へ、渡っていくものだ。公爵がしているのは、その流れを、せき止めて、淀ませることだった。淀んだ水が、やがて、腐るように。
私は、唇を、噛んだ。
利益という、ひとつの色。それは、藍の青より、貝紫より、ずっと、平たくて、冷たい色だ。
「ならば」と私は言った。「見せてやりましょう。ほかにも、色は、いくらでも、あるのだと。手をかけた色が、どれほど、深く、美しいかを」
セドリックが、私を、見た。その目に、かすかな、熱が、あった。
「……君は、強いな」
「いいえ。色が、強いの。私は、それを、借りているだけ」
「証言してくれる?」と私は尋ねた。
バルトは、額の汗を、拭った。
「証言、ねえ。公爵さまを、敵に回すってことだ。俺みたいな小者は、ひとひねりさ」
「あなたが、黙っていても」と私は言った。「いずれ、偽物は、あふれ、本物の職人は、ひとり残らず、潰れる。あなたの、取引相手も。そうなれば、あなたの商いも、終わりよ」
バルトの手が、止まった。
「偽物は、最初は、儲かる。でも、市場に、偽物しかなくなれば、誰も、高い値を、払わなくなる。本物が、消えた市場は、やがて、ただの、まがい物の山。あなたが、いちばん、わかっているはずよ」
「……嬢ちゃん。あんた、商人より、商人だな」
バルトは、苦笑いして、首の後ろを、掻いた。それから、ようやく、腹を、決めたようだった。
「……命が惜しい。だが」とバルトは、ためらいながら、一枚の紙を、差し出した。「これは、倉の荷の、出入りの控えだ。公爵さまの印が、押してある。これで、勘弁してくれ」
私は、その紙を、受け取った。震える手で書かれた、出入りの控え。日付と、荷の量と、行き先。安い染料が入り、本物を騙る品が出ていく、その流れが、はっきりと、刻まれていた。
「ありがとう、バルト」と私は言った。「あなたは、いま、いちばん勇気のいる色を、選んだのよ」
「色、ねえ」とバルトは、ぼやいた。「俺には、よくわからん。だが、あんたを見てると、なんとなく、わかる気がしてくる。本物の顔ってのは、ああいう顔か、ってな」
帰り道、暗い廊で、私の足が、もつれた。
セドリックの手が、とっさに、私の肩を、支えた。
「……すまない」
「いいえ」
彼の手は、温かかった。私は、その手のぬくもりを、しばらく、動かさずに、いた。
「セドリック。あなたが、いてくれて、よかった」
それだけ言うのが、精一杯だった。彼は、何も言わず、ただ、手の力を、少しだけ、強くした。それで、十分だった。
数日後の夜、オーレリアから、文が届いた。
「シエナの素性を記した書付を、お渡しします。そして、王妃さまが遺された“最後の証”が、どこにあるのか――それも、お伝えします。すべての証が、揃います」と。
私は、文を、握りしめた。あと、ひと息。そう、思っていた。
けれど、その晩――城の方角で、人の、叫び声がした。
胸騒ぎがした。私は、書庫へ向かって、走り出していた。
走りながら、ただ、祈っていた。どうか、間に合って、と。




