第5話 沈黙する女官長の真意
人を疑うとき、私たちは、見たいものだけを見てしまう。
その落とし穴に、私もまた、まっすぐ落ちかけていた。気づきもせずに。
女官長オーレリア。宮廷の奥を束ねる、氷のような女性だ。
工房を追う通達への、署名。私が集めた偽物の、押収。偽の染料の符牒に、記された名。
(この人が、つながっている)
三つの線が、彼女ひとりに集まる。誰だって、そう思うだろう。
けれど、線が集まりすぎるときは、誰かが、わざと集めているのかもしれない。
その用心を、私は、忘れかけていた。
宮廷に忍び込み、女官長の部屋を訪ねると、オーレリアは振り向きもせずに言った。
「無謀なことを。捕らえられたいの」
「女官長さま。ひとつ、伺いたいのです」
「答える義理は、ありません」
「あなたは、偽物の染料を、買っていますね」
オーレリアの手が、止まった。ほんの一瞬。けれど、私はその一瞬を、見逃さなかった。
「……何の話かしら」
「符牒に、あなたの名があります。なぜ、偽物を、集めているのですか」
長い沈黙のあと、オーレリアは、ゆっくりと振り向いた。
その目は、氷では、なかった。深い、疲れた色をしていた。長く眠っていない者の、目だった。
「ロザリン嬢。あなたは、賢いつもりで、半分しか見えていない」
彼女は、机の引き出しから、小さな布の包みを取り出した。
中身は、偽の紫の端切れ。けれど、私が集めたどれとも、違っていた。日付らしき印と、出どころを記した小さな紙が、丁寧に縫いつけられていた。
「私は、買い集めているの。いつ、どこに、どんな偽物が出たか――それを、ひとつずつ、記録するために」
「記録……」
「亡き王妃さまの、ご遺命です」
息が、止まりかけた。
「王妃さまは、亡くなる前に、気づいておられた。王家の色が、偽物に汚されはじめていることに。けれど、相手は宮廷の奥深くにいる。証を集めなければ、誰も信じない」
「だから私は、疑われ役を、引き受けたの。氷のような女だと、皆に思わせて。そのほうが、動きやすいから」
私は、自分の頬が、熱くなるのを感じた。恥ずかしさで。
私は、見たいものだけを、見ていた。氷のような女官長、という、わかりやすい敵を。
「では、なぜ、私を工房から外す通達に、署名を」
「あなたを、外へ出すためです」
オーレリアの声が、わずかに、和らいだ。
「工房の中に、漏らしている者がいる。あなたが中にいれば、その者は、尻尾を隠したまま。あなたが外に出て、自由に動けば――必ず、向こうが、焦って動く。あなたを、囮にしたの。勝手なことを、ごめんなさいね」
私は、しばらく、言葉が出なかった。
敵だと思っていた人が、私と、同じものを、ずっと守っていた。たったひとりで、誰にも理解されずに。
「ロザリン嬢」とオーレリアは言った。「亡き王妃さまが、遺された、ただひとつの証が、あります。けれど、今、軽々しく表に出せば、ただ、奪われて、終わる」
「王妃さまは」とオーレリアは、遠くを見て、言った。「染めを、愛しておられた。ご自分でも、糸を染められた。“色には、嘘がつけないから、心が休まる”と、よく仰って」
胸を、突かれた。同じことを、私も、思っていたから。
「王妃さまは」とオーレリアは、続けた。「身分も、しきたりも、いっさい持ち込まずに、ただ、色とだけ、向き合われる時間を、何より、大切にしておられた」
「“この桶の前では、私は、王妃ではなく、ただの染め手でいられる”と。あの方にとって、染め場は、たったひとつの、自由な場所だったのです」
私は、王妃の顔を、知らない。けれど、その言葉だけで、なぜか、深く、わかる気がした。色の前では、誰もが、ただの一人の人になる。爵位も、噂も、そこには、入ってこられない。
(私が、染め場を、手放したくないのも、きっと、同じ理由)
「亡くなる前、王妃さまは、私に、本物の貝紫を、託されました。これさえあれば、いつか、偽りを、暴ける、と」
「その布は、もう、誰にも奪えない場所に、隠してあります。けれど、それを、いつ、どこにあると明かすか――それは、信じられる者を、見極めてから、と決めているのです」
「その、信じられる者、とは」
オーレリアは、答えなかった。ただ、静かに、私を、見た。その目が、すべてを、語っていた。
「……勝手なことを、言うようだけれど」と彼女は言った。「あなたを、囮にしておきながら。あなたが、本当に、最後まで、折れずに立てるのか。それを、見届けるまでは、ね」
「試して、いるのですね」
「ええ。ごめんなさいね。でも、これは、一度きりの、戦いだから。やり直しは、利かないの」
私は、うなずいた。怒りは、湧かなかった。むしろ、この人の、用心深さが、ありがたかった。
「ひとつ、約束してください」と私は言った。「すべてが終わったら、王妃さまのお話を、もっと、聞かせて。あなたが、ひとりで、抱えてきたことを」
オーレリアの目が、わずかに、見開かれた。それから、ふっと、やわらいだ。
「……あなたは、不思議な人ね。追われ、疑われ、それでも、人の孤独を、気にかける」
「色を、見る仕事ですから」と私は、微笑んだ。「布の、いちばん薄いところ、いちばん傷んだところに、目が、いくんです。癖、なんです」
「いい、癖だわ」
氷のようだと言われた女官長が、その時、初めて、ほんの少しだけ、笑った。私は、その笑顔を、忘れまいと、思った。
帰り道、私は、セドリックに、すべてを、話した。
「囮、か」と彼は、苦い顔をした。「危険すぎる。何かあれば、私が、君を守る。約束する」
「ありがとう。でも、守られるだけでは、勝てない。こちらからも、動かないと」
私は、ひとつの考えを、温めはじめていた。色で、嘘つきを、炙り出す方法を。
◇
その夜、工房に戻った私は、ひとつの罠を、仕掛けることにした。
工房の手順は、いくつかの段階に分かれている。私は、ある一段階だけ、わざと「偽の手順」を流すことにした。本物には決して使わない、見分けのつく目印を、ひそかに混ぜたのだ。
もし、これと同じ目印が、市場の新しい偽物に現れたら。漏らしているのは、この手順を知る、ごく限られた者――ということになる。
私は、その目印を変えた手順書を、信頼できる数名にだけ、それぞれ、別々の癖を仕込んで、渡した。
誰の手順が外に出たか、癖を見れば、必ず、わかる仕掛けだ。
待つしかなかった。色が、語り出すのを。
数日後。市場の隅で、セドリックが、一枚の布を見つけた。
「これだ。君が言っていた目印が、はっきり出ている」
私は、その布を、光にかざした。仕込んだ目印。そして、その下に、ひとつの、はっきりとした染めの癖。
その癖を、私は、知っていた。痛いほど、よく知っていた。
その癖の手順書を、渡した相手は――たった、ひとりしか、いなかった。
子どもの頃から、いちばん近くにいた、あの人だった。
(違う。何かの、間違いよ)
私は、布を、もう一度、光に透かした。透かせば透かすほど、目印も、癖も、いっそう、はっきりと、浮かび上がるだけだった。
色は、私が見たいものを、見せてはくれない。ただ、在るものを、在るままに、映す。それが、私のいちばん信じてきた、色の、いちばん残酷なところだった。
私の手から、力が抜けた。布が、ひらりと、卓の上に落ちた。




