第6話 一番近い場所からの裏切り
いちばん深く刺さる刃は、いつも、いちばん近い手から、差し出される。
それを知っていてなお、私は、最後まで、信じたかった。信じたかった、と思う。
目印を仕込んだ手順を、その癖のまま外に流した相手は――ナタリーだった。
私は、それでも、確かめた。確かめずに断じるのは、私のやり方では、ない。
別々の手順書には、それぞれ、ほんの少しずつ違う癖を、仕込んでおいた。市場に出た偽物の癖は、ナタリーに渡したものと、寸分たがわず、一致していた。
見て、確かめて、ひとつずつ、裏を取った。色は、ひとつも、嘘をつかなかった。
人だけが、嘘をついていた。
私は、ナタリーを、ニコの染め場に呼んだ。あの人が倒れていた、あの場所に。
「ロザリン様。こんなところに、何の御用でしょう」
ナタリーは、いつものやさしい笑みのままだった。その笑みを、私は、何百回、見てきただろう。
私は、二枚の布を、作業台に、静かに並べた。
「ナタリー。この目印、覚えている?」
彼女の笑みが、わずかに、固まる。
「これは、私が、あなたにだけ渡した手順の、目印。そして、こちらが、市場で見つかった偽物。……同じものよ。染めの癖まで、ぴったり、同じ」
「……何の、ことでしょう」
「とぼけないで。お願い。それだけは、しないで」
私の声は、震えなかった。けれど、心は、軋んでいた。
ナタリーは、しばらく、黙っていた。やがて、笑みを消し、深く、息を吐いた。長い、長い息だった。
「……いつから、気づいていたの」
胸が、ひやりと、冷えた。それは、もう、認めているのと、同じだった。
「ニコの台の下に、あなたの染めた糸が、落ちていたわ。半端な媒染の、赤。あれを見たときから」
「あの人は……勘づいていたのよ」とナタリーは言った。「私が、外に手順を流していることに。だから、私を、問いつめようとした。でも――あの人を、手にかけたのは、私じゃない!」
ナタリーが、初めて、声を荒らげた。
「私は、ただ、手順を渡しただけ。あの人を殺すなんて、聞いてなかった。まさか、あんな……私だって、こわかった。今でも、夢に見るのよ……」
彼女の目から、涙が、こぼれた。
「どうして、ナタリー。どうして、こんなこと」
「あなたには、わからないわ」
ナタリーの声に、初めて、別の色が、混じった。長く、澱んでいた、暗い色。
「あなたは、生まれながらに伯爵令嬢で、工房を任されて。私は、どんなに腕を上げても、ずっと、あなたの“右腕”。一生、二番目。誰も、私の名前なんて、覚えない。……ある人が、言ったの。協力すれば、あなたの代わりに、私が、工房を継げると」
「ある人?」
ナタリーは、口をつぐんだ。けれど、その目が、宮廷の奥のほうへ、ちらりと、泳いだ。
私は、その視線の、行き先を、見た。
広い宮廷の、奥。最も、日の当たる、高い場所。そこに、すべての糸を、握る者が、いる。
(あなたは、利用されたのね、ナタリー)
怒りよりも、哀しみが、勝った。彼女もまた、もっと大きな手に、染められた、一本の糸に、すぎなかったのだ。
けれど――糸であることは、罪を、消さない。手順を流した、その手は、確かに、彼女の、手だった。
「シエナ、ね」と私は言った。「あの、偽りの紫の人。彼女が、間に立っていた」
「……あの女も、ただの道具よ」とナタリーは、吐き捨てた。「男爵令嬢だなんて、嘘。家柄も、紹介状も、ぜんぶ、偽物。本当に糸を引いているのは、もっと、上。宮廷で、いちばん――」
そのとき、戸の外で、物音がした。
ナタリーの顔から、血の気が、引く。
「もう、いい。これ以上は、言えない。言ったら、私も、ニコさんと、同じに……」
「ナタリー!」
彼女は、逃げるように、染め場を出ていった。私は、追わなかった。追わずとも、もう、終わっていた。
裏切りは、明らかになった。けれど、勝った気は、少しも、しなかった。
ただ、胸の奥が、空っぽだった。
私は、誰もいない染め場で、ひとり、座り込んだ。
ナタリーと、初めて会ったのは、まだ、ふたりとも、子どもの頃だった。
工房の隅で、私が、藍に布を浸して、青くなるのを、飽きずに眺めていたとき。隣に来て、同じように、目を輝かせていたのが、彼女だった。
「すごい。魔法みたい」と、彼女は言った。
「魔法じゃないわ。空気よ」と、私は、得意げに、教えた。
あの日から、私たちは、いつも、一緒だった。同じ色を、追いかけて。
夜遅くまで、染め場に残って、媒染の効きを比べ合ったこともあった。どちらの赤が、長持ちするか。何枚も布を染めては、窓辺に並べ、何日も、見守った。負けたほうが、翌朝の桶洗いをする――そんな、他愛ない賭けを、何度もした。
ナタリーは、いつも、もう一歩のところで、私に、及ばなかった。けれど、そのたびに、悔しそうに笑って、「次は負けない」と言った。
私は、その言葉を、ただの口癖だと思っていた。彼女の中で、その「次」が、どれほど重く、積もっていたかを、知りもせずに。
(どこで、ずれてしまったのだろう)
腕を上げるごとに、彼女は、私の“右腕”と、呼ばれた。私は、それを、誇らしいと、思っていた。けれど、彼女にとって、それは、ずっと、二番目の、烙印だったのだ。
私が、気づいてあげられていたら。一度でも、彼女の名を、ちゃんと、呼んでいたら。何かが、違ったのだろうか。
答えは、出ない。けれど、ひとつだけ、確かなことがあった。
彼女が、手順を流したことと、ニコが、命を奪われたことは、別の罪だ。混ぜては、いけない。
裏切りは、裏切りとして。けれど、ニコを手にかけた、本当の手は、別にある。
私は、立ち上がった。膝が、震えていた。それでも、立った。
涙は、まだ、流さない。確かめ終えるまでは。ニコの教えを、胸の奥で、握りしめて。
◇
その夜、女官長オーレリアが、私の隠れ家を、訪ねてきた。
「すべて、聞きました」と彼女は言った。「ナタリーは、もう、逃げられない。あの娘の罪は、あの娘自身の手で、明るみに出るでしょう。あなたが、声を荒らげなくても」
「ええ。色が、語ってくれます」
「ロザリン嬢」
オーレリアは、私の手を、取った。氷のような女官長の手は、思いのほか、温かかった。
「私たちは、もう、敵では、ありません。亡き王妃さまの証を、お渡しする時が、近づいています。けれど――その前に、覚悟を、なさい」
「覚悟?」
「糸を引いている“いちばん上”は、宮廷で、最も力を持つお方。ガラン公爵。あの方は、賢く、決して、正面からは、崩れない。これからが、本当の戦いです」
彼女の言葉の通りだった。
その翌日、私のもとに、宮廷からの召喚状が、届いた。
罪状は――「師ニコ殺害、ならびに、偽造織物製造の、首謀者」。
私は、その紙を、灯りに透かした。癖で、そうしてしまう。透かしても、そこには、ただ、冷たい墨の文字が並ぶだけだった。けれど、私は、奇妙なほど、落ち着いていた。
(追いつめられているのは、私じゃない)
罪を、私に、なすりつけようとするのは、向こうが、焦っている証だ。下手に隠した縫い目が、布の表に、くっきり響くように、嘘は、覆おうとするほど、かえって、形を、あらわにする。この召喚状そのものが、向こうの手の、いちばん大きな染みだった。
差出人の印は、ガラン公爵の、ものだった。




